表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

咲くは香の代償 ―NESTの系譜―

シリーズ作品、香牢の末裔たちのお話になります。

シリーズ未読でも読めるとは思いますが、BLにつきご注意下さい。

どこか白く煙る空間の中で、

誰かの声が聞こえた。


「香らせるには──キスを、してください」


Nest(ネスト) は、唇から伝えるものです。

あなたの口で、証明してごらんなさい」


その声に抗えず、おれは夢の中で誰かに唇を重ねていた。


誰かの、顔がはっきり見えない。

でも、濡れた口の感触と、口の中に広がる柑橘に似た甘い香りだけが、

強く、はっきりと脳に焼きついている。


もっと欲しくなって、誰かの首の後ろに手を回す。

キスをするたび、相手の唇から、甘い香りがわき上がる。

それを確認するように、夢の中のおれは繰り返していた。


「香りを、咲かせて。

 もっと、深く──」


命じる声が、誰なのかはわからない。

でも、逆らえない。


それが、自分の役目なんだと、夢の中のおれは信じていた。


──目が覚めたとき、

おれは唇を触っていた。


ほんのり熱い。

そして、微かに甘い気がした。


……誰と、キスしていたんだっけ。


でも、思い出せない。

なのに、胸の奥がざわざわして、

その香りの記憶だけが、なぜか消えてくれなかった。


夢の名残がまだ残っている。

何度も誰かと口づけをしていた。

そのたびに、香りが咲くように広がって──


「……あなたの口は、香を伝える器です」


夢の中で、そう告げられた気がする。



目覚めたおれは、唇に指を当てていた。

見慣れた天井。

唇の感触が、まだうっすらと残っている。

けれど、物足りない。


甘さが足りない。

熱が、足りない。


それが、渇きとして喉奥から湧いてくる。



唯斗 (ゆいと)。目が覚めたのか?」


ベッドの上、身体がようやく現実感を取り戻した時、キッチンの方から声がした。


咲耶(さくや) ? あれ? 何でお前がウチにいるんだ……?」


記憶がない。

いつも通り出社して、昼過ぎまでは普段通り過ごしていたと思う。

ポケットから取り出したスマホを見れば、18:30と表示されている。


「倒れたんだよ、お前。受付の前で」


姿を現した咲耶は、白いシャツを腕まくりして、プラスチックのトレイを運んでくる。

桐嶋 咲耶 (きりしま さくや)——おれの3つ上で同じ職場の部署の違う先輩だ。どうも遠縁の親戚にあたる……らしい。

その咲耶が言うには、真っ昼間の受付で外出から戻ったおれが、受付前でいきなり倒れて大騒ぎになったらしい。


「まさか、香椎さんがおれを……?」


暦の華と呼ばれている、我が暦ノ音(こよみのね)合同会社きっての美人受付嬢の名前を口にすれば、


「馬鹿を言うな。俺が助けてやったんだ。香椎さんからわざわざご指名で内線連絡を頂いたもんでな」


と咲耶がこれ見よがしにため息を吐いた。

香椎さんにみっともないところを見られて、ため息を吐きたいのはこっちだっつーの。


「悪かったな、期待に沿えなくて」


おれの気持ちを見透かしたように言う咲耶が小憎らしい。

けれど、


「……まぁ、でも。助けてくれてありがと……な?」


助けて貰った上、わざわざこうやって看病らしき事までして貰って、礼のひとつも言えないようじゃ男が廃る。

そう思って口にしてやったのに、咲耶が豆鉄砲でも食らったような顔をするから拍子抜けしてしまった。


「……なんだよ」


「お前が礼なんか言うから、空から槍でも降って来るのかと思った」


そう言って笑うから、おれもそれ以上何も言えなくなった。

一瞬の沈黙が落ちて、その後すぐにぐうっと腹の音が鳴った。


ちょっとは空気読めよ、俺の腹!


咲耶がふっと笑って、


「……しょうがない奴だな」


と呟いたかと思うと、

トレイの上の茶碗をひとつ手に取った。


「冷める前に、食え。お前、あんまり噛まなくても食えるもんしか受けつけなさそうな顔してたからな」


そう言って差し出されたのは、白く優しい湯気を立てる鶏粥。

ふわりと香る出汁の中に、鶏肉の甘みと、生姜の温もりが溶けていた。

そういえば、朝から何かを食べたり飲んだりした記憶がない事に今更ながら気付いた。


「……ってか、お前が作ったのか?」


「他に誰がいる」


咲耶は、そう言ってテーブルに腰を下ろす。


「口、開けろ」


「え、お前……いや、自分で食えるって」


そう言いながらも、スプーンを差し出されると、なぜか逆らえなくて、おれは言われるままに口を開けた。


──うまい。


米の粒はほとんど形を残さないほど柔らかく煮込まれていて、

鶏の出汁に、微かに香る白胡椒。

ごま油がほんの少しだけ浮かんでいて、口の中に甘い余韻が広がっていく。


「……こんなん作れるなら、もっと会社でも料理の腕ひけらかせばいいのに」


「黙って食え」


咲耶はそう言って、少しだけ視線を伏せた。

なぜかその横顔が、ほんのり赤く見えたのは、湯気のせいか──あるいは。少し熱くて、でも優しい味がする。じんわり身体が温まっていく感覚に、力が抜けていく。


「……なんか、子どもみたいだな。こんなに世話されるなんて」


「子どもの方が、素直だよ」


淡々とした声で言われて、ぐっと返す言葉が詰まる。咲耶の目が、おれの体温でも測るみたいに静かに見つめてくるのが、なぜか落ち着かなくて。


「てか、お前モテるだろ?」


そんな事を口にしたら、


「いきなり話題が変わったな」


と咲耶が呆れたように笑った。


「あれだ。なんつーの。お前って妙に気が利くじゃん。声も優しいし、顔も……くそ、整いすぎなんだよ」


「いきなり何を言い出すかと思ったら……お前の方がよっぽど。いや、何でもない」


「なんだよそれ。褒めると見せかけて途中でやめんなって」


「悪い悪い。それよりほら、さっさと食え。こっちの腕が疲れる」


「はいはい」


しばらく無言のまま、おかゆを少しずつ口に運ぶ。ふと、口の中に広がる優しい甘さに、夢の記憶がふと浮かんだ。


「なあ、咲耶。……変な話、していいか?」


「ああ」


咲耶がスプーンを置いて、視線を合わせてくる。その目は、さっきよりも少しだけ優しくて、少しだけ遠かった。


「昔、夢で会った子がいたんだ。顔も名前も思い出せないけど……水の中みたいなとこで、濡れた髪してて。なんでかわからないけど、懐かしい感じがして。何回も会って、何回も──キスしてた」


咲耶のまぶたが、わずかに揺れた。


「髪が肩くらいまでで、笑うとふわって髪が揺れてさ。

その子の唇、甘い香りがして……目が覚めると、決まって胸が苦しくなってて。

たぶん……初恋だったんだと思う。なんかちょっとだけ、香椎さんに似てて……あっ、ちょっとだけな!」


口にしてから、自分でちょっと笑ってしまった。馬鹿みたいだ。けど、咲耶は笑わなかった。ただ、じっと話を聞いていた。


「最近は、その子が出てこなくてさ。代わりに、誰かが蜜柑を食べさせてくる夢を見る。

顔は見えないけど……なんか逆らったらヤバそうな感じ?

でさ、香らせろって、命令されてさ。今考えたら全然意味わかんねーけど、

 ……それで、口の中が、まだ……変な感じしてて」


沈黙が落ちた。


咲耶は何も言わず、ゆっくりとスプーンを持ち直す。


「……そうか。夢って、不思議だな」


咲耶はただそう言って、またスプーンを差し出してくる。

けどその手は、どこか慎重で、目元も微かに緊張して見えた。


口におかゆを運びながら、おれはぼんやりと、夢の感触を思い出していた。

濡れた唇。口の中に広がる、あの柑橘みたいな甘い香り。


──あれ、どこかで……


「……なあ、咲耶」


おれはスプーンを受け取る手を止めて、ふと思いついたことを口にした。


「香りって言えばさ。お前んち、なんか昔から……そういう研究してなかったっけ?」


「研究?」


「ほら。香りで癒すとか、眠りがどうとか……なんか変わったの。記憶あいまいだけど、そういう家系なんだっけって」


おれの質問に、咲耶はしばらく沈黙していた。

スプーンの柄を指先でゆっくり撫でるようにしながら、目を伏せる。


「さあ。昔のことは、よく知らないな」


そう言った咲耶の声は、ひどく静かで、あまりにも整いすぎていた。

何かを隠すように──けれど、それが悪意じゃないことだけはわかる声だった。


「なんだよ、隠しごとか?」


「別に。香りなんて、どこにでもあるものだろう」


そう言いながら咲耶は、ふっと笑って、おれの前に湯呑みを置いた。

中には、透き通るほど淡い色のお茶。ふわりと、蜜柑のような、でもそれだけじゃない、仄かな甘い香りが立ちのぼる。


「……咲耶、これ……」


「ただのお茶だよ」


咲耶は目を細めた。その目が、どこか試すように見えたのは──

おれの気のせいじゃ、ない。


咲耶が差し出した湯呑みに、おれはそっと口をつけた。


──甘い。


でも、ただの甘さじゃない。

舌の奥に、仄かに痺れるような刺激が残る。

香りが、鼻から抜けていくたびに、どこか懐かしい感覚を呼び起こす。


喉を通った瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。


「なんだ、これ。うちにこんな味のお茶なんかあったっけ?」


「家から持ってきた。気に入ったか?」


咲耶は笑っていた。その笑みは穏やかで、けれど何かを確かめているようにも見えた。


「なんか変な感じ。いや、まずくはないけど……」


口の中に、蜜柑と白い花のような香りが残っている。

なのに、飲み込んだあともそれが消えない。

むしろ、飲み込んでからの方が濃くなってる気さえした。


──まるで、内側から花が咲くみたいに。


そんな突拍子もない感覚に、ぞくっと背筋が震えた。


「気のせいか。疲れてんのかな、おれ」


「かもな。熱、もう一回計ってみろ」


咲耶が立ち上がろうとするその時、

おれはふいに、唇に触れた。


……まだ熱い。

夢で感じた、あのキスの残り香が、ふっと戻ってきた気がした。


「咲耶……」


「ん?」


「……なんでも、ない」


「熱が上がってる。とにかく今日はもう無理するな。大人しく寝てろ」


──あの夢の中で、

誰かにキスをされて、香りが咲いた。


それが、誰だったのか。


まだ、思い出せない。


けれど、あのときと同じ香りが、

いま、この部屋にも、咲いている──そんな気がした。



―――――――――



──白く濁った空間に、浮かぶような意識が沈んでいく。


誰かが近づく気配がした。

静かで、確かな足取り。

その気配に導かれるように、おれは目を上げる。


目の前には、顔のよく見えない誰か。

女ではない。その事は分かる。

ただ静かにそこに“立っている存在”。


「口を開けてごらん」


優しい男の声だった。

どこか懐かしいのに、すぐには誰かが思い出せない。

けれど、その声の持ち主には逆らえない気がして、おれはゆっくりと唇を緩めた。


指先が、蜜柑の果肉を摘まんでいる。

それが、おれの唇にそっと触れる。


果肉が、唇に触れる。

ほんの少しの圧で、ぷち……と弾ける感触があって、

柑橘の甘さと、わずかに香ばしいような──でも、もっと深くて、熱を含んだ香りが、喉の奥をくすぐる。

舌に落ちた瞬間、全身がぞくりとした。


「どうですか? 少し、苦いでしょう。けれど……癖になりますよ」


彼の声が、すぐ近くで囁く。


口に入れた瞬間、目の奥で何かが灯る。

わからない。けど──もう、どうでもよくなるくらいに甘かった。


「……はい」


──そう応えたのは、おれのはずだった。


聞こえたのは、おれの声じゃなかった。

柔らかく、細く、濡れたように滲んだ声。

自分の喉から出たとは思えない。

それでも、それを止めようとは思えなかった。


声だけじゃない。

まるで、自分の“形”すら違うような気がした。

喉の奥が細くて、胸が少しだけ苦しくなる。

身体の奥のほうが、知らない疼きを返してくる。


(……これ、おれの身体じゃない)


けれど、夢の中のおれ──“私は”、

それを当然のことのように受け入れていた。


「もうあなたの身体は、この味を覚えましたね

 ……もっと、欲しいですか?」


彼がそう尋ねるときの声は、

まるで“本当に欲しがっているか”を試すような響きだった。


“私”は答えられなかった。

でも、じっと彼の指先を見つめてしまっていた。


その手が、また果肉をひと房、剥いてくれるのを。


「……口を開けて」


ゆっくりと差し出された果肉を、

今度は“私”の方から、唇でそっと迎えにいった。


彼の指先が、果肉ごと“私”の舌の上に置かれる。


──舌先が、自然に動く。

果肉に、指に、触れてしまう。


「……ん、」


小さく、甘く啜る音がして、

“私”は思わず目を伏せた。


「……自分から、舐めましたね」


やわらかい声が、耳の近くで囁く。


「可愛い。もっとあげますよ」


そう言って、今度は果肉を口元に近づけて──

わざと、唇すれすれのところで止めた。


“私”はつい、焦れて前に出る。

その瞬間、彼の親指が、私の下唇をなぞった。


「……舌で取ってごらんなさい」


言われるまま、

“私”は果肉に口づけるようにして、

舌を伸ばしてそれを迎えにいった。


果汁が唇の端から垂れ、

彼の指がそれをまた拭う。


「……ずいぶん、素直になりましたね。

Nestの果実は……口の奥まで、甘くて気持ちいいでしょう?」


唇の内側を、熱が這う。

自分の口が、舌が、

まるでこの人のために動いているみたいで──


恥ずかしくて、でも、それがなぜか、

嬉しいとさえ思ってしまった。


「……今のあなたは、ほんとうに綺麗ですよ」


彼の目が、微笑みながら見つめている。

まるで、“仕上がってきた”ことを確かめているように。


私はもう、口に入れられたものを拒むことができない。

Nestの果実も、指先も、香りも──


そのすべてが、ご褒美になっていた。


そのまま、

もう何房も、彼の手で与えられて、

“私”はそれを、何の疑問もなく口にしていた。


果肉を啜る“私”に、

桐嶋の声が、もう一度優しく囁く。


Nestを咲かせて。誰でもいい──

触れた人の唇に、あなたの香を伝えて」


その瞬間、

“私”はふと、悲しくなる。


──誰でも、いいんだ。


なのに、

口は「はい」と応えていた。



―――――――――



昼前。


おれは、なんとなく足元がふわふわするような感覚を抱えながら、会社のエントランスを通った。


受付カウンターの奥、やわらかなベージュの制服をまとった女性が立ち上がる。


香築(こうづき)さん……昨日は、大丈夫でしたか?」


顔を上げると、香椎さんがこちらを見ていた。


明るい茶色の髪を緩くまとめ、清潔感のあるメイク。

社内でも有名な「暦のマドンナ」──そんなふうに呼ばれる美人で、前なら名前を呼ばれるだけで浮かれていたのに。


「……ああ、大丈夫です。ご心配、ありがとうございました」


自然に、そう返している自分に気づいた。


それ以上、言葉が浮かんでこない。


彼女の声は綺麗だ。

でも──


(違う。……あの人じゃない)


思考が、夢の残像に引き戻される。


記憶の中でぼやけていた女の声。

それは、胸の奥を撫でるように、柔らかくて、濡れた響きだった。

唇の裏側に残る、甘くて熱を帯びた香り。


なのに、目の前の香椎さんからは──


(香りが、しない)


──その瞬間、背筋がひやりとした。


自分で考えたはずの言葉に、身体の奥がざらりとする。

香椎さんが悪いわけじゃない。なのに、無意識に“比較”している自分がいる。


「それならよかったです。また何かあったら、遠慮なく言ってくださいね」


香椎さんの声は優しい。


でも──響いてこなかった。


休憩から戻る途中、通路の向こうに咲耶の姿が見えた。


いつも通り、白シャツにベストを重ねた事務服。腕まくりをしたその手には、資料の束。

こっちには気づいていない。


それなのに──


(……あ)


咲耶のすぐ横を通り過ぎるとき、ふわりと、微かな香りがした気がした。


鼻をかすめるような、甘い、でも熱を帯びた空気。

それは、昨日の夢の中で──いや、“自分じゃない自分”が、何度も口にしていた、あの香りと似ていた。


通り過ぎてから、ふと振り返る。


咲耶の背中が、視界の向こうに小さくなる。


(なんで……)


喉の奥が乾く。

思わず唇に指を当てた。


あの香りに、惹かれてる。

咲耶が何かしたわけじゃないのに──体が、反応している。


「……くそっ、一体なんなんだよ」


残るのは、昨日の甘さの名残と、答えの出ないざわめきだった。



昼休み。

オフィスの隅にある給湯スペースには、レンジの音と薄く漂うコーヒーの香り。

おれはコンビニで買ったパンを半分ほど齧ってはみたものの、途中で手を止めた。

口の中が妙に乾いて、飲み込むのが億劫になる。


水を口に含む。

──それすら、味がしない。


何を食べても、飲んでも、

満たされる感じがどこにもない。


(……あれ、昨日、何食べたっけ)


ぼんやりしていると、咲耶が入ってきた。

白シャツの袖を無造作に折り上げ、透明な小皿を片手に持っている。

中には、瑞々しい蜜柑の房が五つ、丁寧に並べられていた。


「昼、食ったのか?」


「……食った。パン。……あと、水」


「そりゃ栄養が足りないな」


咲耶はそう言いながら、蜜柑の小皿をこちらへ向けて差し出す。


「これ、貰いもんだけど。いるか?」


房のひとつが、やけに鮮やかだった。

まるで夢で何度も咲いたあの果肉みたいに、やわらかく、艶やかで。


──やめろ。


喉の奥がざわつく。

でも、それは嫌悪じゃない。

「甘さ」が、身体のどこかを疼かせる。


「……いや、いい。甘いの、あんま得意じゃないから」


「ふうん」


咲耶はそれ以上何も言わず、自分の指で蜜柑の房を一つ摘んで口に運ぶ。

ぷち、と静かな音がして、果汁の香りがふわりと空気に広がった。


(この香り──)


おれの頭の奥で、音と香りが重なる。


蜜柑。

唇。

舌。

「私」と、「彼」。


──また来る。


首筋の内側が熱を帯びて、背中を撫でられるような感覚が走る。



「……っ」


ごく、と唾を飲み込んで、視線を逸らす。


咲耶の指が、蜜柑の果汁で濡れていた。


それを見た瞬間、おれの喉の奥が、勝手に熱くなる。


(違う。これは夢だ。夢の残り香だ。……けど、)


「なあ……咲耶」


「ん?」


「……香って、どうやって“咲く”んだっけ」


咲耶が、少しだけ笑ったような気がした。

けれど、声には何の感情も乗っていない。


「さあな。俺は研究者じゃないからな……けど、咲くもんなんだろ? 誰かが、咲かせるなら」


おれの中で何かがはじけそうだった。

けれど、それが何なのかはまだ、名前がつけられなかった。


「……誰かが、咲かせるなら」


その言葉が、耳の奥で響いて離れなかった。

咲かせる。香りを、口に、伝えて──咲かせる。

夢の中で“誰か”にそう言われた気がする。


でも、それはただの夢だろ。

夢だって言い聞かせてるくせに、

喉の奥が、また乾く。


(咲耶の、指……)


さっき蜜柑を摘んだときに、果汁が垂れて、

そのまま拭きもせずに、彼は手を口元へ持っていった。

指先を、舌で掬うように。


それだけで、

心臓が一瞬、変な音を立てた気がした。


(……なんで、そんな)


自分のくせに、自分の身体じゃないみたいだった。

胃の底が疼いて、息が浅くなる。


「……唯斗」


咲耶の声が、背中から滑るように落ちてくる。

名前を呼ばれただけなのに、

胸の奥が、ちり、と熱を持った。


「おまえ、何か……変だぞ」


「……は?」


誤魔化すように水を飲んだけど、

何の味もしない。ただ冷たいだけだった。


咲耶はそれ以上追及してこなかった。

けれど、その目が。

まるで“確認”しているみたいに、じっと見てくる。


(何を、確かめてる)


「……なあ、咲耶」


「なんだ」


「……夢って、さ」


ここで言うべきじゃないって、わかってた。

でも、どうしても聞きたくなった。


「“他人の夢”に入り込むことって、あり得るのかな」


咲耶の目の奥が、す、と静かに動いた。


「……偶然、同じ夢を見るって意味か?」


「違う。なんか……“誘導されてる”っていうか。

自分の夢なのに、

誰かが中にいて、指示してきて……

その通りに体が動いちゃう感じで」


咲耶はしばらく黙っていた。


「夢ってのは……無意識の領域だ。

そこに“外部からの刺激”が入れば、

中身が書き換わることも、ある」


「え?」


「──例えば、香りとか。味とか。

そういう、感覚に近い刺激を“口”から入れると、

夢は、容易に侵食される」


咲耶の言葉が、妙に理路整然としていて、怖かった。


「……お前、なんでそんなに詳しいんだよ」


「さあな。昔、誰かに聞いた気がするだけだ」


咲耶は、そう言ってそっぽを向いたけど、

その口元が、僅かに笑ったようにも見えた。


それ以上、何も言えなかった。


給湯スペースを出たあと、

おれはデスクに戻る気になれずに、廊下の窓際でぼんやり立ち尽くしていた。


胃の奥が、空っぽみたいに落ち着かない。

でも、パンはもう喉を通らない気がする。

水を飲んでも、あのざわめきは治らない。


そんなとき、不意に後ろから声がした。


「唯斗。顔色、悪いぞ。帰れ」


「え?」


振り返ると、咲耶が片手でスマホを見ながら、淡々とそう言った。


「総務には俺が言っておく。どうせ今急ぎの業務はないだろ」


「いや、でも──」


「おまえ、夢と現実の区別がついてない顔してる。

それ、いつか本格的にヤバくなるやつだ」


言い方は相変わらず淡々としてるのに、

どこか突き放さない響きがあって、

おれはそれ以上逆らえなかった。


「……じゃあ、帰るわ。すまん」


「ひとりで帰れるか?」


「え、ああ……電車で」


「──送る」


即答だった。

抗議しようとしたけど、咲耶の目が本気すぎて、口を閉じた。



車内は静かだった。


助手席でシートベルトをつけたおれは、窓の外を見ながら、

さっきの給湯室でのことをぼんやり思い返していた。


(咲耶の……あの指先)


蜜柑の果汁。

濡れた指先。

そのあと、なぜか香りが離れなかったこと。


「……おい」


「……ん?」


「唇、乾いてんだろ」


信号待ちで車が止まったタイミングで、

咲耶がダッシュボードから何かを取り出して、こっちに差し出した。


「……リップ?」


「事務所の乾燥ヤバいからな。俺も使ってるやつ。塗っとけ」


小さくて、黒い円筒のリップバーム。

手に取ると、ほんのり柑橘みたいな香りがした。


(……これ)


どこかで嗅いだことのある香りだった。

でも思い出せない。夢の中かもしれない──


「使い切りのつもりで、直塗りしろ」


「え、いや、それはさすがに……」


「いいから。今さらだろ」


今さら、ってなんだよ、と思ったけど、

おれは渋々フタを外して、唇にリップを押し当てた。


──す……と塗りつけた瞬間、

柔らかな滑りとともに、ふわっと甘い香りが広がった。


ほんの少しの清涼感と、

柑橘と白花を混ぜたような香り。

それが、舌の奥にまでじんわりと広がっていく。


「……あれ、なんかこれ──」


息を呑む。

唇がじんわりと熱く、柔らかくなる感覚。


乾燥が癒えた、というだけじゃない。

身体の芯がほぐれていくような、

なぜか、胸の奥のざわめきまで静まっていく。


(……あれ、これ……楽になる)


気づいたときには、

おれは何度も唇にリップを滑らせていた。


もっと欲しくなる。

もっと塗っていたくなる。


「な。効くだろ?」


咲耶の横顔が、フロントガラス越しにぼんやり見えた。


「……これ、何が入ってんだよ」


「いいもんだよ。

おまえが落ち着かないときにだけ、貸してやる」


落ち着く。

──たしかにそうだ。

さっきまでのざわざわが、嘘みたいに消えていく。


(なんで、こんなに……)


もう一度、無意識に唇に指が触れた。


そこにあるのは、

潤いと香りと──

夢と似た、熱の残り。


──癒えていく。


飢えが、

渇きが、

少しずつ。


けれどそれは、“癒されている”んじゃなくて、

“与えられて、満たされてる”だけなのかもしれない。


咲耶が前を向いたまま、ほんの一瞬だけ笑ったように見えた。

窓の向こうに視線を向けていたはずなのに、

なんとなく──おれのことを見てた気がした。


(……なんだ、今の)


笑った、ような。

でもそれは、よく知ってるいつもの皮肉っぽいやつじゃなくて、

なんというか……ちょっと、含みのある表情だった。


「落ち着いたみたいだな」


「……ああ。信じられねーけど、楽になったわ。つか、なんか気持ちまで落ち着くというか……」


正直、自分でも驚いていた。

ただのリップのはずなのに、

胸の奥のざわつきまで、すーっと引いていった感じがする。


「眠くなる前兆だな。帰ったらすぐ寝ろよ」


「えっ、いや、まだ夕方──」


「いいから」


言い切る声は相変わらず淡々としてるくせに、

妙におれのことを見透かしてる感じがして、

それ以上反論できなかった。


それにしても。


(なんでだろ、唇が……ずっと、甘い)


さっきリップを塗ったときの香りが、

まだ、ほのかに鼻の奥に残っている気がする。


それだけじゃない。

なんとなく──咲耶のほうからも、似たような香りがしたような。


(気のせいか……?)


さっきから車の中に漂ってる香りが、

自分からなのか、咲耶からなのか、わからなくなってきた。


でも、咲耶はずっと運転に集中してるふりをしてる。

なのに、たまに信号待ちのたびに、ちらりとだけこっちを見ている気がした。


その目に何が映ってるのかは──

わからない。


けど、

なんか、

“おれより、おれのことを知ってる”みたいな顔をしてた。


(……なんなんだよ、もう)


窓の外を見て、そっと息を吐く。

だけどその吐いた息にすら、

どこか、甘い香りが混ざっていた気がした。

おれは、玄関の鍵をかけると、靴を脱ぎっぱなしのままソファに沈み込んだ。


「……なんなんだよ、今日一日……」


頭がぼんやりしている。

疲れているのに、胸の奥が妙にざわつく。

さっき、車で咲耶にもらったリップ。

あれを塗った瞬間、体の芯が落ち着いたのに──


(……なんか、また、足りない)


唇を指でなぞる。

乾いてはいない。むしろ、まだ潤ってる。

なのに、足りない。


指先が、バッグのポケットを勝手に探り出していた。

黒いリップバーム。取り出して、無意識のままキャップを外す。


「……ちょっとだけ」


そう言い訳をして、唇に当てる。


──す、と。

もう一度、あの香りが立ち上がる。


今度は、前よりも濃く。

甘くて、熱を帯びていて。

花と蜜柑のあいだの香り。


「……っ、」


舌の奥がピリつく。

視界が少し揺れて、力が抜けた。


(これ、やっぱヤバいって……)


そう思ったときには、

体はベッドに横たわっていた。


いつの間にか部屋の電気は落ちていて、

香りだけが、空気の中にふわふわ漂っている。


──夢だ。

また来る。


目を閉じた瞬間、

ふいに空間が揺れた。


白く濁った空気。

どこかで嗅いだ、あのリップの香りが、濃密に鼻をくすぐる。


そして、すぐ近くで声がした。


「……わかってきましたね。

自分の唇が、どう咲くのか」


あの男の声。

優しいけれど、逆らえない圧がある。


咲耶の声とは違う──でも、どこか、似ている。


「Nestは、香を運ぶ器。

あなたの口から咲くその香りは、

誰かの欲を、静かに目覚めさせる」


指先が頬に触れる。

触れられていないはずなのに、体がびくりと震えた。


「やっぱり、甘い。もう完全に、咲いていますね」


息が、耳元をかすめた。


「自分で咲かせたと思ってる? 違いますよ。

これは、与えられた香り──あなたの唇に、刻まれた香です」


誰のことだ。

けど、口にできない。


「もう一度、確かめてみますか?」


夢の中なのに、喉が乾く。

声が、出ない。


「じゃあ……口を開けて」


その瞬間、唇が勝手に緩む。


夢の中のおれはもう、

誰かの指を、

唇で迎えにいこうとしていた──


──意識が、引き戻される。


どこか遠くで風が揺れて、瞼の裏にじわじわと光が差してきた。



――――――



目を開けると、見慣れた天井があった。

部屋の空気は静かで、カーテンの隙間から夕方の光が射している。


夢から覚めたはずなのに、

身体の奥がじんわりと熱い。

唇は、まだうっすらと濡れていて、舌の先で触れると甘かった。


「……っは、」


喉が渇いていた。

身体がじっとりと汗ばんでいて、指先まで妙に敏感だった。


夢だ。あれは夢だった。

なのに──


「……ようやく起きたか」


部屋の奥から声がした。

一気に背筋が跳ねる。


「咲耶……っ?」


振り向くと、咲耶が立っていた。

窓を少しだけ開けて、空気を入れ替えていたらしい。

白シャツにスラックスのまま、袖をまくって、こっちを見ていた。


「合鍵、使わせてもらった」


さらりと告げられて、返す言葉が出てこない。


「様子、見に来ただけだ。……それにしても、汗すごいな。熱、また上がってないか?」


そう言いながら、咲耶が歩み寄る。

その手が、おれの額に触れようと伸びて──


「……やめろ!」


咄嗟に叫んで、身を引いた。


咲耶の手が、空中で止まる。


「どうしたんだ。まだ寝ぼけてるのか?」


その声が、妙に静かだった。


「いや、違う、けど。なんか……」


言葉が出ない。

夢の記憶が、咲耶の手の動きと重なって、

何かが繋がりそうで、怖かった。


「……咲耶、お前、なんか……」


どうしても続きを言えなかった。

咲耶が、ゆっくりと俺の横に腰を下ろす。


そして、ためらいなく俺の頬に触れた。


「おまえは、自分がどれだけ人を惹きつけるか、知らないんだな」


その言葉が、

耳の奥で静かに落ちた。


「な、に……?」


「まず……瞳の輪郭が、淡く縁どられている。

 色素が薄いんじゃないな、膜の内側に“溶け込んでいる”ような淡い色だ。

 強い光に晒すと、ふっと逃げるように瞬くところまで、綺麗だ」

 それから、睫毛は長いのに、上がっていない。……だから、“伏せることが似合う”目元なんだ。

 つい”従わせたい”と思ってしまう」


おれが咲耶の豹変に言葉も出せずに固まっていると、


「お前はとっくに香を抱いたんだ。唯斗。今も、こうして触れてるだけで、わかる。

その香りは──誰かを引き寄せる香りだ」


頬に触れた手が、微かに熱を帯びていた。

咲耶の顔は近い。

でもその目は、どこか遠くを見ているようにも見えた。


「誰が咲かせたかも、知らないまま……

自分の身体から香りを漏らして、気づきもしない」


ゾクリと背筋を撫でられたような感覚。

冷や汗が、首筋を伝う。


「……やめろ」


「なにを?」


「そういう……言い方。お前、なんなんだよ」


声がうわずって、自分でも情けないと思った。

けれど咲耶は、何も答えなかった。


ただ、静かに笑った。


その笑みが、優しくもあり、ぞっとするほど冷たくも見えた。


(怖い)


その感情が、喉までこみ上げてきた。

けれど、言葉にすることはできなかった。


咲耶の手が離れる。


香りだけが、

まだおれの頬の表面に残っていた。


咲耶が帰ったあと、部屋は急に静かになった。


玄関の鍵が閉まる音。

それきり何の音もしない。


(……なんなんだよ、あいつ)


あの言葉が、ずっと耳に残ってる。


「お前は香を抱いたんだ」


意味が分からない。

けれど自分が、そんなふうに“香り”をまとってるなんて。

夢の中じゃあるまいし、現実にそんな──


そう思いたいのに。

ふと、喉の奥に違和感があった。


(……渇いてないのに、熱い)


ごくり、と唾を飲み込んだ。


その瞬間、舌の奥にほんのり甘さが広がる。


(え……)


寝汗のせいかと思っていた身体の火照りが、

じわじわと、喉から胸の奥に移っていく。


「……っ、」


反射的に唇に手を当てた。


まだ、柔らかく潤ってる。

リップの香りは、もう消えてるはずなのに。

鼻の奥に、ふわっと残っている甘さがある。


蜜柑みたいな、でもそれだけじゃない、

もっと熱を持った、白い花の香り。


──あの夢と、まったく同じ。


「いや、待て。これは……夢の影響。思い出してるだけで……」


そう言い聞かせるけど、

身体はもう、嘘をつけなかった。


喉の奥がじんじんと疼く。

誰かに口の中を舌で撫でられたような感触が、

なぜか、リアルに残っている。


(これ、ほんとに……夢、か?)


今、自分の中で、

何かが起きてる気がする。


「……ちくしょう」


寝るつもりなんてなかったのに、

気づけば、またベッドに身体を沈めていた。


身体が、自分の意志とズレている。

怖いくらいに、自然に。


(夢、だよな。……夢なら、起きたら全部消える。……はずだ)


そう思いながら目を閉じた瞬間──


耳の奥で、ふわりと声がした。


「もう、抗わなくていいですよ」


──声だ。

また、あの男の。


でも、さっき咲耶が言った言葉と重なって聞こえる。


「あなたは、もう香を抱いています。

自覚がなくても……身体は、もう覚えているでしょう?」


ぞくり、と背筋を撫でられる感覚。

夢か現実か。

わからない。

でも──


唇が、また熱くなってきた。


──ふたたび、白い霧の中。


いつものように、

意識が沈むときは何の前触れもなかった。


見覚えのある、けれどぼやけた空間。

足元が曖昧で、空気が甘い。


──夢だ。

そう理解しているのに、心臓が高鳴っている。


「口から、香がこぼれてますよ。それはもう止まらない」


静かな声が、すぐ近くで囁く。


「見てください。

あなたの唇から、甘い空気が立ち上がっている。

Nestが咲いた証です」


誰だ──そう思う前に、

誰かの指が、俺の唇に触れた。


熱くも冷たくもない、

ただやわらかい圧がかかって、

そこから香りがじんわり滲んでいくのがわかった。


「……まだ自覚がないんですね。

でももう、あなたは“誰かの器”になりました」


視界の中に、蜜柑の果肉が現れる。

あの、柔らかく熟れた──夢の中で何度も与えられた、それ。


「また、与えます。

この香りを深く抱いて……もっと、広げてください」


手が近づく。

口元に蜜柑が寄せられ、

俺は抵抗もなく唇を開いた。


ぷち、と果肉が弾ける。


香りが、また広がる。

舌の奥に甘みが満ちて、

喉がくすぐったくなる。


「こぼれてます。ほら、また……」


誰かの手が、唇の端を拭った。

触れられただけで、ぞくりと震える。


「このままでは、あなたの中に溢れるばかり。

香りは、誰かに“渡して”はじめて役目を果たすんです」


「……わたす?」


「ええ。

他者の唇に触れて、

“あなたの香り”を伝えること──それが、Nestの咲いた者の使命です」


その言葉が落ちた瞬間、

喉の奥から、理由もなく焦りが湧いてきた。


誰かに、渡さなきゃ。

こぼれてしまう。

無駄になる──そんな強迫に近い焦燥。


「もう、自分の中だけでは足りないでしょう?」


優しい声が、俺の背後から囁いた。


「与えたい。

香らせたい。

触れて、届けたい……そう思っているはずです」


なぜか、頷いてしまいそうになる。


でもそのとき、

頭の中に、現実の咲耶の姿がよぎった。


(咲耶に……?)


次の瞬間、声がぴたりと止んだ。


そして、背後からふっと、息が耳にかかる。


「──思い浮かべましたね。

その人に、香りを伝えたいと思ったでしょう?」


喉が、かすかに鳴る。

否定できなかった。


「じゃあ、次は……その人の唇に、あなたの香を」


そこまで聞いた瞬間、

目の奥がチカッと明滅した。


視界が白に包まれ、

夢が、いったん──途切れた。


──目が覚めた。


今度は、さっきよりも深く寝入っていた感覚があった。

なのに、体はやけに軽い。

喉の奥が、ほんのり甘く、じんわりと熱を持っていた。


(……また、夢?)


もう何度目だ。

同じ香り、同じ感触。

でも今回は──“渡せ”って命令が、妙にリアルだった。


唇を指でなぞると、

そこに確かに“何か”がある気がする。


(……誰かに、渡さなきゃ)


そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと苦しくなった。


(いやいや、なにそれ。……渡すって、誰に?)


ごまかすようにベッドから起き上がる。

空気は普通だ。

香りは、ない──はずなのに、

自分の呼気に、ほのかに甘い気配が残っている。


(……香ってる)


まさかとは思いながら、

キッチンの鏡に映る自分を覗き込んだ。


なんでもない、いつもの顔。

でも、唇だけがやけに艶っぽく見えた。


(……いやいやいや)


頭を振る。

けど、心臓の音がうるさくなってくる。


(咲耶……?)


ふと、脳裏に咲耶の顔が浮かんだ。

今日の昼間、指先で頬に触れられた感触。

低くて落ち着いた声。

冷たい目をしてるのに、妙に近くて熱っぽい距離。


(……あいつに、香りを……渡す……?)


唇から唇に。

ぞわっと鳥肌が立った。


「無理だろ。だって、あいつ、男だし……!」


声に出してみても、空しい。

咲耶が男ってことなんて、今さらすぎる。


でも、問題はそこじゃない。

“咲耶の唇”を思い浮かべた自分に、ゾッとした。


(なに考えてんだ、おれ。

なんで、あいつ──よりによって咲耶なんだよ)


拳を握る。

でも、止まらない。

脳裏に浮かぶのは、

咲耶が蜜柑の房を摘んで口に運んだあの瞬間。


(あの指先。口元。……あいつから、香ってた)


喉の奥が、うずく。


「……やめろって、マジで……っ」


思わず声が震えた。


けど、体は覚えてしまっている。

香りを与える快感。

唇を重ねたときの、“咲く”感触。


そして今──

咲耶の顔を思い出しただけで、

胸の奥から、また香りが“こぼれそう”になっていた。


翌日。


頭ではリセットしたつもりだったけど、

咲耶と顔を合わせた瞬間、胃の奥がぎゅっと縮んだ。


「顔色、まだ良くないな。寝不足か?」


「あ? いや、別に……」


返事をしながらも、声がうわずる。

咲耶は昨日と同じ白シャツに、グレーのベストを羽織っていて、相変わらず体温の読めない目をしていた。


でも、昨日までは気にならなかったはずのものが、

今日はやけに目について仕方がなかった。


──唇。


言葉を発するときの形、

水を飲んだあとに親指でぬぐう無意識な仕草。


そのすべてが、なぜか頭の奥に張り付いて離れない。


(……渡せって、言われた。おれの香りを、唇を通して……)


咲耶の口元を見たまま、意識がぐらつく。


喉の奥が、じんと熱くなる。


香りが、また“咲きそう”になる。


(やめろ。ここは会社だろ)


けど、視線がどうしても戻らない。

今、咲耶の唇に、自分の香りを──


「……おい」


「っ、な、なんだよ」


急に声をかけられて、びくっとなる。


咲耶は少しだけ眉を上げただけだった。


「目、合ってると思ったら、全然別のとこ見てたな」


「みっ、見てねーし!」


「そうか?」


平然とした咲耶の態度に、

自分だけが異常なんじゃないかって思えてくる。


(なんで……あいつの唇に、こんな)


焦って視線を逸らしたけど、

その瞬間、空気の中にほんのり甘い気配が混ざった。


(……また、香ってる)


咲耶が、ほんの一歩、距離を詰めたときだった。


自分の中で、

何かが花開くように“ふわっ”と立ち上る感覚があった。


こぼれる。

まただ。

咲耶が近づくと、おれの中の香りが強くなる。


それを、咲耶が──


「やっと気づいたか」


ぽつり、と落とされた言葉に、

心臓が凍りつく。


「な、にを……」


「俺の距離と、香りの強さ。おまえが無意識に反応してることくらい……見りゃわかる」


嘘だろ。

バレてた?

全部? 今までも……?


咲耶は微笑んだ。

その目に、いつもの冗談めいた色はなかった。


「その香り、俺にだけじゃないんだぞ」


「は……?」


「ちゃんと渡せるか、見せてみろよ」


その言葉に、

息が止まった。


命令じゃなかったのに。

ただそう言われただけなのに──


喉の奥が、勝手に熱くなっていく。


“渡さなきゃ”という焦燥と、

“渡したくない”という拒絶が、

同時に暴れ出す。


(なんで、こいつなんだよ……!)


──ふざけんな。


「誰が、お前なんかに渡すかよ」


咄嗟に、言葉が口を突いて出た。


咲耶が少しだけ目を細める。


「そうか?」


「勝手に決めんなよ、“香ってる”とか、“渡せ”とか。……おれは知らねえよ、そんなの」


喉の奥が熱くて、

目の奥がきしむみたいに苦しいのに、

声だけは張り上げる。


「夢で何があったとか、そんなの……

関係ねぇだろ。お前は、現実の人間だろ」


「俺が?」


咲耶はわずかに首を傾げた。


「現実だとか夢だとか、なんでそんなに意識する?」


「……っ、意識なんかしてねぇし!」


「じゃあ、なんで今、俺の唇見てた?」


図星を突かれて、息が詰まる。


ほんの数秒、目を逸らすこともできなかった。


「……お前、ほんと……なんなんだよ」


そう絞り出すように言った声は、

自分でも驚くほど、揺れていた。


咲耶は、静かにため息をつく。


「おまえさ、

“香らせる”って、どういう意味かわかってないだろ」


「は……?」


「香りは、“伝わったとき”に咲くんだよ。

誰かの鼻先に、舌先に、触れて──そのときに」


「……」


「おまえの唇が咲いてるなら、

あとは“誰に渡すか”だけだ」


それ以上は言わず、

咲耶は静かに立ち上がる。


その目が、一瞬、冷たく光った気がした。


「言っとくけど、選べる時間はそんなに長くない」


「なんだよ、それ」


「“香り”ってのはな、伝えなきゃ枯れるんだよ。

……もったいないだろ、おまえみたいに香ってるのに」


その言葉が、

妙にリアルで、

突き刺さった。


咲耶はそれ以上何も言わず、

手にしていた書類を脇に抱えて、そのまま通路の奥へ歩いていく。


(……渡す、だと?)


そんなの、あるわけ──


ないだろ。


そう思いたいのに、

さっき咲耶の唇を見てしまった自分が、

ずっと頭の中に残っている。


喉の奥が、また、熱くなる。


(……クソ、なんなんだよ)


拳を握っても、

香りは止まってくれなかった。


午後、外出から戻ったおれは、

いつものように受付を通る。


香椎さんが、柔らかな笑顔で立ち上がった。


「お疲れさまです、香築さん」


「あ……ど、も……っす」


少し視線を逸らしながら、早く通り過ぎようとしたその時。


「……あの」


香椎さんが、小さく首を傾げて、言った。


「今日の香築さん、なんだか……いい香りしますね。柑橘系の……お香?みたいな」


──その瞬間。


(うそだろ……)


心臓が、ずしんと沈んだ。


香椎さんの言葉は、本当にただの雑談だった。

職場の気配りの一環。悪意も、含みも、ない。


なのに、

おれの頭の中には、「香ってる」「渡せ」「咲いてる」の言葉がこだましていた。


(バレた……)


いや、バレたわけじゃない。

香椎さんは何も知らない。

それでも──


「……っあ、ああ、ちょっとリップ変えたんで」


声がうわずって、自分でも引いた。


香椎さんは「そうなんですね〜」とにこやかに返して、

それ以上詮索することもなく業務に戻った。


でもおれは、

その笑顔から逃げるように、足早にその場を離れた。


(終わった……)


香りが、

“伝わってる”。


無意識に、誰かの鼻先に触れてしまっている。


誰にも気づかれないままでいたかったのに。


(なんで……なんでおれ……)


喉の奥が渇く。

なのに、舌の裏は甘いまま。


会社の階段を上りながら、

ふいに胸の奥がギュッと締めつけられた。


(これじゃあ……おれ、もう──)


「“普通”じゃねえ……」


誰にも聞こえないように、吐き捨てる。


夢の中で香らされ、

現実でも香りをこぼして、

誰かに気づかれて、

けど誰にも助けてもらえない。


(どうすりゃいいんだよ……)


俯いたまま歩くおれの背中を、

通路の端から、ひとつの視線が静かに追っていた。


咲耶は、何も言わなかった。


ただ、唇の端を、わずかに、

ゆっくりと、笑みの形に曲げただけだった。


その夜。


おれは、何度も夢を見る寸前で目を覚ましていた。


目を閉じれば、

あの蜜柑の果肉が唇に落ちる感触が甦る。

声が聞こえる。

「渡して」「咲かせて」──命令じゃないのに、抗えない。


(……もう、普通に戻りたい)


本気で、そう思っていた。


なのに、夜が深まるほどに身体の奥がざわめいて、

呼吸をするたびに、胸の中から香りがこぼれそうになる。


そして──


玄関のインターホンが鳴った。


(こんな時間に……)


ドアを開けると、咲耶が立っていた。


「様子、見に来た」


それだけ言って、靴を脱いで勝手に上がってくる。

シャツの袖をまくり、無造作に手を洗う姿はいつも通り。


でも、空気が違っていた。


「……なあ、咲耶」


おれは意を決して口を開く。


「おれ、ほんとに……元に戻りたい。

なんか、変なんだ。香ってるとか、夢のこととか……

全部ただの勘違いで終わってほしい」


咲耶はタオルで手を拭きながら、少し黙っていた。

やがて、そのままテーブル越しにおれを見て、静かに言った。


「じゃあ──試してみろよ。

“おまえがどれだけ戻れるか”」


「試すって、何を──」


咲耶は近づいた。


一歩ごとに空気が変わって、

香りが──あの、花と蜜柑が混ざった空気が

また立ち上ってくる。


おれの呼気じゃない。

咲耶からも香っている。


(……なんで)


「顔。声。匂い。

何もかも、“普通”じゃなくなってきてるのに、まだ気づかないのか?」


咲耶の声は、低く静かだった。


「おまえの顔、昔よりずっと柔らかくなった。

今じゃ、少し微笑んだだけで目を引く」


「……なに言って──」


「声もだ。

もともと落ち着いた声だったのに、

最近じゃ甘さが混じってる。

“香ってる人間”特有の、“引き寄せる声”になってる」


咲耶は、テーブルを越えて手を伸ばす。

それからおれの顎に、そっと触れた。


「この唇も。

もう、見せびらかして歩くには危うすぎる」


「……っ、ふざけ──」


「おまえ自身が気づいてないだけで、

それ見て惹かれてる人間、いるんだよ」


咲耶の親指が、おれの下唇の端をなぞった。


「俺も──ずっと、見てる」


その言葉が落ちたとき、

おれは初めて“心の奥”がぞっと冷えるのを感じた。


逃げなきゃいけない気がした。

でも、咲耶は逃がす気なんか一ミリもない顔をしていた。


「……もう遅い。

おまえが“普通”を諦めなかったとしても──

俺はお前を逃がさない」


咲耶の指先が、頬から滑るように下りていく。

そのまま、顎の下をなぞり、

喉元──首筋の柔らかいところで一度止まる。


おれは思わず呼吸を止めた。


皮膚の表面が、ピリピリと熱を帯びる。

それだけで、喉奥の香りがふわっと立ち上がるのが自分でもわかった。


(……香ってる)


その実感が、怖かった。

でも、なにより怖いのは──


咲耶が、知ってることだった。


「咲耶、やめろ……」


かすれた声で言っても、

咲耶は何も返さない。


ただ、指先が喉の窪みをゆっくりと撫でて、

そのまま──唇の端へ、戻ってきた。


「……ここから、伝わるんだろ?

おまえの香り」


低く、静かな声。

でも確かに、喉の奥まで響いてきた。


咲耶の指が、唇の輪郭をなぞる。


その触れ方はあまりに正確で、

まるで“咲くタイミング”を知ってるみたいだった。


(やめろ。これは現実……これは、夢じゃない……っ)


「なぁ。咲耶、おれ、ほんとに……」


「“渡したくない”って顔してるけど、

さっきから、おまえ……ちゃんと香ってるよ」


その言葉と同時に、

咲耶がもう片方の手で、おれの後頭部にそっと触れる。


動けない。


もう逃げられない。


「渡させてやるよ。現実で──俺に」


顔が近づく。


距離が縮まるたびに、

空気が濃くなる。

あの香り──蜜柑と白い花の甘く熱を含んだ香りが、

空間に満ちていく。


(やだ、こんな……)


「咲……」


「……唯斗」


唇が触れる直前。

咲耶の声が、やけに優しかった。


ほんの指一本分の距離。


でも、

もう何も考えられなかった。


夢と現実のあいだで──

意識が、ふっと溶ける。


その直後、

ほんの一瞬、唇に何かが触れた気がした。


でも──

気づいたときには、視界が白く濁っていた。

音も、手触りも、温度も──すべてが、夢の中に変わっていた。


「あの子だ──!」


おれは夢の中で、思わず駆け出した。


真っ白な部屋の奥。

姿見の前に立つ、“あの子”がいる。


長い黒髪。肩にかかる線。

白い肌、細い首。

そして、あの──


(間違いない……!あの時の……)


初めて夢で見た、あの子だ。

ずっと、会いたかった。


おれは胸がいっぱいになって、声をかけようと──


その時だった。


夢の“あの子”が、ゆっくりと鏡を見つめる。

何かを探すように、指先で口元をなぞって──


ふと、姿見の向こうと視線が合った。

それはあの子じゃなくて、おれと同じ姿をしていた。


そして──笑った。


(……あれ?)


胸がざわつく。


次の瞬間、夢の“あの子”が

ゆっくりと後ろを振り返る。


その顔に──見覚えがあった。


(……俺?)


目の前にいたはずの“あの子”はもういない。

姿見に映っているのは──

まぎれもなく、おれ自身だった。


さっきの髪も、唇も、あの輪郭も──

鏡の中の自分。


(ちがう……そんなわけ──)


思わず手を伸ばす。

鏡の中の“自分”も同じ動きをする。

口元をなぞる。

笑う。


(──俺が、“あの子”だった?)


頭の中が真っ白になる。

けれど、胸の奥では別の何かがふつふつと──


「ようやく、思い出したか」


後ろから、咲耶の声がした。


「お前が見ていた“夢の女”は……

お前自身だったんだよ、唯斗」


「……っ……違……っ」


鏡の中の“自分”が、咲いた。

Nestの香りが、唇から──ふわり、と。


その香りは、

もう“誰かのもの”ではなく──

完全に、自分のものだった。


空間が歪んで、場面が変わる。

白い空間に、ふたつの影があった。


“私”は、誰かの前にひざまずいていた。

唇が濡れて、熱い。

口の奥が甘くて、香りが滲んでいる。


誰かの指が、髪を撫でる。


「……渡せましたね。ようやく」


「……はい……」


その声は、自分のものじゃないようだった。

細く、濡れたように揺れていた。


「あなたの香りは、もう完成している。

でも──その始まりは、あなたのものじゃない。

あなたは“誰か”に香らされて、咲いた」


「……誰、に……?」


やっとの思いで問う。


その瞬間、耳元に、ふわりと声が落ちた。


「あの子……咲耶、ですよ」


世界が──崩れた。


その名を聞いた瞬間、

胸の奥がバチン、と弾ける音がした。


(咲耶……?)


途端に、今までの夢の断片が一気に繋がる。


蜜柑の香り。

優しい命令。

唇をなぞった指。

「気づいたか」と囁く声。


全部、あの人のものだった。


(咲耶だった。最初から──)


気づいたときには、

涙が出ていた。


なぜ泣いているのか、自分でもわからない。


でも、確かに身体の奥で、

何かが「取り返しがつかなくなった」と告げていた。


「……もう、大丈夫ですよ。

あなたは、咲いた。

あとは、香りを……伝えるだけです」


指先が頬に触れる。

その瞬間、夢が、現実に溶けた。


──目が覚めた。


部屋の天井。

明るく差し込む朝の光。


おれは、呼吸を整えながら、

ゆっくりと身体を起こした。


──ノックの音。


玄関の向こうで、聞き慣れた声がする。


「唯斗。いるか?」


咲耶の声だった。


それを聞いた瞬間、

身体が、ビクッと反応した。


香った。


喉の奥から、香りが、咲いた。


そして──確信した。


あの夢で、自分を咲かせたのは、

間違いなく。


咲耶だった。

玄関越しのその声を聞いた瞬間、

おれの中で何かが決まった。


あの夢で咲かされたのは、咲耶だった。

自分はもう、普通には戻れない。


──だからせめて、“返す”。


この香りを、咲耶に渡すことで、

終わりにできるなら──そう思った。


震える手でドアを開けると、

咲耶がいつも通りの顔で立っていた。


「おはよう」


「咲耶」


おれは、まっすぐ咲耶を見た。


「返すよ。

おまえが咲かせたんなら……

香り、返す。おれの中に、もう残すもんないから」


咲耶の目が、わずかに細められた。


「……返す、ね」


「それで終わりにしたい」


「──いいよ。返してみろ」


その言葉を合図にするように、

おれは咲耶に歩み寄る。


すごく、ゆっくりだった。

心臓が痛いほど鳴っているのに、

香りが、しん……と静かに咲き始めているのがわかった。


咲耶の目が、少しだけ優しくなる。


「おかえり」


その一言が、

全身を貫いた。


おれは、

咲耶の唇に、自分の唇を重ねた。


やわらかくて、少し熱くて、

でも、どこか懐かしい香りがした。


──香りが、渡った。


喉の奥から、花が咲くような感覚が広がる。


これで、終わる。

そう思った。


けれど。


「……なあ、唯斗」


唇が離れたあと、咲耶が囁いた。


「おまえ、

“返した”つもりだろうけど──

今、また香りが強くなってるの、わかるか?」


「……え?」


「香りってな、

誰かに触れられると、また咲くんだよ。

“渡して終わり”じゃない。

おまえの体がもうそれを覚えてしまっている」


おれは言葉を失った。


香りが、止まらない。


キスをしたあとなのに──

いや、キスをしたからこそ、

身体の奥がまた咲いてる。


「……嘘、だろ」


「おまえはもう、“与える側”になったんだよ。

香るだけじゃ、終われない」


咲耶が、再び近づく。


今度は、おれの唇じゃなく──

首筋に、そっと口を寄せた。


香りが、こぼれる。


「──な?」


その囁きとともに、

おれは目を閉じた。


もう、戻れない。


でも、咲耶に香りを返したときの、

あの甘さだけが──どうしても、忘れられなかった。


唇が離れたあとも、香りは止まらなかった。


咲耶が言ったように、

渡したと思った瞬間──また咲いていた。


おれは唇を押さえ、目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。


「……お前、騙したのか?」


言ってから、自分でも驚いた。

でも、もう止まらなかった。


「最初から、全部……

俺がこうなるの、わかってて……」


咲耶は、静かに笑った。


そして、何の躊躇もなく、こう返した。


「そういう血筋だからな」


あまりにも淡々としていて、

その言葉の意味が、一瞬で理解できなかった。


咲耶は続ける。


「うちは、そうやって“咲かせる”家系だ。

香らせて、咲かせて、引き寄せて──

そうやって代々、残してきた。

おまえも、その香りの中にいるだけだよ」


「……っ」


おれの喉が、何かを拒むように震えた。


「ふざけんな。血筋? 何だよそれ?

そんなもんで、おれを巻き込んで、咲かせたとかどうとか。

おまえ、それ、当たり前みたいに言ってんのかよ……!」


「ふざけてない。

おまえは、選ばれたんだよ」


その瞬間、

おれの中で何かが崩れ落ちた。


「なんだよ、選んだの選ばないのって。お前らが勝手に決めたんだろ!

別におれじゃなくたって良かった!」


止まらなかった。

抗っていた心も、

まだ普通でいられると思っていた幻想も。


「──違う」


咲耶の声が、低く、落ちた。


「おまえは、違う」


「……なにが」


「確かに、俺は“香り”を咲かせる家に生まれた。

香らせる技術も、誘導する手も、全部仕込まれてる。

だからって……全部が仕事じゃない」


「じゃあ……!」


「おまえは、“最初から目に入った”」


咲耶が、ゆっくりと目を細めた。


「口元に香りの余白があった。

呼吸が、まだ自分だけのものだった。

それを壊すには……あまりにも、綺麗すぎた」


「……」


「最初から“咲かせたくて”、

でも、汚したくなくて……

それでも、香りを吸わせてしまったのは、俺のほうだ」


おれは、息を詰めた。


「じゃあ……」


「──だから、もう逃げるな」


咲耶がおれの腕を取った。

指先は力強く、それでも優しかった。


「香らせたのは、確かに俺だ。

でも、おまえが咲いたのは──

“おまえが、俺の香りを欲しがったから”だろ」


喉が詰まり、

言葉が出なかった。


否定できない。

あの夜、あの夢、

あのリップ──


香りに溺れたのは、

たしかに、咲耶の香りだった。


「嫌いになれよ、じゃあ。

俺を、全部騙したって思って──突き放せよ。

できないなら……」


咲耶が顔を寄せる。


「もう、従え」


おれの中で、最後の抵抗が、

静かに崩れ落ちた。


それは命令というより、

祈りのような響きだった。


おれは、視線を逸らさずに咲耶を見た。


何かを責めることも、問うことも、もうできなかった。

ただ、身体の奥が静かに熱を持って──


「わかった」


その一言を、

息を吐くようにこぼした。


「逃げない……従う」


咲耶の瞳が、わずかに緩む。


「素直だな」


「お前が……咲かせたんだろ。

だったら、責任取れよ。最後まで」


それは強がりに近い言葉だったけれど、

咲耶は、それを無理に笑わなかった。


「……ああ。

おまえが咲いたこと、

絶対、無駄にはしない」


ゆっくりと咲耶が近づいてくる。

おれはもう逃げない。


手を取られて、

背中に腕を回されて、

唇が近づく。


呼吸が混ざる距離で、

咲耶が静かに言った。


「……口を、開けて」


おれは、逆らわずに従った。


その瞬間、香りが咲く。


自分の中から、咲耶の香りが立ち上がる。

蜜柑と白花、そして熱。

それが、咲耶の口へ伝わっていく。


(おれの香りじゃない……)


そう思った。

これは、自分が咲かせたものじゃない。


咲耶の香りを、咲耶に返している。

咲耶に咲かされたおれが、

咲耶のために“咲いている”。


そのことに気づいたとき、

胸の奥から、じんわりと何かがこぼれた。


それは羞恥でも、後悔でもない。

少しだけ、安堵だった。


「……いい子だ」


咲耶の唇が、耳元で囁く。


「もう大丈夫。

おまえは、ちゃんと俺の器になった」


その声に、おれは静かに目を閉じた。


香りが、

身体の奥から咲き続けていた。


それを咲耶に渡すことが、

もう、自分の役目だと思えていた。




──end.























評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ