第十一章 あの日の記憶
ノルド砦に戻った夜、誠一は一人で城壁の上に立っていた。
北の空には、赤い月が浮かんでいた。不吉な色だ、と誠一は思った。
「眠れないのか」
声がして、振り返った。バルトだった。元傭兵の男は、無言で誠一の隣に立った。
「ああ。色々、考えることがあってな」
「例の将軍のことか」
「聞いたのか」
「噂になってる。お前と帝国の将軍が、旧知の仲だって」
「旧知というか……」
誠一は苦笑した。
「上司と部下だったんだ。別の世界で」
「別の世界……お前も、転生者か」
「ああ」
「奴も、同じ世界から来たのか」
「そうだ」
バルトは黙った。しばらく、二人は無言で月を見つめていた。
「どんな奴だった」
やがて、バルトが口を開いた。
「向こうの世界では」
「……最悪の上司だった」
誠一は、ゆっくりと話し始めた。
「毎日、怒鳴られた。『お前は使えない』『代わりはいくらでもいる』『辞めたければ辞めろ』——そういう言葉を、何千回も浴びせられた」
「……」
「無理なスケジュールを押し付けられた。休みは取れない。寝る時間も削られる。それでも、俺は働き続けた」
「なぜだ」
「……怖かったからだ」
誠一は正直に答えた。
「辞めたら、次の仕事が見つかるか分からなかった。四十歳を過ぎた、学歴もスキルもないドライバーを、誰が雇ってくれる? そう思うと、動けなかった」
「それで、十八年も……」
「ああ。十八年間、逃げ続けた。黒崎から逃げられないまま、ただ耐え続けた」
誠一は、自分の手を見つめた。
「最後の日のことは、今でも覚えてる。深夜の高速道路。疲労で、意識が朦朧としていた。目の前がぼやけて、ハンドルを握る手も震えて——」
「事故に遭ったのか」
「ああ。前のトラックに追突して、そのまま——」
誠一は言葉を切った。
「気づいた時には、この世界にいた」
「……」
バルトは黙っていた。何かを考えているようだった。
「俺も、似たようなもんだ」
やがて、バルトが口を開いた。
「傭兵をやっていた頃、俺にも『上官』がいた。残忍で、非情で、部下を使い捨ての駒としか思っていない男だった」
「……」
「俺は、そいつに逆らえなかった。逆らえば殺される。だから、言われるがままに、人を殺した。敵も、味方も、民間人も、関係なく」
「傭兵は、そういう仕事なのか」
「本来は違う。だが、あの上官の下では——そうなった」
バルトは、自分の手を見つめた。
「血だらけの手だ。洗っても洗っても、落ちない血がこびりついている」
「……」
「あの上官は、五年前に死んだ。別の傭兵団との抗争で。俺は、やっと自由になれた。でも——」
バルトは首を振った。
「自由になっても、過去は消えない。殺した人間の顔は、夢に出てくる。声が聞こえる。呪いのように、ずっと」
「……」
「だから、お前の気持ちは、少しは分かる。逃げられない過去。消えないトラウマ。戦い続けなきゃいけない重荷」
バルトは、誠一の肩を叩いた。
「でも、お前は一人じゃない。俺たちがいる。一緒に背負ってやる」
「バルト……」
「感謝の言葉はいらん。お前がくれた仕事は、俺にとって救いだった。人を殺す代わりに、荷物を運ぶ。それで誰かが助かる。そういう仕事を、俺にくれた」
「……」
「だから、今度は俺がお前を助ける番だ。一緒に戦おう、ボス」
バルトは笑った。粗野だが、温かい笑顔だった。
「ありがとう」
誠一は、素直に礼を言った。
「俺、もう少し考えてみる。黒崎と、どう向き合うべきか」
「そうしろ。焦る必要はない」
バルトは城壁から降りていった。
残された誠一は、再び北の空を見上げた。
赤い月は、相変わらず不吉に輝いていた。
「黒崎……」
呟いた。
「お前は、俺に何をした。俺は、お前に何をされた。それを——」
誠一は目を閉じた。
「全部、思い出す」
記憶の扉が、開いていく。
十八年前。
誠一が、あの運送会社に入社した日のことだ。
二十四歳。大学を中退し、いくつかのアルバイトを転々とした後、ようやく見つけた正社員の仕事だった。
「日向くんだね。よろしく」
最初に声をかけてきたのは、黒崎だった。当時は、まだ三十代前半。配車係の一員で、誠一の直属の先輩という位置づけだった。
「よろしくお願いします」
「真面目そうだな。いいことだ。この業界は、真面目な奴が生き残る」
「はい」
「まずは、俺のやり方を見て覚えろ。分からないことがあったら、何でも聞け」
黒崎は、最初は優しかった。
仕事を丁寧に教えてくれた。困った時は相談に乗ってくれた。新人の誠一にとって、黒崎は頼れる先輩だった。
だが、変わり始めたのは、三年目の頃からだった。
黒崎は、配車係長に昇進した。
「俺は、お前とは違う」
昇進が決まった日、黒崎は誠一に言った。
「俺は上に行く人間なんだ。お前は——一生、ドライバー止まりだろうがな」
その時から、黒崎の態度が変わった。
指導は、叱責に変わった。相談は、説教に変わった。優しかった先輩は、傲慢な上司になった。
「何やってんだ、日向!」
荷物を間違えた時、黒崎は怒鳴った。
「お前みたいな無能がいるから、俺の仕事が増えるんだよ!」
「すみません……」
「すみませんじゃねえよ! 次やったら、クビだからな!」
最初は、自分が悪いのだと思った。ミスをした自分が、叱られて当然なのだと。
だが、次第に、それは違うことに気づいた。
黒崎は、誠一だけを標的にしていた。他のドライバーには優しく、誠一にだけ厳しかった。
「なぜ、俺だけ……」
理由は分からなかった。ただ、黒崎は誠一を嫌っていた。それだけは、確かだった。
「お前は使えない」
「代わりはいくらでもいる」
「辞めたければ辞めろ」
毎日、毎日、同じ言葉を浴びせられた。
誠一は、次第に自信を失っていった。
自分は無能なのだ。自分には価値がないのだ。自分は、いなくてもいい存在なのだ。
そう思い込むようになった。
だから、辞められなかった。
辞めたら、もっと惨めになる。どこにも雇ってもらえない。生きていけない。
そう思うと、動けなかった。
結局、十八年間、逃げ続けた。
そして——死んだ。
誠一は、目を開けた。
涙が、頬を伝っていた。
「くそ……」
呟いた。
「俺は……何をやってたんだ」
十八年間、耐えて、耐えて、耐えて——そして死んだ。
何も変わらなかった。何も成し遂げられなかった。ただ、消耗して、壊れて、終わった。
「でも——」
誠一は、拳を握りしめた。
「今は違う」
この世界には、仲間がいる。リーネ、メルダ、ゴルド、バルト、レオン、ソフィア、トム、ナタリー——共に戦ってくれる人たちが。
「俺は、もう逃げない」
誠一は、北の空を睨みつけた。
「黒崎。お前は、俺を壊した。だが、俺は立ち上がった。今度こそ、お前に勝ってやる」
赤い月が、静かに輝いていた。




