97話 箱の底に残ったモノ
翌朝、僕とマリーさんは『森のふくろう亭』を出て、あてもなくグリザイユの街を歩いていた。
この都に来てからまだ日も浅い。僕たちにとって見るもの全てが真新しく、本来なら心躍る散策になるはずだったのに。
素直になれない、子供じみた態度のせいで。
僕とマリーさんの間まで、どこかぎこちない空気が漂い始めている。
けれど、そんな空気をものともせず、マリーさんは柳に風と受け流し、努めて明るく振る舞ってくれる。
「ほら見てフェリクス君。すごいわよ、あれ」
彼女が弾んだ声で指し示した広場の中央には、とても大きな噴水があった。
優美な乙女の石像が掲げた水瓶から、尽きることなく溢れ出す清冽な水。これもまた、一つの巨大な魔道具なのだろう。
「さすがは都よね。綺麗だわ」
飛散する飛沫が陽光を反射し、マリーさんをきらきらと光の粒で飾り立てる。
人ならざる美貌のアンリエッタさんと日々を過ごすうちに、僕の感覚は知らず知らずのうちに麻痺していたのかもしれない。
改めてマリーさんもまた、息を呑むほどの美女なのだと再認識させられる。
心の底から、この光景を楽しんでいるのか。
その生き生きとした輝くような笑顔は、妙齢の女性が持つ華やかさと、包容力に満ちていて。ほら、道行く男たちの視線が、自然と彼女へと惹きつけられている。
広場の誰よりも、残酷なほど輝いて見えたよ。
「……リヨンには無い華やかさですね」
「うんうん、やっぱり都は格が違うわ」
僕の素っ気ない相槌にも、マリーさんは上機嫌に頷く。
風に乗って届く、ひんやりとした水の粒子たち。
それが火照った肌を優しく撫でるたび、凝り固まった僕の心までさっぱりと洗い流してくれたらいいのに。
そんな、願いが胸をかすめた。
僕たちは噴水のたもとで足を止め、しばし涼を楽しむ。
ふと見上げると、広場に接した大通りに、古色蒼然とした時計台が高くそびえ立っているのが見えた。
巨大な文字盤の上をゆっくりと動くのは、たった一本の、太く重厚な針だけ。
……時針しか、ないのか。
分刻みの喧騒に追われていた、前の世界とはこんなところまで違う。
本来、この世界は僕にとっての救いだったはずで。
アンリエッタさんにまた会えた。マリーさんやミゲルさんのような、かけがえのない仲間とも出会えた。
なのに、また僕は選ばれなかった。
今度は、『真名』を聞く資格がないと、思い知らされてしまった。
いっそ逃げ出してしまいたい。
何もかもをかなぐり捨てて、あの孤独で虚無だった代わりに、痛みもなかった灰色の世界へと。
我ながら、なんて弱い心なんだろう。
あの救いようのない空虚さに郷愁を抱くなんて、どうかしている。どうかしているにもほどがある。
僕は自分の卑屈さを振り払うように。
その不思議な機構に、心の中で勝手に名付けてみる。
──魔道針、と。
本当の名前なんて知らない。何も知らない。
はは、まさに今の僕らしいじゃないか。
「……アンリエッタさんもこれを見たら、きっと喜んだでしょうね」
あんな態度を取っているくせに、口から零れたのは、やはり彼女の名前だった。
子供の頃からずっとだもんな。
嫌になるほど、僕は彼女に囚われている。
「なら、素直にそういってあげなさいよ」
隣から飛んできたマリーさんの言葉に、僕は即座に身を硬くした。
「……そんな簡単なことじゃ、ないんです」
「そうかしら。自分の殻に閉じこもって、うじうじしていないで、キミの本当の気持ちをぶつけたらいいじゃない。キミらしくないわよ、フェリクス君」
何も知らないから、そんな無責任なことが言えるんだ。
彼女にやんわりと拒絶されたのは、これが初めてじゃないというのに。
「くっ……マリーさんまで、そんなことを言うんですか。これ以上、僕にどうしろと言うんです。僕の気持ちなんて、何も知らないくせに!」
子供じみた、悲劇の主人公を気取る一言。それが引き金だった。
それまで慈母のように微笑んでいたマリーさんの表情から、ふっと体温が消えた。
「──じゃあ聞くけど」
始めて聞く、彼女の平坦な声。
「どうして、あのとき契約を解除したの? 解除しなければ、今頃は彼女をキミの意のままにできたはずよ。違う?」
「なっ!? 何を言ってるか、分かってるんですか?」
「分かってるわよ。でも、ただ彼女を思い通りにしたいだけなら、それが一番、手っ取り早かったでしょう?」
「馬鹿なことを言わないでください!」
僕の魂からの叫び。
僕の魂からの叫びを、マリーさんはどこまでも冷徹で、けれど深い哀しみを湛えた瞳で見つめ返してくる。
「本当は、違うよね。上辺だけじゃない、彼女の心も欲しかった。そうでしょう?」
「う……それだけじゃ、ありません。本当に、自由にしてあげたかった。それだけは、真実です」
「見返りを求めていなかったと言うなら、なぜ、そんな態度を続けるの? 誰も得なんてしない。皆が、傷つくだけよ」
「そんなこと……マリーさんに言われなくたって、分かってますよ!」
「なら、頑張ればいいだけじゃない。彼女に認められるまで必死に足掻きなさいよ」
「それが簡単なら、最初からしてますよ! うるさいな、もう……放っておいてください!」
「ねえ。どこまでも真っ直ぐで、陽だまりみたいだったキミは、どこへ行っちゃったの?」
その声は、もう僕を責めてはいなかった。
ただ、どうしようもないほどの悲しみに満ちていた。
「……そんな、悲しいことばかり言わないでよ」
彼女は力なく噴水の縁に腰を下ろす。
視線は僕を捉えず、ただ虚ろに水面を跳ねる光の粒子だけを追っていた。
そんな彼女の唇から零れ落ちたのは、呆れでも、怒りでもない。深い諦観を滲ませた、乾いた呟きだった。
「いいわよね、キミは。ただ真っ直ぐに好きを押し通せるのだから。私の、どこにも出口がない想いとは違うもの。……人はね、皆幸せそうに見えても、どこかに、自分でもどうしようもない苦しみを抱えて生きているのよ」
「え……?」
マリーさんの悲痛な響きを帯びた声に、僕は返す言葉を失ってしまう。
出口がない想い。苦しみ。それは、一体……。
「聞きたい? 聞きたいなら教えてあげる。でも、思いっきり引くわよ?」
「……気には、なります」
聞きたい、けど聞くのが怖い。
僕は彼女のあまりにも寂しげな横顔から、目を逸らすことができなかった。
「……好きな人が出来たの」
自分自身に言い聞かせるような、呟き。
その言葉が、僕の胸の奥をちりりと、予期せぬ痛みで焼いた。
「ううん、好きのもう少し先……が、正しいかな」
「その子は私よりずっと若くてね。向こう見ずで……放っておけない、弟みたいな子だった。最初は、ね」
彼女の声には自嘲と、どうしようもないほどの愛おしさが混じり合っている。
「マリーさん……」
アンリエッタさんとはまた違う形で、僕の全てを受け入れてくれていた人が、今にも泣き出しそうな顔で「知らない誰か」の話をしている。
その光景が、僕の心をどうしようもなくざわつかせる。
「でも、違ったわ。その子は私が思っていたよりも、ずっと強くて……優しくて……。誰かのために、自分の命さえ懸けてしまうほどの、馬鹿みたいに真っ直ぐな子だったから」
……そんなの、まるで。
そう思えてならない幾つもの出来事が、僕たちの間にはあったから。
でも、いつも、いつも、肝心なところでアンリエッタさんとの距離を、測り間違えてしまう僕の目は、もう当てにはならない。
自惚れるなと、自分が自分を冷笑する。
「そんな子の、熱くて、眩しい背中ばかり見せつけられて……気が付いたらもう、私の心の中に、居座っちゃったのよ」
彼女はそこで一度言葉を切り、僕の目を遠慮がちに見つめた。
その大きな緑の瞳が、陽の光を映して、悲しいほど美しく揺らめいている。
「……フェリクス君、キミのことよ」
空気が止まった。
「信じてないでしょう? じゃあ証拠を見せてあげる」
彼女は立ち上がると、その華奢な体で、僕の全てを包み込むように強く抱きしめた。
ふわりと香る、彼女を象徴する優しい花の香り。
背中に回された彼女の指先に、ぎゅっと力がこもる。
少しだけ上半身が離されると、すぐ目の前にマリーさんの潤んだ緑の瞳があった。悲しいほどに美しい緑の瞳が、何かを懸命に訴えかけている。
視線の低い僕を覗き込むように、彼女は静かに身を屈めた。
止まってしまった僕の思考を置いてけぼりにして、その柔らかくて温かい唇が、僕のそれを優しく塞ぐ。
頭が、真っ白になる。
遠くで聞こえるはずの噴水の音も、街の喧騒も、何も聞こえない。
柔らかな唇の感触と、涙の味が混じった切ない甘さだけが、僕の世界の全てとなる。
「キミは、アンリエッタさんが好きなんでしょう?」
何も言えない僕に、彼女は自分に言い聞かせるように続ける。
「諦めず頑張りなさいよ。……そう言いたかったの。私も今日からは、この行き場の無い想いに、すこしづつ出口を与えてあげることにするから。アンリエッタさんにもちゃんと話すわ」
「そうそう、実は初めてじゃないのよ? 私たち。キミは何も知らないだろうけど。 ……ふふっ」
狼狽える僕を、彼女はどこまでも慈愛に満ちた瞳で見つめ返す。
「この先も、キミになら……してあげてもいいと思ってるわ」
「ええっ?」
「ばーか。私を、ちゃんと一人の女性として見てくれるなら、よ。そんなに安くないんだから」
彼女はいたずらっぽく笑い、僕の鼻先を指で弾いた。
「そうだ、もう一つ教えてあげる。だから、マリーと呼んで欲しかったのよ」
いつぞやの、泥まみれの中で見せた彼女の表情がそこにあった。
完全に停止してしまった思考の中へと、彼女の花のような笑顔だけが、いつまでも、いつまでも。
鮮やかに刻み込まれていった。




