ナオ・ホルー
ホルー家の始まりは今より約百年以上前、空に大虹掛かる『大渡り』という現象に人々が落ち着きを取り戻した頃。
当時ツムリの街と言えば、第一に挙がったガグン魔法学園。
この世界──ロマエンガ大陸の魔法の才を集めた、人が人のまま魔法の研鑽を積む最高機関とされたその場所にて、未曾有の大規模実験事故が発生した。
『大渡り』によって消失したルールルーという小鳥をこの地に蘇らせるために、ある魔法使いが考案したとされる生物再現魔法。
その最終段階。巨大魔法理論に生じた、ほんの小さな、指先程度でしかなかった綻びは、生まれ出でるはずであったルールルーを魔力で腐らせ、人を蝕む毒となって街中へと充満した。
当時の魔法技術では除去しきれないほど、高濃度の有害魔力物質。
あっという間に街を呑み込み、一日とかからずツムリという街を壊滅させ、向こう百年は人の立ち入れない不毛の土地へと変わってしまう──そのはずだった。
その危機を救ったのが、当時流れの新参者であったマギアという男と四人の従者、計五人の魔法使い。
一人は自らが跨ぐ長い箒と共に空へと舞い、風と共に街に有害魔法物質を空へと集めた。
一人は自らの声の大きさを利用し、混乱に陥った人々に希望と安心をもたらした。
一人はその怪力と剣技を活かし、多くの人々を街の倒壊から救い、再建に尽力した。
一人は空へと集められた有害魔法物質を空間に穴を開け、空気に残る害と共に完全に消失させた。
そして最後の一人、彼らの頭目たるマギアはツムリの街に天幕という技術を与え、二度とこのような事故で人の命が失われないように貢献した。
それが魔力汚染事故。
街を救った五人の流浪の魔法使いを末代まで讃え、新たなツムリの始動となった魔法事故。
ツムリを魔法から学びの街へと変えた、ガグン魔法学園史上最悪と戒められた大災害の全貌である。
けれど歴史の裏、事件の真実を人々は知らない。
既に歴史から名を消された魔法使いが誰に唆され、生命を造る過程に生じる致命的な穴の実験台とし、崇高であった魔法使いの理念さえも踏みにじった黒幕がいたという事実さえも。
歴史の陰に埋もれ、やがて称賛と栄誉と手に入れたその男の名はガンテ・ホルー。
ホルー家初代当主にして、悲願である『世界の穴』の開通のために『鍵』と成り得る人造生命を創造しようとするも届くなく、自らの夢を子孫へと託し、人のままに生涯を終えた魔法使いである。
薄暗い部屋の中でさえ色濃く浮き出そうなほどに、真っ黒な木製の柩。
ナオとその父親を呑み込み、魔法を発動させたその柩の中に満たされる黒は、先ほどのものでさえ淡く見えてしまうほどの底なしの沼のようだった。
「……末恐ろしいものだ。どんな思考と可能性を掛け合わせれば、こんなものを開くに至るというのか。まったく、これだから人間というものは、つくづく魔女の外へいける恐れ知らずよ」
ヒコさんはゆっくりと、自らの真っ白な手が汚れるのを意に介さないとばかりに黒へと手を入れる。
柩の中の黒は入ってきたヒコさんの手によって波紋を走らせながら、何も起きることはなく。
やがて黒から手を取り出したヒコさんが、これみよがしに親指と人差し指を擦って感触を確かめていく。
先ほどまで柩の中へ満たされていた黒とは異なり、欠片の粘り気のない、するりと指先からすり抜ける様はまるで水のよう。
柩の中の表面も泥というよりは水面に近く、意を決してヒコさんと同じように手を入れてみれば、手に伝わるのは水ですらない、空を掴むかのように何もないという感触だけだった。
「これは、一体……?」
「……例えば私の『穴』は自分で構築した独立空間をそう名称づけているだけだが、これは名だけたまたま重なった、まさしく『穴』と呼ぶべき産物だ。基盤である『柩』に『世界』の外ですらない、もっと異なる、命さえ存在しない場所へと繋がる穴。今はまだ安定しているようだが、いずれは開いているだけでこの世をズラし、やがては致命的に破綻させるだろうよ」
ヒコさんはどこからか取り出したハンカチで自らの手を拭きながら、そんな風に説明してくる。
「……この先には、何があるんだ?」
「さあな。世界の外ですらない何か、どこでもないどこか、どこでもない生も死もない虚無。ま、好きに考えてみるといい。どうせ今、答えが出ることはないのだから」
そう吐き捨てたヒコさんは、ハンカチを適当に投げ捨て、白い木の枝──トネリコの『杖』を取り出して魔法を発動しようとしたので、その手が振り下ろされる前に手首を優しく掴む。
「なにをしている? 壊すか閉じるか。酷く面倒だが、それでもやってやろうというのに」
「ナオは、ナオはどうなるんです。このままどうにかして、それでナオは──」
「諦めろ、どのみち数日程度の付き合いしかない小娘だ。お目当ての本だって屋敷を探せばすぐに見つかるだろうさ」
そうして俺の手を振り払おうとして、それでも俺は手を離すまいとしっかりと。
けれども今はマッチョなので、ヒコさんの手に余計な怪我をさせない塩梅で掴み。
更には魔法まで発動させて振り払おうとしてきたので、それさえも内の魔力を迸らせ、強引に弾いて握り続ける。
そうしてじとりと、火花さえ散りそうなほど睨み合うこと数秒。
やがて諦めたように魔力を収めたヒコさんは、大きなため息と共に、刺すような視線を疑問の日T身へと変えて見上げてきた。
「……はあっ、どうしてあの娘にこだわる。絆されたか。それともまさか、私より好みとでも言うまいな? あの小娘が夢より大事な女などと宣うのなら、それはもう酷い癇癪を起こすぞ? 本当だぞ?」
「何言ってるの?」
訳の分からないことを言い始めるヒコさんに戸惑いながら、違うと否定しながら首を振る。
ヒコさんの癇癪とか想像さえしたくない。国一つくらいなら簡単に巻き込んでしまいそうだしな。
「少しだけ、ナオはちょっぴりだけど、どこか俺に似ていたんだ。人としては最低だけど、ちっぽけだった世界を開いてくれた魔女に出会う前のつまらない俺に。だから俺もヒコさんと……あの日俺の世界を広げてくれた、魔女ヒニグのようにしてみたくなった。それだけだよ」
闇雲に鍛練を重ね、何の成果も生み出せず、一歩たりとも進めなかったあの頃。
村の誰もが俺の夢を肯定せず、無知と笑い、無謀と呆れ、無理だと諭してきたあの頃。
マジカルチ◯ポなんてないのだと、自分ではどう頑張ったって手は届かないのだと、自らが夢を諦めるべきと問いかけてきたあの頃。
誰もいない草原で、ぼんやりと無力さに苛まれながら寝転がっていたあの日。
青い空から目の前に落ちてきて、俺の夢を笑いながらも肯定してくれた、本当に綺麗な銀の髪の魔女。
あの日の彼女のように、俺も俺と同じように未来の塞がれた人造生命。
可能性さえ提示されなかった茶髪の彼女に、どうか一つの選択肢を与えてやりたいと、そう思ったんだ。
「……」
「……」
「…………」
「………ああもう! なら勝手にしろ、私はもう知らん! 馬鹿マニス、ばか、う゛ぁーかっ!」
何秒も何秒も、永遠に思えるくらい見つめ合った後。
勝手にしろとばかりに俺の手を振り払ったヒコさんは、乱雑に『杖』を一振りしてから、ふて腐れるように床へと横になってしまう。
「ありがとうございます。駄目そうだったら、すぐに閉じちゃって欲しいです」
「言われなくともそうするに決まってるだろ! ほらさっさと行け、行ってしまえ馬鹿マニス!」
俺の方を向かず、声を荒げてくるヒコさんに礼をしてから、柩へと向き直す。
大きく一呼吸し、お風呂へ入るみたいな軽さで黒へと飛び込んでみれば、そこに広がるのは無。
どこまでも深く、どこまでも広く、けれど何もない黒だけの空間。
……いや、恐らく、黒に見えるだけで実際は黒ですらないのかもしれない。
完全な無の世界。
何もないに満たされただけの、何もないだけがある世界。
自分と世界の境界さえ曖昧になりそうな、生命の息吹がまるで見られない、もしかしたらヒコさんの願いを叶えてくれるかもしれない世界。
そんな世界の中を、俺は俺を見失わないと確信しながら、ただ真っ直ぐに進んでいく。
無尽蔵と言える魔力のおかげでもあるのだろう。世界最強とヒコさんが言った『杖』──マジカルチ◯ポ(全年齢版)のおかげでもあるのだろう。魂に刻まれた、ヒコさんとの繋がりのおかげでもあるのだろう。
けれどそうじゃない。それだけではきっとない。
夢。あの日夢見た、本物のマジカルチ◯ポを手に入れるという自分だけの夢。
それこそがこの身の、心の、魂の存在を証明してくれる。この夢がある限り、俺はどんな世界でも俺であれる。自分に恥じない自分であれる、そんな確信が酷く心地良かった。
『嗚呼、嗚呼、どこだ、どこだ、嗚呼、●●●、●●……』
耳を澄まさずとも、目を凝らさずとも、そこに存在を知覚する。
悍ましいほど黒の汚泥。無の中を彷徨う、無に呑まれかけたナオの父親の妄執の残滓が形となったもの。
最早自我はなく、意志もなく、命もない願いだけの木偶人形。
それでも存在を保っていられるのは、その汚泥の中にナオがいるから。ナオという生命を核とした故に、辛うじてだが無と有の境となっているのだ。
それは未練であり、嗟であり、執着であり、けれども強い人の愛。
きっとあの男も何かを求め、人の道を外れ、それでも諦められずこうして辿り着いたのだろう。
それを否定したりはしない。同じ夢のために生きる者として、むしろ敬意すら払おう。
だが、それとナオは別だ。
俺が用のあるのはナオだけ。だから大人しく、こんな無意味な場所から取り返させてもらうとしよう。
「ナオ、無事か! 無事なら声を上げてくれ、マニスはここにいるぞ!」
「……マニス、さん」
腹の底から声を張り上げて、この真っ黒なだけの空間を切り裂くほどに彼女の名を叫んで呼ぶ。
何度も何度も、そこにいるはずだと名を叫べば、この鋭い聴覚が黒い汚泥の中心であろう場所からナオの小さな声を拾ってくれた。
「逃げて、逃げてくださいです。わたしのことはもう、放っておいて欲しい、です……」
「そうして欲しいならそうするけどナオ、君は本当にそれでいいのか?」
泳ぐように近づいていくと、ナオは生きる意志の欠けた弱々しい声で俺を拒んでくる。
もう何もかもを諦めたような声。生きる目的を失ったみたいな、あの日悩んでいた俺と同じ声色。
「俺は君の人生に興味なんてない。ここで終わらせたって、明日には思い出で終わってしまう。──だから自分で決めろ。自分で生きるか死ぬかを決めるんだ、ナオ・ホルー」
だから問う。あの日世界を変えてくれた魔女の微笑みのように、俺はこの子に選択を迫る。
ホルー家の落ちこぼれでもなく、造られただけの生命にでもなく。
目の前にいる茶髪の少女、俺に少しだけ似ていた一人の少女、ナオ・ホルーに。真っ直ぐと。
「わたしが、自分で……?」
「そうだ。自分の人生を決められるのはいつだって自分だけだ。踏み出すか立ち止まるか、全部君次第なんだ。他でもない君だけが、君にとっての本物なんだから」
それは彼女に訴えかけるようで、けれどもどこか自分へ刻み直すみたいだと。
言い終えてすぐ、そんな魔女の弟子らしくない人らしい心を実感しながら、少しだけ口元が緩んでしまうのを自覚する。
そうだ、その通りだ。
本物の、俺が納得出来る理想のマジカルチ◯ポを手に入れるための人生が何よりも俺である。
そのために生きて、そのために費やして、そのために死ぬ。それが俺にとっての本物なのだ。
……嗚呼、たまには原点回帰というのも悪くない。むしろ夢のためには、たまにしていくべきだな。
「……たい」
「……うん」
「生きたい、生きたいです……!! わたしも、わたしだって、どこへだって自分の足で進める、旅人のように……!」
「そうか、それが君の答えなんだな。分かったよ」
決して大きくないけれど、確かに彼女の意志で、自分のためだけに吐かれた意志。
造られた生命の役割から外れた欲望。それはまさに、彼女の生きたいという叫びそのものだった。
──よく言った、よく願った。
ならばその願い、俺は喜んで全力で、この力のままに応えよう。
だから邪魔だ、ナオの父親であったものよ。例えそうでなかったとしても、お前も一人の親であったのなら、せめて作った娘の門出を祝ってやってくれよ。
彼女の応えるように力を込めて、己の魔力を限界まで高めていく。
俺を形作る己が筋肉を燃やす感覚。充ち満ちていく魔力が目的を持っていく不思議な感覚。
まるで一本の杖に指揮されるかのように、この膨大な魔力の意味は定まり、やがて拳一つに収束される。
自分が今、どうなっているは分からない。
けれども今、やるべきことは分かっている。ナオを解き放つべく、強く強く放つのみ──。
極限にまで圧縮された魔力は、前に突き出された拳を飛び出して突き進んでいく。
無という黒を切り裂くように、世界を奔る黄金の光。
それは瞬き一回よりも早く、輪郭不確かな巨大汚泥の下へと到達し、中へと溶け込んだ瞬間、一気に膨れあがり破裂する。
光は正確に、そうあるべきとナオだけを傷つけずに汚泥を消し払い。
解放されたナオを抱きかかえ、無の世界に残る光の中をゆっくりと、元の世界への入り口へと向かっていく。
『嗚呼、●●●、●●、ナオ……』
「ナオ、父親に別れの言葉を」
「……はい、です。さようならお父さん。わたし欠陥品かもしれないけど、それでも、精一杯生きてみせますから……!!」
崩れ去る汚泥。ナオにとっては父親であったもの、その残滓。
辛うじて紡がれていた情の塊が解け、虚無の黒へと混ざりゆく最中をナオはこの空間を去るまでの間、涙を流しながらじっと見つめていた。
そうして水の中から飛び出すように、黒を飛び散らせながら無事に地上へと帰還を果たす。
ほんの僅かな間しか離れていなかったはずなのに、随分と久しぶりに感じてしまう元の世界。
大きく息を吸えば、全身へ巡る空気は驚くほど清らか。
あの黒い世界とはまるで違う、地下で決して澄んでなどいないはずなのに、美しい自然の中にいるかのような澄み切った空気の感覚は、自分が戻ってこれたのだと体が追いついていくようだった。
「すう、すう……」
緊張の糸が切れたのか、腕の中ですやすやと眠るナオ。
あどけない顔つきに憑き物など見られず。少し目を腫らしているが、それでも穏やかな寝顔。
先の魔力解放でマッスルタイムは終了してしまったらしく。
自分よりも大きい背丈の少女を支えるのに苦労しながら、決して起こすまいと優しく床へ寝かしていった。
「お、やっと帰ってきたな。あんまりに遅いから、閉じてしまおうかと思ったよ」
「……どのくらい経ってたんです?」
「そうさな。昇りきった月も落ち始め、軽く眠ってもなお状況は変わっていなかったくらいか。残念ながら、私の夕食が完全に潰れたのが確定してしまったな」
今日は魚料理の気分だったというのに、と。
こちらの帰還に気付いたヒコさんは、寝そべっていた状態からのそりと体を起こし、欠伸をしながら体をこちらへ向けてくる。
「それで首尾は……上手くいったようだな。あれほど大言宣ったのだから、そうでなくては困るがな」
「もちろん。だって俺は、あの日のヒコさんのようになりたくて、こうしたんだから」
じとりと、いつも通りの気怠そうな目で上から下まで確認してきた後。
俺の答えに軽く鼻を鳴らして顔を逸らしたヒコさんは、相変わらずの苦言を呈しながら立ち上がり、俺の頭をわしゃわしゃと掻き撫でながら通り過ぎ、柩の下へと歩いていってしまう。
あー疲れた。もう寝ちゃいたいくらいにへとへとだよ。
この街では普通に観光するつもりだったってのに、こんな明日には別れる少女のせいで、随分とらしくないことをさせられたものだ。
……ま、たまには善人気取りも悪くはない。こんなマジカルチ◯ポに何の関係もない、何の徳にもならない気持ちよさそうな寝顔だけが報酬だけど、ちょっと憧れの魔女になれたみたいで楽しかったな。




