第96話 軋む円環
翌日からの僕たちの狩りは、どこか、ちぐはぐだったと思う。
いや、連携そのものに問題はない。
アンリエッタさんの魔法が敵を縛り、僕とミゲルさんの剣がその隙を容赦なく穿つ。マリーさんの矢は、常に僕たちの死角を支配し、完璧な援護を繰り出していた。 戦術的な練度は、間違いなく昨日までを凌駕している。
けれど──何かが、決定的に違っていた。
以前は戦場に溢れていたはずの、仲間たちの温かい声援や軽口が、今はもう聞こえない。ただ黙々と獲物を屠り、事務的に素材を剥ぎ取り、粛々と次の獲物を探す。
この前までが嘘のような、無機質で効率的すぎる狩りの時間が続く。
僕たちの間に、いつの間にか生まれてしまった、見えざる壁。
……違うな。
皆、優しいから。その正体に気づいていながら、誰もそれを口にしないだけだ。
悪いのは僕だろ。なぜ誰も、僕を責めない。
「──来るわよ!」
マリーさんの、短く鋭い声が森の静寂を切り裂く
数瞬遅れて、木々の影から赤黒い光を宿した無数の瞳が浮き上がった。ダイアウルフの群れだ。その数、十を超えている。
くそっ、こんな時に。
「ミゲル君は右、フェリクス君は左! アンリエッタさん、出来れば数を減らしてもらえる?」
口数の少なくなった僕の代わりに、マリーさんの淀みない指示が飛ぶ。それはもはや提案ではなく、戦場を律する命令だった。
僕とミゲルさんは無言で左右に展開し、襲い掛かる餓狼の群れを迎え撃った。
戦いは、恐ろしいほどに静か。
ミゲルさんの盾が爪を弾く硬質な音。僕の剣が肉を断つ不快な音。マリーさんの矢が風を裂く音。そして、アンリエッタさんの風の刃が、魔獣の命を無慈悲に刈り取る音。
ただ、それだけ。
獣の断末魔だけが、僕たちの無言の戦いを不気味に彩っている。
やがて最後の一頭が事切れた時。
僕たちの間に残ったのは、勝利の高揚感などではなくて、互いの視線を合わせることさえ躊躇われるような、泥濘のような気まずさだった。
そんな空気を、彼女だけが何とかしようとしていた。
僕よりもずっと大人なアンリエッタさんが、僕の元へと駆け寄ってくる。もう何度目だろう。彼女がこうして、僕の頑なな心に触れようとしてくれるのは。
彼女と話すのが好きだった。隣にいるだけで幸せだった。
健気な歩み寄りが、嬉しいはずなのに。
僕を選ばない君が、なぜ、そんなにも甲斐甲斐しく僕を構うんだ?
その真っ当で美しい慈愛が、今の僕には、自分の子供っぽさを嘲笑っているかのように感じられて。また、醜い感情が胸の奥で鎌首をもたげる。
彼女は、その美しい蒼玉の瞳に純粋な賞賛を浮かべて言った。
「ふふ、素晴らしい剣捌きでしたね、フェリクスさん」
「ああ……そう」
裏腹に、僕の口から零れ落ちたのは、自分でも驚くほど冷たく、硬い言葉だった。
アンリエッタさんの表情が、春の雪解けが凍りつくように悲しげに揺れる。僕は、それに気づかないふりをするのが、精一杯だった。
空がいよいよ、中天に差し掛かろうとする頃。
木の根に腰を下ろし、短い休息を取っていた僕の元へ、アンリエッタさんが腰の革水袋をそっと差し出した。
分かっている。
いつ、いかなる時だって、貴女は僕に優しいことを。
「あの、フェリクスさん……。少し、お休みになってください。お顔の色が、優れませんよ」
「……平気です」
フェリクスさん、マリアンヌさん、ミゲルさん。
脳内でリフレインするその呼び方が、今はどうしようもなく腹立たしい。
丁寧な響きが、鋭い棘となって僕の心臓を執拗に突き刺してくる。
……ああ、そうか。
僕も、その他大勢と同じ「枠組み」に過ぎないんだ。
あの夜のことは、君にとってその程度の意味しかなかったのだ。
自分の思考の卑しさに、吐き気がする。
けど、その当たり障りのない呼び方が「貴方も皆と同じだ」という残酷な答えを突きつけているようで、どうしようもなく辛かった。
僕の心の中で、選ばれなかった苛立ちが、黒い靄のように渦を巻いていく。
「もう、放っておいてください! なんなんだ、一体」
生涯で初めて、彼女を明確に拒絶した。
それでも、彼女は何も言い返さなかった。
誰よりも美しい瞳を悲しげに伏せて、黙って僕の前から立ち去っていく。
その、今にも折れてしまいそうなほど儚く、頼りない後ろ姿に、いつか『二度と辛い思いはさせない』と誓った、あの幼い日の自分の声が脳裏に蘇る。
在りし日の誓いの重みが、今の僕を「加害者」として断罪する。
胸を抉るような自責の念。けれど、それを認めてしまえば自分の惨めさに耐えられなくなる。
少し離れた場所で、マリーさんとミゲルさんが、僕たちの痛々しいやり取りを、ただ成すすべもなく見つめていた。
その日の狩りを終え、僕たちは『森のふくろう亭』へと戻った。
温かい夕食の席でも、僕の見苦しい態度は続く。
いけないことだと分かっているのに。一度狂ってしまった心の歯車は、自力ではもう、戻せないところまで来ていた。
冷徹な理性が自分を嘲笑い、醜悪な感情が暴走する。
食事が終わると、アンリエッタさんはそっと立ち上がり、僕の分の食器も片付けようとしてくれるのに。
「……自分でやりますから」
「……はい」
再び、氷のような一言を投げつけてしまう。
救いようがない。僕は一体何度、彼女の真心を踏みにじれば気が済むのだろうか。 アンリエッタさんの美しい顔に、暗い影がすとんと落ちる。
──いつまで、こんなことを続けるつもりなの。
あまりにも幼稚で痛々しいやり取りに、ついに、限界が訪れた。
それまで沈黙を守っていたマリーさんが、弾かれたように立ち上がったんだ。
ドンッ!!
激しい音を立てて、彼女の両手がテーブルに叩きつけられる。
凄まじい剣幕に、僕とアンリエッタさんどころか、ミゲルさんまでもが驚愕し、その視線を一点に集中させた。
「……もう、見てらんないわ」
マリーさんは一度、肺の底から吐き出すように長く、重い息をついた。
「駄目よ、こんなの。こんな状態で森に入れば、いつか必ず誰かが死ぬ。……幸い、路銀もある程度貯まったわ。明日は休みにしましょう」
彼女の視線が、射抜くような鋭さで僕を捉える。
「……フェリクス君。キミは、明日一日私に付き合いなさい。いいわね?」
「え、でも……」
「ごちゃごちゃ言わないの。返事は」
有無を言わせぬ、一言。
その言葉は、もはや提案ではなくて。
この壊れかけたパーティーを、そして泥沼に沈みかけている僕たちを、力ずくで引きずり上げようとする──彼女なりの、切実な「叱咤」だった。
僕も、アンリエッタさんも。そしてミゲルさんまでもが。
姉の如き厳しさを纏った彼女の眼差しを前に、ただ静かに頷き返すことしかできなかった。




