毒づく天使と光りすぎた男
地下3階。湿気たコンクリートの壁が、換気扇の鈍い回転音に震えている。メイドカフェ・エデンの裏口。そこは、夢や希望を詰め忘れて出荷されたような少女たちが、時給1050円のために感情をすり潰す場所だ。
メイドのココナは、今日も死んだ魚のような目で、客の食べ残したオムライスのケチャップを拭き取っていた。彼女にとって、このフリルのついた制服はただの作業着であり、猫なで声は喉を痛めるだけの無駄なコストだ。
そんな彼女の仕事には、マニュアルにない工程が一つだけある。
一番隅、14番テーブル。そこには、ココナにしか見えない光るおじさんが座っている。おじさんは言葉を発さない。ただ、全身が工事現場の誘導灯とシャンデリアを混ぜ合わせたような、暴力的なまでの光を放っている。
ココナは無表情のまま、冷めきったコーヒーをおじさんの前に置く。
「お疲れ。これ、持ち出しだから。本当は450円なんだけど、あんた伝票切れないし、幽霊相手に領収書切れるほど私の人生甘くないから」
おじさんは答えず、ただ発光している。
店に、質の悪い客が紛れ込んだ。隠し撮りを指摘された途端、椅子を蹴り飛ばして怒鳴り散らす男。他のメイドが怯えて固まる中、ココナは迷わず男の首根っこを掴み、14番テーブルへと無理やり座らせた。
「ここ、相席でお願いします」
男には見えない。だが、おじさんから溢れ出すマイナス273度の静かな冷気と、網膜を焼くような不自然な光。男は突然、自分の罪を突きつけられたような恐怖に襲われ、震えながら逃げ出していった。
ココナは指の関節を鳴らし、おじさんを睨む。
「あんたも、あんた。あんな風に威勢よく生きてれば、幽霊になんてならなかったのに」
おじさんの光が、心なしか少しだけ弱まった。
夜、レジ締めをしながらココナは思う。このおじさんは、たぶん生前、優しすぎたのだ。誰かに「ありがとう」と言いたかった時、誰かを「好きだ」と言いたかった時。その言葉を飲み込み続けて、喉の奥で発酵して、出口を失った言葉たちが光り輝く重石になって、彼をこの世に繋ぎ止めている。
坂道の途中で転んだ子供を助けられなかった後悔。妻に贈れなかった花束の重さ。それらが全部、彼を眩しくさせている。
ビルの取り壊しが決まった最後の夜。ココナは自分の財布から小銭を出し、店で一番高い豆を挽いた。
「おじさん、これ飲んだら消えて。もうビル壊されるから、あんたの居場所、瓦礫になっちゃうよ」
丁寧に淹れた熱いコーヒーから、白い湯気が立ち上る。それはおじさんの光と混ざり合い、店内に小さなオーロラを作った。
おじさんは初めて、ココナの目を見て微笑んだ。その瞬間、彼の体がパチンと弾ける。
耳鳴りのような音と共に、数えきれないほどのキラキラした光の粒が、ココナの視界を埋め尽くした。それはおじさんが一生かけて貯め込んでしまった、優しい言葉の洪水だった。
「お疲れ様」 「ごめんね」 「君の淹れたコーヒー、本当は熱いうちに飲みたかったよ」
空中に浮かんだ光の文字が、雪のように床に積もる。ココナはそれを、ほうきとチリトリで無造作に掃き集めた。
「無駄に眩しいんだよ。掃除の手間、考えなよ」
翌朝、ココナは新しいバイト先の面接に向かうため、地上へと階段を登る。
ポケットの中で、一つだけ消え残った光の結晶が、カチカチと音を立てていた。彼女はそれを少しだけ眺め、やっぱりゴミだと思って、ゴミ箱の中に放り投げた。
でも、その足取りは、昨日よりほんの少しだけ軽かった。
空は、おじさんの光によく似た、無愛想な朝焼けに染まっている。




