第98話 翳る蒼月
彼女の花のような笑顔だけが、いつまでも焼き付いて。
「今日は女将さんに何も言わずに出て来ちゃったから。晩の食事までには戻るとして……まだもう少しだけ私との時間、あるわよね?」
想いを隠さなくなったマリーさんの、眩しすぎる笑顔。
それを真っ向から受け止めると、僕の心中にもまた、新たな感情が芽生え始める。
それは、見惚れるほどの笑顔に誘われた甘酸っぱさであり、同時に僕もこうありたいという切実な願いでもあった。
なじり合い、脆さをさらけ出した先に、僕のすべてを受け入れて「好き」と言ってくれる人がいる。
暗鬱だった胸に陽が差すように、心の奥がぽかぽかと温かくなっていく。
見習うべき『強くて優しい人の形』が、こんなにも近くにあったんだ。
マリアンヌさん。
心の中で、今はそう呼んでみたい気分だった。
「あ、はい……。もちろんです」
いつの間にか僕の口調は棘の抜けた、いつものそれに戻り始める。
「じゃあ、もう少しだけ私に付き合ってよ」
彼女はそう言うと、噴水のある広場からふらりと歩き出す。僕も慌ててその後を追った。
並んで歩く。
触れそうなほど近い距離。
数分前まで平気だったはずのすべてが、今は僕の心を千々に乱していく。
マリーさんの華奢な指先が、僕の腕にそっと触れた。
それから少しためらうようにして、ぎこちなくその腕を僕の腕に絡ませてくる。
驚いて彼女の横顔を盗み見ると、その白い肌は耳たぶまで真っ赤に染まっていて、何とも分かりやすかった。
僕よりもずっと年上で、いつも余裕綽々だったマリーさんが。
嘘のような初々しい反応に、僕は思わず頬が緩んでしまう。
「あの……マリーさん。顔、真っ赤ですよ?」
「う、うるさいわね!」
「……実は私、こんなことするの初めてなのよ」
さっきまでの大胆さが嘘のような、か細い告白。
僕はそんな彼女の姿をどうしようもなく可愛いと思い、だからこそ、少し意地悪をしたくなる。
今まで散々揶揄われてきたお返しも、ほんの少しだけ込めて。
「ええっ!? 僕よりずっと年上って言ってましたよね。それなのに、初めて?」
「それ、いま言う!? あんたってホント生意気なんだから!」
彼女は顔を伏せながら僕の背中をぽかぽかと叩くのだけれど、その拳には少しも力がこもっていなくて、ちっとも痛くなかった。
当初、僕たちの間に流れていたぎこちない氷が、その温かいじゃれ合いの中で、完全に溶けていくのが分かった。
◆ ◆ ◆ ─ Anrietta side ─
宿の食堂は、朝の賑わいが嘘のように静まり返っている。
彼とマリアンヌさんはもう出かけた後で、食堂のテーブルには私とミゲルさんだけが残されている。
……私も、少しだけ、自分を変えたい。
そう思い、静かに席を立った。ミゲルさんに「着替えてくる」と言い残して。
部屋に戻った私は、ベッドの上に一着の服を広げた。
あの癖の強いお婆さんのお店で、フェリクスさんが、私に着てほしそうにしていたあのお洋服。
大胆に開いた胸元に、深いスリットの入った黒いシュールコー。
これまでの自分なら、決して選ばなかったその装い。
でも、私も少しだけ、変わりたかった。
「では、行ってきますね」
一階へ降りると、ミゲルさんが感嘆の吐息を漏らした。
「アンリエッタ殿、よくお似合いですよ。……ただ、ご主君が見られなくてさぞがっかりなされるかと」
「……やっぱり、少し恥ずかしくて」
「あはは。ですが、それもまた良きことかと。本当に、護衛はいらないのですか?」
「ええ、大丈夫です。今日は……ひとりで歩いてみたい気分なので」
「承知しました。せめて護身用に杖だけはお持ちください。お気をつけて」
「ありがとうございます、ミゲルさん」
私は宿の扉を開け、勇気を振り絞ってグリザイユの街へと足を踏み出した。
何の制約もなく、一人で自由に歩けるだなんて、一体いつぶりのことだろう。
これもすべて、彼が私に与えてくれたもの。
けれど、いざ一人になって街の喧騒に身を投じてみれば。
どこから不条理な悪意が飛んでくるか分からないこの世界で。黒い私が、独りきりで歩くということが、こんなにも恐ろしいものだなんて。
ふと、隣にいるはずの彼の温もりを探して、空を切った自分の右手をそっと握りしめる。
あてどなく歩いているうちに、私はいつの間にか市場へとたどり着いていた。
グリザイユの市場は、まるで音の洪水だった。
行き交う人々の喧騒が、石畳を叩く荷馬車の車輪の音が、そして客を呼び込む店主さんたちの威勢のいい声が、私の耳に一度に飛び込んでくるから。
「この長い耳は、都会の喧騒を拾いすぎてしまうから……少し、不便なのね。はぁ」
それでも、どこかの屋台から漂ってくる、何かがぱちぱちと焼ける香ばしい匂い。
生命力に満ち溢れた様々な、色とりどりのお野菜や果物さんたちが見ていて楽しくて。
私の心を、少し浮き立たせるの。
「まあ、なんて美味しそう……」
ふと、露店に並べられた真っ赤な林檎に手を伸ばそうとした、その時だった。
「ママ、あのお姉ちゃん、髪が真っ黒で凄い綺麗だよ」
子供の無邪気な声。
けれど、それに続いた母親の返答が、私の手と足を縫い止めた。
「……見ては、いけません」
「どうして?」
「黒はね、死を呼ぶ色だと言われているの」
「うそ、あんなに綺麗なのに?」
「お母さんもそう教わって育ったわ。……迷信なのでしょうけど、近づかないに越したことはないわよ
ずきり、と。胸の奥を冷たい針で刺されたような、鋭い痛みが走った。
さっきまであんなに輝いて見えた市場の色彩が、一瞬にして色褪せ、灰色に染まっていく。
私はどうして、こんなにも人の多いところへ来てしまったのでしょう。
こうなることは、十分に予測できたはずなのに。彼と過ごす日々があまりに幸福だったから……私は、自分が何者であるかを忘れて、浮かれていたのかもしれません。
馬鹿な、私……。
私は逃げるようにその場を後にした。
ただひたすらに、早足で。
どこへ向かうというあてもなく、心臓の鼓動を振り切るように歩き続け──気づいた時には、見知らぬ広場へと迷い込んでいた。
「ここは……どこなの?」
完全に、私の大失敗。
人の数倍は生きるというのに、存外だらしない私。……フェリクスさんが見たら、きっと笑われてしまいますね
途方に暮れた私の目に飛び込んできたのは、陽光を浴びて宝石のようにきらめく、巨大な噴水でした。
寄る辺ない心を引き寄せられるように近づくと──そこには、彼がいたの。
マリアンヌさんと何かを言い争っている、彼の姿。
止めに入るべきかと足を踏み出しかけて、私は踏みとどまる。
今の私が割って入ったところで、彼はきっと喜ばない。余計に、彼を頑なにしてしまうだけ。
私は遠くの柱に身を隠し、二人を見守ることしかできなかった。
けれど……そんな私に、神様は残酷な罰をお与えになったのです。またしても。
見たくなくても、見てしまう。
人よりも鋭いこの耳は、聞きたくないはずの秘められた声までも、風に乗せて拾ってしまうから。
やがて、マリアンヌさんが彼を強く抱きしめて。
そして──二人の唇が重なるのを、私はただ、見つめていた。
自然と、自分の唇に指先で触れてしまう。
あんなに衝撃的な光景なのに、不思議と嫉妬の炎は燃え上がらなかった。
胸を通り抜けていく風はもっとずっと穏やかで……どうしようもなく切ない羨望を孕んでいたから。
いいな、マリアンヌさん……。
あんな風に真っ直ぐに、自分の想いをぶつけられたなら。
胸に湧き上がったのは、そんな、自分には許されない強さへの憧れ。
「ごめんなさい、私の小さかった騎士様……」
あなたの一番近くにいたい。
あなたの見るものすべて、隣に立って同じ彼方を見つめていたいと願っているのに。本当は私にこそ、その資格がない。
あなたと違う、この尖った耳が嫌い。
あなたと違う、この残酷なまでの命の長さが悲しくて。
想いを受け入れたら最後、私はいつか必ずあなたを、この世界からたった一人で送り出してしまうから。そして私は、あなたのいなくなった世界で、気の遠くなるような時間をたった一人で生き続ける。
そんなの、きっと耐えられない……。
だから、私はこうして見ていることを選んだのです。
あなたが「誰よりも美しい」と言ってくれる、私の本当の姿は。
森を追われ、独り街を彷徨っていた、あの頃のままなのかもしれません。
……ただの、臆病なハーフエルフの少女のまま。
「あら……」
ちゅんちゅんと、足元で小さな鳴き声がした。
一羽の小鳥が、私のすぐそばで無警戒に地面をつついている。
「ねえ、小鳥さん。あなたは私が怖くないの?」
「私の色が怖くないの?」
つぶらな瞳が、一生懸命に私を見つめ返してくれる。
『怖くないよ』と。
言葉はなくとも、そう答えてくれている気がした。
人の世界に拒絶された私を、ありのまま受け入れてくれる、自然。
エルフでもなければ、人でもない私は、どこへ行けばよいのでしょう。
本当は、彼の側から離れるべきなのかもしれない。
けれど……もう、遅すぎた。君の隣が、世界で一番居心地が良いと知ってしまったから。
せめて……せめて、近くにいさせてよ……。
私は、溢れそうになる涙を堪えながら、賑やかな広場を背にして、静かに歩き出した。




