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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
第三章 黒が忌諱される理由

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第98話 翳る蒼月

 彼女の花のような笑顔だけが、いつまでも焼き付いて。


「今日は女将さんに何も言わずに出て来ちゃったから。晩の食事までには戻るとして……まだもう少しだけ私との時間、あるわよね?」

 想いを隠さなくなったマリーさんの、眩しすぎる笑顔。


 それを真っ向から受け止めると、僕の心中にもまた、新たな感情が芽生え始める。

 それは、見惚れるほどの笑顔に誘われた甘酸っぱさであり、同時に僕もこうありたいという切実な願いでもあった。


 なじり合い、脆さをさらけ出した先に、僕のすべてを受け入れて「好き」と言ってくれる人がいる。

 暗鬱だった胸に陽が差すように、心の奥がぽかぽかと温かくなっていく。

 見習うべき『強くて優しい人の形』が、こんなにも近くにあったんだ。


 マリアンヌさん。

 心の中で、今はそう呼んでみたい気分だった。

 

「あ、はい……。もちろんです」

 いつの間にか僕の口調は棘の抜けた、いつものそれに戻り始める。


「じゃあ、もう少しだけ私に付き合ってよ」

 彼女はそう言うと、噴水のある広場からふらりと歩き出す。僕も慌ててその後を追った。

 並んで歩く。

 触れそうなほど近い距離。

 数分前まで平気だったはずのすべてが、今は僕の心を千々に乱していく。


 マリーさんの華奢な指先が、僕の腕にそっと触れた。

 それから少しためらうようにして、ぎこちなくその腕を僕の腕に絡ませてくる。

 驚いて彼女の横顔を盗み見ると、その白い肌は耳たぶまで真っ赤に染まっていて、何とも分かりやすかった。


 僕よりもずっと年上で、いつも余裕綽々だったマリーさんが。

 嘘のような初々しい反応に、僕は思わず頬が緩んでしまう。

「あの……マリーさん。顔、真っ赤ですよ?」

「う、うるさいわね!」


「……実は私、こんなことするの初めてなのよ」

 さっきまでの大胆さが嘘のような、か細い告白。

 僕はそんな彼女の姿をどうしようもなく可愛いと思い、だからこそ、少し意地悪をしたくなる。

 今まで散々揶揄われてきたお返しも、ほんの少しだけ込めて。


「ええっ!? 僕よりずっと年上って言ってましたよね。それなのに、初めて?」

「それ、いま言う!? あんたってホント生意気なんだから!」

 彼女は顔を伏せながら僕の背中をぽかぽかと叩くのだけれど、その拳には少しも力がこもっていなくて、ちっとも痛くなかった。


 当初、僕たちの間に流れていたぎこちない氷が、その温かいじゃれ合いの中で、完全に溶けていくのが分かった。


 ◆ ◆ ◆ ─ Anrietta side ─


 宿の食堂は、朝の賑わいが嘘のように静まり返っている。

 彼とマリアンヌさんはもう出かけた後で、食堂のテーブルには私とミゲルさんだけが残されている。

 

 ……私も、少しだけ、自分を変えたい。

 そう思い、静かに席を立った。ミゲルさんに「着替えてくる」と言い残して。

 

 部屋に戻った私は、ベッドの上に一着の服を広げた。

 あの癖の強いお婆さんのお店で、フェリクスさんが、私に着てほしそうにしていたあのお洋服。

 大胆に開いた胸元に、深いスリットの入った黒いシュールコー。

 

 これまでの自分なら、決して選ばなかったその装い。

 でも、私も少しだけ、変わりたかった。

 

「では、行ってきますね」

 一階へ降りると、ミゲルさんが感嘆の吐息を漏らした。


「アンリエッタ殿、よくお似合いですよ。……ただ、ご主君が見られなくてさぞがっかりなされるかと」

「……やっぱり、少し恥ずかしくて」 

「あはは。ですが、それもまた良きことかと。本当に、護衛はいらないのですか?」


「ええ、大丈夫です。今日は……ひとりで歩いてみたい気分なので」

「承知しました。せめて護身用に杖だけはお持ちください。お気をつけて」

「ありがとうございます、ミゲルさん」


 私は宿の扉を開け、勇気を振り絞ってグリザイユの街へと足を踏み出した。

 何の制約もなく、一人で自由に歩けるだなんて、一体いつぶりのことだろう。

 これもすべて、彼が私に与えてくれたもの。

 

 けれど、いざ一人になって街の喧騒に身を投じてみれば。

 どこから不条理な悪意が飛んでくるか分からないこの世界で。黒い私が、独りきりで歩くということが、こんなにも恐ろしいものだなんて。

 ふと、隣にいるはずの彼の温もりを探して、空を切った自分の右手をそっと握りしめる。


 あてどなく歩いているうちに、私はいつの間にか市場へとたどり着いていた。


 グリザイユの市場は、まるで音の洪水だった。

 行き交う人々の喧騒が、石畳を叩く荷馬車の車輪の音が、そして客を呼び込む店主さんたちの威勢のいい声が、私の耳に一度に飛び込んでくるから。


「この長い耳は、都会の喧騒を拾いすぎてしまうから……少し、不便なのね。はぁ」


 それでも、どこかの屋台から漂ってくる、何かがぱちぱちと焼ける香ばしい匂い。

 生命力に満ち溢れた様々な、色とりどりのお野菜や果物さんたちが見ていて楽しくて。

 私の心を、少し浮き立たせるの。


「まあ、なんて美味しそう……」

 ふと、露店に並べられた真っ赤な林檎に手を伸ばそうとした、その時だった。


「ママ、あのお姉ちゃん、髪が真っ黒で凄い綺麗だよ」

 子供の無邪気な声。

 けれど、それに続いた母親の返答が、私の手と足を縫い止めた。


「……見ては、いけません」

「どうして?」

「黒はね、死を呼ぶ色だと言われているの」

 

「うそ、あんなに綺麗なのに?」

「お母さんもそう教わって育ったわ。……迷信なのでしょうけど、近づかないに越したことはないわよ

 

 ずきり、と。胸の奥を冷たい針で刺されたような、鋭い痛みが走った。

 さっきまであんなに輝いて見えた市場の色彩が、一瞬にして色褪せ、灰色に染まっていく。

 私はどうして、こんなにも人の多いところへ来てしまったのでしょう。

 こうなることは、十分に予測できたはずなのに。彼と過ごす日々があまりに幸福だったから……私は、自分が何者であるかを忘れて、浮かれていたのかもしれません。

 馬鹿な、私……。


 私は逃げるようにその場を後にした。

 ただひたすらに、早足で。

 どこへ向かうというあてもなく、心臓の鼓動を振り切るように歩き続け──気づいた時には、見知らぬ広場へと迷い込んでいた。


「ここは……どこなの?」

 完全に、私の大失敗。

 人の数倍は生きるというのに、存外だらしない私。……フェリクスさんが見たら、きっと笑われてしまいますね


 途方に暮れた私の目に飛び込んできたのは、陽光を浴びて宝石のようにきらめく、巨大な噴水でした。

 寄る辺ない心を引き寄せられるように近づくと──そこには、彼がいたの。


 マリアンヌさんと何かを言い争っている、彼の姿。

 止めに入るべきかと足を踏み出しかけて、私は踏みとどまる。

 今の私が割って入ったところで、彼はきっと喜ばない。余計に、彼を頑なにしてしまうだけ。

 私は遠くの柱に身を隠し、二人を見守ることしかできなかった。

 けれど……そんな私に、神様は残酷な罰をお与えになったのです。またしても。


 見たくなくても、見てしまう。

 人よりも鋭いこの耳は、聞きたくないはずの秘められた声までも、風に乗せて拾ってしまうから。


 やがて、マリアンヌさんが彼を強く抱きしめて。

 そして──二人の唇が重なるのを、私はただ、見つめていた。

 自然と、自分の唇に指先で触れてしまう。


 あんなに衝撃的な光景なのに、不思議と嫉妬の炎は燃え上がらなかった。

 胸を通り抜けていく風はもっとずっと穏やかで……どうしようもなく切ない羨望を孕んでいたから。


 いいな、マリアンヌさん……。


 あんな風に真っ直ぐに、自分の想いをぶつけられたなら。

 胸に湧き上がったのは、そんな、自分には許されない強さへの憧れ。

 

「ごめんなさい、私の小さかった騎士様……」


 あなたの一番近くにいたい。

 あなたの見るものすべて、隣に立って同じ彼方を見つめていたいと願っているのに。本当は私にこそ、その資格がない。


 あなたと違う、この尖った耳が嫌い。

 あなたと違う、この残酷なまでの命の長さが悲しくて。


 想いを受け入れたら最後、私はいつか必ずあなたを、この世界からたった一人で送り出してしまうから。そして私は、あなたのいなくなった世界で、気の遠くなるような時間をたった一人で生き続ける。

 そんなの、きっと耐えられない……。

 だから、私はこうして見ていることを選んだのです。


 あなたが「誰よりも美しい」と言ってくれる、私の本当の姿は。

 森を追われ、独り街を彷徨っていた、あの頃のままなのかもしれません。

 ……ただの、臆病なハーフエルフの少女のまま。


「あら……」

 ちゅんちゅんと、足元で小さな鳴き声がした。

 一羽の小鳥が、私のすぐそばで無警戒に地面をつついている。

「ねえ、小鳥さん。あなたは私が怖くないの?」


「私の色が怖くないの?」

 つぶらな瞳が、一生懸命に私を見つめ返してくれる。

『怖くないよ』と。

 言葉はなくとも、そう答えてくれている気がした。


 人の世界に拒絶された私を、ありのまま受け入れてくれる、自然。

 エルフでもなければ、人でもない私は、どこへ行けばよいのでしょう。

 

 本当は、彼の側から離れるべきなのかもしれない。

 けれど……もう、遅すぎた。君の隣が、世界で一番居心地が良いと知ってしまったから。


 せめて……せめて、近くにいさせてよ……。

 私は、溢れそうになる涙を堪えながら、賑やかな広場を背にして、静かに歩き出した。

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