婚約破棄だけは勘弁してください
「申し訳ありませんでした」
昼下がりの生徒会室、私ことカトルカールは、床に額が付きそうな勢いで土下座していた。
サラリと長い金髪が赤い絨毯にかかる。
ああ、汚い……でも今はそんなことを気にしてる場合ではない。
「どうか……婚約破棄だけは勘弁してください」
絨毯の幾何学模様を見つめながら私は震える声で言った。
濃い色だから今まで気づかなかったけど、よく見ると飲み物をこぼしたような小さいシミがある。
時計の針が規則正しく進むほかは何の音もしない部屋の中、婚約者であるリオン王太子の小さいため息が聞こえてきた。
◇
私とリオンは同い年で、ともに全寮制のアカデミーで勉学を修めていた。
そして学園生活も今日で終わりで、卒業後、私はリオンと結婚して王太子妃となる。
このあとに控えている卒業パーティーでも、リオンに手を引いてもらって一緒にダンスを踊るはずだったのに……
なんで、こんなことになったのか。
ことの発端は今朝。
アカデミーの同級生、ラウルの部屋のベッドで、私とラウルが一緒にいるところを噂好きの後輩に目撃されたのだ。
王太子殿下の婚約者が、男子寮に忍び込んで情交にふけっていた。
このスキャンダラスなニュースは卒業前の静かな校内を瞬く間に駆け巡った。
「王太子殿下の女なんてどんなもんかと思ったけど、本当にしょうもない女だった。あんなやつ、遊び相手にもならねえよ」
私とのことについて、ラウルはそう言って笑ったらしい。
◇
「カトルカール、顔を上げて」
静かな声に頭を上げると、リオンは感情の読み取れない目で私を見ていた。
「まず、土下座は好きじゃない。許しを強要されているような気分になる。こっちの顔も見ないで、本心から言っているのかも疑わしい」
淡々とリオンは話す。
きゅっとこぶしを握りしめる。
この人は昔から冷静で、こうやって人を追いつめるような言い方ばかりする。
同い年なのに、親が決めたとはいえいずれは結婚する仲なのに、私はリオンの前にくると萎縮してしまう。
サラサラの黒髪に、切れ長の涼しげな瞳。
整ってはいるがどこか冷たい印象を与える容姿と冷徹な雰囲気が相まって、いつしかリオンは『氷の王太子』と呼ばれるようになった。
生徒会長を務めながらも、リオンはあまり他の学生を寄せ付けない空気をまとっていた。
「言いたいことがあるなら、僕の顔を見て話せよ。ちゃんと聞くから」
私はよろよろと立ち上がると、リオンに促されるまま椅子に腰掛けた。
他に誰もいない部屋の中、テーブルの角を挟んで私とリオンは隣合って座った。
リオンは紅茶を淹れてくれたけど、とても手をつける気にはなれなかった。
「あの、私、昨夜のことは……あまり覚えていなくて」
声が震えて、うまく言葉がつながらない。
顔を見て話せと言われたのにリオンをまっすぐ見れなくて、私はテーブルの上のティーカップを見つめる。
「気づいたら……裸で、ラウルのベッドにいたの」
◇
知り合ったばかりの頃から、ラウルは何かと私にちょっかいを出してきた。
「やっべえ……美人すぎんだろ」
確か、それが一番はじめにかけられた言葉だった。
「いや、本当に、マジでめっちゃ好み。今度どっか行こうよ! 俺、絶対楽しませるから」
こちらの反応も見ずに一方的にまくしたてる様子はやけに下品に見えて、相手をする気にもなれなかった。
貴族の子女が多く集うアカデミーにこんな男がいるのかと、衝撃を受けたのを覚えている。
ラウルの誘いを軽くあしらうのも日常になっていたある日のことだった。
「お前、氷の王太子の女だったんだな」
やけに神妙な顔でラウルが言った。
「ごめん、俺、知らなくて……今まで迷惑だったよな」
何を言うべきかわからず黙っていると、ラウルは「じゃあな、王太子妃」と言って去っていった。
その日からラウルは私のことを『王太子妃』と呼ぶようになって、それはいつのまにか他の学生にも広まっていた。
まだ王太子妃ではないし、まるでリオンの添えものみたいなあだ名は正直少し嫌だったけど、むきになって否定するほどでもなかったのでそのままにしていた。
「俺、卒業したら船乗りになるんだ」
いつだったか、ラウルが言っていた。
「家は兄貴が継ぐからさ、俺は海に出て、新しい世界を探しにいくんだ」
「海の向こうって、何があるの?」
私の問いにラウルは笑った。
「何があるかわからないから、探しに行くんだろ? 地上がすべて黄金でできている国とか、もしかしたら一年中春が続く国なんかもあるかもしれない」
そんなものだろうか……私は一生懸命に海のことを語るラウルの話をただ聞いていた。
「海に出るにはな、食料とか武器はもちろん必要だけど、もっと大事なものがあるんだ」
ラウルの声にいっそう力がこもる。
「女だ! やっぱり船にはとびきり上等の女を積まないと始まらないだろ」
船に、積むだって?
女性を物か何かだとでも思っているんだろうか。
なんて粗暴な男なんだろう……少し、不愉快な気分になった。
◇
「嫌なら、無理して話さなくていい」
静かな声でリオンが言った。
おそるおそる顔を上げると、リオンはまっすぐ私を見ていた。
切れ長の瞳は、まるで心の奥底まで見透かしているようだ。
「ううん、大丈夫」
私は軽く息を吸って呼吸を整えると、再び口を開いた。
「昨日、その、女子だけのパーティーがあって、卒業の前夜祭ってことで」
手が震えるのを胸の前で組んで抑える。
相変わらず、リオンはじっと私を見ている。
「そこで、ミルフィーユから飲み物を渡されたの。それを飲んでから、急に意識が曖昧になって」
また、声が震えてしまう。
聞いたところによると、ミルフィーユの言い分はこうだ。
「いやさ、あの女いっつもお高くとまってて可愛げのかけらもないだろ? 酒でも飲めばちょっとは可愛らしくなるかと思ってあたしのスペシャルドリンクをご馳走したんだよ。そしたらさ、なんか気分悪くなっちゃったみたいだから、あたしがやさしーく介抱してベッドまで運んであげたの。まあ、なんだ……今考えると、ちょっと部屋間違えちゃったかもしれないんだけど、まあ、あたしも酔ってたし」
「ミルフィーユって、あの転入生か?」
リオンの顔に少し緊張が浮かんだ。
もしかしたら、私とミルフィーユのことをどこかで聞いたのかもしれない。
◇
ミルフィーユは平民だ。
別にそれ自体は珍しいことではない。
アカデミーはもともと貴族の子女のために開かれたものだけど、時代が変わるにつれ少しずつではあるが、平民も受け入れるようになっていた。
ただ、アカデミーに来るような子女は平民の中でも裕福な家の出身で、貴族社会で浮かないよう家庭教師をつけたりして、貴族以上に礼儀作法を習得していることも多い。
ミルフィーユは、本当に何もかもが異色だった。
下町の酒場の娘だったミルフィーユは、酔客相手に弾いていたオルガンの腕をある貴族に見出されてアカデミーに来た。
なんでも、音楽の本場に行くために外国語と教養を身につけるとかそんな感じの理由だった。
ミルフィーユは外国語どころか、自分の名前すら書けなかった。
それに行儀作法はおろか、平気でドタドタ音を立てて走るし、言葉づかいはガサツで声は大きいし、それを直す気もない。
それでいて容姿は愛らしく、『おもしれー女』枠なのか何なのか、男子と気軽に話す様子は女子からの反感を集めるのに時間はかからなかった。
あの日も、私は数人の友人と遠巻きにミルフィーユを見ていた。
女子の中で、ミルフィーユの悪口を言うのが空気になっていたというか、そんなノリで……いや、違う、私はあの日、はっきりと彼女を侮辱した。
「あら、あの方、今日はおひとりなのね、珍しいわ」
友人がミルフィーユをチラリと一瞥して、次はお前の番だとでも言いたげに私を見た。
私も、意地悪な視線をミルフィーユに向けながら言った。
「やっぱり育ちなのかしら、男性にばっかり媚を売って、まるで娼婦ね」
なぜそんなことを言ったのだろう。
もしかしたら、その前日にミルフィーユと楽しげに話すラウルを見たので、イラついてたのかもしれない。
ミルフィーユはばっとこちらを睨むと、すごい勢いで走り寄ってきた。
「てめえ、いい加減にしろよ!」
殺されそうなほどの剣幕に思わず身がすくむ。
「あのな、言いたいことがあるんなら面と向かってはっきり言え! 大体お前らどんだけ偉いんだよ! 自分の力で貴族になったわけでもねえくせによ!」
ミルフィーユは怒りが治まらない様子でしばらく獣のように荒い息をしていたけど、小さく舌打ちをして去っていった。
横で友達が「怖あ……」と小さく言うのが聞こえた。
◇
「君と彼女とのことで、妙な噂を聞いたんだ」
静かな声でリオンが言った。
なんだろう……どうせろくでもない噂なんだろうけど、リオンがそんな噂を気にしているのは意外だった。
「君が、彼女を階段から突き落としたって」
「そんなことしてないわ」
私がはっきり答えると、リオンは頷いた。
「そうだよな、君がそんな乱暴なことをするとは思えない」
本当に、噂なんて面白おかしく広がるものだ。
落としたのは木からだ。
もっと言うと、堕とされたのは私だ。
◇
午後の日差しを受けて、ニレの葉が黄金色に光っていた。
まだ細い幹を思いっきり蹴飛ばして揺らすと、木の上にいたミルフィーユが落ちてきた。
「あ、ああ頭おかしいのかてめえ! マジでシャレにならねえ、手ぇ怪我したらどうするんだよこのクソ女」
なんかわめいているミルフィーユに私は言った。
「だって私、木登りできないんだもの。下りてきてもらうしかないでしょう」
「口で言え! 口で! 殺すぞ」
相変わらず口が悪いな。
私はミルフィーユに向き合うと頭を下げた。
「この間はごめんなさい、とても、失礼なことを言ったわ」
「いや、あたしはどっちかっつうと今の狼藉を謝って欲しいんだけど」
ぶつくさ言うミルフィーユの横に私は腰を下ろした。
「ミルフィーユに言われたでしょ、自分の力で貴族になったわけじゃないって」
金色の落ち葉を見ながら、私はため息をついた。
「でも、私だって好きで貴族に生まれたわけじゃないのよ」
公爵家に生まれて、小さいときから未来の王太子妃として育てられて、そこに私の意思はない。
それが、当たり前だと思っていた。
疑問を持ったことなんてなかったのに。
ミルフィーユはしばらく私を見ていたけど、不意に立ち上がった。
「お前、ちょっとツラ貸せ」
ミルフィーユに連れられて行ったのは古い礼拝堂だった。
アカデミーの敷地内ではあるけど、普段は施錠されている。
「鍵がかかってるわよ」
私が言うと、ミルフィーユは髪を留めていたピンを引き抜いた。
「こんな鍵、2秒もあれば楽勝だぜ」
言うが早いか、ミルフィーユはピンを鍵穴に差し込むと、簡単に錠前を外してしまった。
「すごい……あなたって本当に育ちが悪いのね、まるでコソ泥だわ」
「うるせえクソ女、殺すぞ」
礼拝堂の中にはゆるく日差しが差し込んでいた。
正面には、荘厳なパイプオルガンが天窓からの光を受けてキラキラ輝いていた。
「大サービスだ、心して聴けよ」
ミルフィーユは軽やかに階段を駆け上がってパイプオルガンの前に座ると、踊るように音を響かせ始めた。
それは、信じられないくらい優しくて、温かくて、すうっと私の中に入り込んで内側から心を揺さぶっていくような音色だった。
はじめて聴いたのに、どこか懐かしい……まるで、ずっと昔に失くしてしまった宝物を目の前に差し出されたような気分だった。
ミルフィーユが演奏を終えたとき、私は涙を流していた。
階段を下りながら、ミルフィーユは満足そうに笑った。
「ああ、またひとり、虜にしてしまったか」
私はちょっと照れて、涙を拭いながら言った。
「すごく、素敵だった。なんていう曲なの?」
ミルフィーユはこともなげに言った。
「今作った。これ、お前の曲な。タイトルはド腐れビッチ」
私のための曲……胸がぎゅっと熱くなる。
今まで生きてきた中で、いちばん嬉しいプレゼントだった。
タイトルの意味はよくわからないけど、ミルフィーユのことだし、おそらく下品な言葉なんだろう。
「ありがとう……すごく嬉しい、ありがとう」
私がミルフィーユのオルガンを聴いたのは、後にも先にもその一回きりだ。
「最高にうまいサバランの食べ方を教えてやる」
卒業も近づいたある日、寮の部屋でミルフィーユは言った。
手にはラム酒の瓶を持っている。
「こうやって、追いラムだあー!」
楽しそうに言うと、ミルフィーユはサバランが浸るほどラム酒をかけた。
「大量にかければ良いってのがもう下賤の発想なのよね。こんな下品な姿にされてサバランが可哀想」
「下賤なめんな、ほら、食ってみろよ」
ひと口サバランを食べると、すっかり柔らかくなったブリオッシュからラム酒がじわりと染み出してきた。
「あ、美味しい」
「だろ? もっとジャンジャンかけるぜ」
ふやけきってラム酒なのかサバランなのかよくわからなくなったものを大量に食べて、いつしか私たちはめちゃくちゃに酔っ払っていた。
「あたしさ、オルガンは好きだし、実際あたしの腕は世界の宝だと思ってるんだけどさ、結局は貴族様のお遊びで金出してもらって、そいつの気が変わったらもう詰みだから……みじめなもんよ」
「えー、そんなこと言われたら私の方がマジで何もないよ。貴族の娘なんて綺麗にしててもさ、結局家のための道具みたいなものだし、好きな人に好きって言うこともできない」
「なに、あいつ、えーと、氷の王太子殿下は嫌なの?」
「嫌っていうかさ、その、私、ラウルが好きなの」
誰にも話すつもりのなかった言葉が、するりと口から転がり出てきた。
ミルフィーユは一瞬きょとんとなったあと、爆笑した。
「ラウル! お前あいつに惚れてんの? マジで?」
「ああー! 笑うなよお」
私は皿に残ったラム酒を喉に流し込んだ。
お酒のせいか顔が熱い。
「いや、絶対王太子殿下のほうがいいって……船乗りの妻なんて苦労するし、しかもあいつ世間知らずのボンボンだし、どうせ水夫の荒くれ共を扱いきれなくて泣いて帰ってくるって」
「うわあー! でも好きになっちゃったんだもん、仕方ないじゃん」
駄々っ子のような私を見ながらミルフィーユは楽しそうに笑った。
「なあ、そんなにあのボンクラが好きなら、ひと肌脱いでやってもいいぞ。好きな男に抱かれるってのが女の幸せらしいからな」
卒業式の前日、私たちはパーティーで浮かれる女子寮をそっと抜け出した。
「ミルフィーユ、あなたってやっぱり下層民なのね。制服よりもそっちの方がずっと似合っていてよ」
「うるせえ売女! このまま焼却炉にぶち込んでやってもいいんだぞ」
下女の服装をしたミルフィーユの横で、私は台車に乗せられた木箱にもぐりこんだ。
このまま荷物に紛れて男子寮のラウルの部屋に忍び込む作戦だ。
かなり大胆な方法だけど、卒業前で人や荷物の出入りが多い今ならあまり怪しまれることもないだろう。
「じゃあな! うまくやれよ」
どこかで飲み会でもしてるのか、空のラウルの部屋に私を放り込むと、ミルフィーユはさっさと出て行った。
まさか、これがミルフィーユとの最後の会話になるなんて思ってもいなかった。
◇
荷物がほとんどなくて、ベッドと身の回りのものを残すのみになった部屋……壁には制服がかけられている。
遠くで男子学生が騒いでる声が聞こえてきた。
夜も深まってきた頃、ラウルが部屋へ帰ってきた。
お酒を飲んだのか、少し顔の赤くなった彼はベッドの上でくつろぐ私を2度見した。
「飲みすぎたかな……なんか変なものが見えるんだけど」
部屋のドアを閉めて立ち尽くすラウルを、私はまっすぐ見つめた。
「ねえ、ラウル……お願いがあるの」
すうっと息を吸い込む。
「私を、ラウルの船に積んで!」
言った……心臓がドキドキしすぎて、息がうまくできなくて、苦しい。
「な……え、えええ?」
ラウルは後ずさると、ドアに背中をぶつけた。
「とびきり上等の女を積むんでしょ? わ、私を、連れて行きなさいよ!」
緊張なのか興奮なのか、呼吸が荒くなる。
おそらく、顔は真っ赤になっているんだろう。
「待て待て待て、落ち着け」
ラウルは首を振ると、すっかり酔いの覚めた顔で言った。
「そんな危険物、積めるわけないだろ」
「なんで!」
ラウルはゆっくりとこちらに来ると、ベッドに腰掛けた。
「だってお前、王太子妃だろ?」
ぐっと、胸が苦しくなる。
「違う! 今はまだ、ただの女、ただ、ラウルが好きなだけの女よ」
私を見つめるラウルの目が切なそうに揺れる。
「違うんだよ……その、確かに俺はお前のことが好きだし、綺麗だと、本当に世界で一番綺麗だと思うけど、王太子妃を盗んで逃げることなんて俺にはできないし、そんなことをしたらこの社会にだっていられなくなるだろ」
ラウルはやるせなさそうにため息をついた。
「ごめんな、俺は結局、貴族のお坊ちゃんでしかないんだ。好きな女をさらって逃げる勇気も、貴族の世界から抜け出してお前を幸せにする自信もない」
私はぎゅっと唇をつぐむ。
わかっている。
そんなこと私だってとっくにわかりきっている。
綺麗な格好をして、アカデミーに通って、チヤホヤされるのは私が王太子妃になるからだ。
貴族の娘なんて結局のところ家をつなぐための道具でしかなくて、自由なんて何ひとつ許されてはいない。
そして、そこから外れて生きていくほどの強さだって持ち合わせてはいない。
私は、ミルフィーユにはなれないのだ。
それならいっそ、心なんてなければいいのに、本当に、ただの道具みたいに感情なんてなければよかったのに。
なんでこんなに惹かれてしまうんだろう。
ラウルに会いたくて、話したくて、一緒にいたくて、触れたくて、触れたくて、触れたくて、触れたくて。
なんでこんな、内側から全てを燃やし尽くすような激しい情熱が私の中にあるんだろう。
「私、ラウルが好きなの! 好きで好きで好きでもうどうしようもないの」
火をつけたのは、ラウルではなかったのか。
体が熱くて、苦しい。
まるで、心の中身をすべて出し切ってしまったみたいだ。
ラウルは目を見開いて私を見ていたが、やり切れなさそうに下を向くと、言った。
「ごめんな」
しぼり出すような声だった。
「立派な、王太子妃になってくれ」
時計の針の音が妙に響く。
私は、ゆっくりとラウルに背を向けて壁を見つめた。
「私、帰る」
ラウルのため息が聞こえてきた。
「送るよ」
「大丈夫、ひとりで帰れる」
無表情な白い壁は、これまでどれだけの学生を見てきたのだろうか。
この部屋で、どれだけの物語を見てきたのだろうか。
「最後にさ、お願いがあるの」
今、ラウルはどんな顔をしているんだろう。
悲しそうにうつむいているんだろうか、それとも、やっとこの場が収まったと安心しているんだろうか。
「私の、名前を呼んで」
きゅっとシーツを握りしめて、目を閉じる。
静かな部屋、聞こえるのは時を刻む音ばかりだ。
「カトルカール」
ラウルの声が、空気を震わせる。
今まで聞いたことのないような、優しい声だった。
「もう一回」
「カトルカール」
ため息が出そうになる。
ラウルの声は私の中にじわりと染み込んで、心の奥を優しく撫でていくようだった。
「もう一回」
「カトルカール」
言い終わる前に、私は振り向いた。
ラウルは、今にも泣き出しそうなほど切ない目で私を見ていた。
私は少し顎を上に向けて目を閉じる。
そうすることが、とても自然な気がした。
ラウルは私の両肩をぎゅっと握ると、唇に喰らい付いた。
◇
こんな夜が、私の人生にあるなんて思わなかった。
ラウルの唇が触れるたび、ラウルの腕に抱きしめられるたびに、私の中からとめどなく嬉しさがあふれ出してくる。
こんな幸せな夜があるなんて知らなかった。
ひと晩だけでいい、十分だ。
今の、この嬉しさを全身で噛みしめて、夜が明ける前に部屋に戻ろう。
カトルカールから王太子妃に戻ろう。
そして、卒業パーティーではリオンとダンスを踊ろう。
大丈夫、私は強くなれる。
全身でラウルを感じながら、私は確かに王太子妃として生きていく、明日へ踏み出していく覚悟を決めた。
はずだったのに。
この全てが制御不能な夜で、いちばん想定外のことが起こった。
ラウルの腕の中が心地良すぎて、私はすっかり寝過ごしてしまったのだ。
◇
「おい、起きろ」
夢の続きのように、ぼんやりと目を開けると困ったように笑うラウルの顔があった。
「おはよう」
なんだか嬉しくなって私はラウルに笑顔を向ける。
「ああ……おはよう」
ラウルは私の顔にかかった髪を指先で払って、軽くキスをすると時計を見た。
「まずいことになったぞ」
ラウルの視線を追って時計を見たら、眠っていた頭が一気に回り出した。
無表情に動く時計の針は、卒業式の15分前を指していた。
これは……なんというか。
「とりあえず、人がいない時間を見はからって……」
ラウルが言いかけたとき、部屋のドアが勢いよく開いた。
「せんぱーい!」
4人ほど、後輩の女子学生が元気よく入ってきた。
「卒業おめで……」
いちばん先頭にいた女の子は、裸のままベッドの上で呆然としている私たちを見て固まった。
ドサッと、手にしていたプレゼントボックスが床に落ちる。
「どうしたの?」
ひょいと後ろにいた女の子が顔を出した。
「え、えええええ!」
女の子たちは顔を見合わせると、何も言わずに部屋を出て行った。
「みんなには内緒にしておいてもらえるかな」
とっさに言う機転も、スキャンダルの面白さに勝るほどの人望も、私は持ちあわせていなかった。
思考がうまく回らない私の肩にそっとラウルの手が置かれた。
「カトルカール……お前は何も心配しなくていい」
どくん、と心臓が鳴った。
私はその時……昨夜、王太子妃として生きる決意を固めたにもかかわらず、こうなったらお前も来いと、俺の船に乗れと言ってくれるんじゃないのかと、本当に、こんな状況にもかかわらず、心のどこかで期待していた。
次の言葉で、一瞬の期待は砂のように崩れ去る。
「全部、俺が悪かったことにする」
肩に置かれた手にぎゅっと力が入った。
「お前は何も心配しないで……殿下のところに戻れ」
◇
「ごめんなさい」
うなだれる私に、リオンは静かに言った。
「謝らなくていい」
リオンは小さく息を吐く。
「それより、君は大丈夫なのか?」
顔を上げると、リオンはまっすぐにこちらを見ていた。
「つらい目に遭ったんだろう……そんな、君が謝るようなことじゃない」
リオンは立ち上がると、覆いかぶさるように私を抱きしめた。
『氷の王太子』の腕の中は驚くほどあたたかかった。
「ごめんな……守れなくて」
気づいたら私の両頬は涙で濡れていた。
犯した罪をラウルとミルフィーユに被せて、こうしてのうのうと裏切った男の温もりに包まれている。
私はこれからも、こうやって嘘を重ねて生きていくのだろうか。
「ごめんなさい」
私がつぶやくと、抱きしめるリオンの腕に少しだけ力が入った。
時計の針が規則正しい音を立てる。
卒業パーティーは、まだ始まらない。
おしまい
最後まで読んで下さって本当にありがとうございます。
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