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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
第三章 黒が忌諱される理由

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第86話 影と光

 瞼を撫でる、柔らかな陽の光。

 昨夜の温もりの続きのよう柔らかさ。貴女がそこにいて、僕の髪を優しく撫でてくれているかのような、そんな錯覚に包まれる。

 昨夜の幸福の続きが見たくて、僕はゆっくりと、波間に揺蕩うような意識を浮上させていく。

 寝台へ、前のめりにもたれて眠ってしまったせいで、体の節々は少々痛む。けど、そんな些末な痛みなど、どうでもよかった。


 唇に残る、確かな想い。部屋に残った蜂蜜酒の甘い香り。

 あれは……夢、じゃなかったのだと。その記憶の残滓だけで僕の心は、既にどうしようもないほどの幸福感で満たされていた。

 

 多幸感に身を浸らせるように、僕がゆっくりと体を起こすと、寝台の温もりが既に失われていることに気づく。掛け布は、寸分の乱れもなく綺麗に畳まれている。

 胸をよぎる冷たい不安。

 僕は逸る心で、部屋に彼女の姿を探す。

 ──いた。

 手入れの行き届かない曇った窓辺に、彼女は一人、静かな光の中に佇んでいた。

 

 差し込む朝の光が、彼女の黒髪を今度は……淡い金色に縁取っている。その横顔は僕の知らない、どこか遠くをもの悲しく見つめているようで。

 光の中に佇む、美しい一枚の影絵にも似た姿。

 その影絵が昨日と同じ紺鳶色の服を纏っていることに、僕は気づいてしまった。


「おはよう、アンリエッタさん」

 僕の声は、静かな水面に落ちた雫のように、彼女の肩を震わせてしまう。


「……おはよう、ございます。フェリクス、さん」


 振り返った瞳と目が合った瞬間、昨夜の熱が蘇り、僕の頬が真っ赤に燃える。

 だというのに、彼女の瞳は僕の熱を映すことなく、すぐに逃げ場を探すように彷徨ってしまった。

 僕がいるから着替えられなかったのだ、そう気づいたのは、そのあとすぐ。甘いはずの朝に、ほんの少しだけ、切ない影が落ちていた。


「ぼ、僕がいたら、着替えられないよね。外に出てるから!」

 僕は慌ててそう言うと、逃げるように部屋を飛び出した。


 廊下へと飛び出し、ひやりと冷たい壁に背中を預ける。そして、カッと熱くなった顔を一人両手で覆った。

 ……意識しすぎだ。

 きっと彼女も、恥ずかしかっただけなんだ。

 

 本当にそうだろうか。

 思い返されるは、逃げ場を探すように彷徨ったあの瞳。あれは、単なる恥じらいではないはず。僕が部屋にいたから、というだけの理由でもなさそうだ。もっと根深い何かが、僕と彼女の間に横たわっている。

 そんな気がして、ならない。


 昨夜の口づけは、ただの気まぐれだったのだろうか。

 お酒の勢いだった……?

 朝になって、後悔しているのだろうか。

 一度芽生えた疑念は、冷たい毒のように心を蝕んでいく。思考は暗い螺旋を描き、救いのない闇へと落ちていくみたいに。


 それから、少しの時が過ぎて。

 僕の真横で扉がギィ、と、控えめな、けれども僕の世界を揺るがすには十分すぎる音を立てて開いた。

 振り返って一目、僕の世界は、再び鮮やかな色を取り戻したよ。


 昨日、二人で選んだ、まさしく夜空の紺碧。

 下に覗くコットの純白が映える。雪のような肌の白さ。その全てが、廊下に差し込む朝の光を浴びて、鮮烈に輝いている。

 銀糸の刺繍が瞬くたびに、僕は自分がいま、確かにこの知らない世界で生きているのだと、思い知らされるほどに。

 僕の暗い心を照らし出す、夜明けの(玄蒼)女神が、そこに立っていた。

 

「うわぁ……すごく、似合ってるよ。本当に」

 心の底から漏れ出たような呟きに、アンリエッタさんの少し硬かった表情が、ふわりと綻んだ。

「……本当、ですか? よかった……」

 花が咲くような、はにかんだ笑顔一つで。

 さっきまで僕の心を占めていた不安や、疑念の全てが嘘のように、朝霧が晴れるかのように消えていく。

 僕はそれだけで、どうしようもなく、幸せな気持ちになるのだった。


「さてと……。じゃあ、旅支度を始めようか」

 僕は、昨日買い揃えたばかりの、真新しい革の背嚢を彼女に手渡す。

「これは、アンリエッタさんの分だね」

「ありがとうございます」

 僕たちは店の老婆が丁寧に畳んでくれた変えの上着やコットを、一つ一つ、彼女の背嚢へと詰めていく。何だかまるで、空っぽだった彼女の今までに、僕たちの未来を詰め込んでいくかのようで、どこか希望に満ちた匂いがした。


 僕たちの新しい旅が、今日、ここから始まる。

 そんな実感が、胸に込み上げてくる。


 最後に僕が、彼女の背中に、そっと背嚢を背負わせてあげる。

 するとアンリエッタさんが、椅子に掛けてあった、あの、夜空の色をしたとんがり帽子を手に取った。

 それから、昨日と同じように柔らかく微笑んで、僕の前にそっと身をかがめてくれるんだ。

「フェリクスさん、どうぞ」

 ああ、また、だ。

 僕に、被せてくれってこと?

 ……なんだか、僕たちだけの、特別な儀式みたいで凄く嬉しいや。

 僕は、高鳴る胸を抑えながら、彼女の艶やかな黒髪の上にそっと、帽子を乗せてあげた。

 

「よし、僕も準備しないとね!」

 彼女の支度が整ったのを見て、僕は慌てて、自分の数少ない荷物をまとめ始める。

 そして、逸る気持ちのまま、部屋の扉に手をかけた、その時。


「お待ちください」

 殺風景な部屋に響く、凛とした静かな声。

「フェリクスさん。最後は綺麗に、お返しするべきですよ」

 

 アンリエッタさんはそう言うと、僕が立ち上がった拍子にずれてしまった椅子を、元の位置へと静かに戻した。それから僕が座って、少しだけ乱れていた掛け布を、もう一度美しく、折り目正しく直していく。

 その無駄のない、流れるような優雅な仕草が素敵だった。

 これは、かつての彼女が身につけた使用人としての所作ではなくて。彼女がその魂に宿す、気品そのものなのだと思う。


 ……こういう、細やかな気遣いができるのが、アンリエッタさんなんだ。

 僕が忘れていた、彼女のもう一つの素敵な一面。

 僕は自分の慌ただしい行動を、少しだけ恥じた。


 僕が一人で暮らしていた部屋は、来た時よりもずっと綺麗になっていた。そんな気がする。

 僕たちは顔を見合わせて小さく笑うと、今度こそ二人で、その部屋を後にする。

 もう二度と、この部屋に泊まることはないのかも、しれないね。

 さようなら、孤独だった僕。


 ギルドに部屋を返却し、僕たちはリヨンの町を包む、爽やかな朝陽の中を歩いていた。そのまま、皆との約束の場所である、リヨンの正門へと向かう。

 僕の隣を歩くアンリエッタさんのその足取りは、昨日と同じく、とても軽やかに見えた。


 ふと、僕の視線が、彼女の首元へと吸い寄せられる。

 かつて、あの、冷たい魔封じの首輪がはめられていた、その場所に──今は、二つの、温かい光が誇らしげに揺れていたから。


 一つは、出来立ての、ピカピカに磨かれた鉄級冒険者の証。

 そしてもう一つは。

 いつだったか、僕が贈った、あの素朴な革紐の首飾りが、彼女の白い肌の上で、冒険者の証に寄り添うように、優しく揺れていた。


 長いようで短かった、三ヶ月。

 彼女が、ただのアンリエッタさんとして、僕の隣にいる。

 そんな当たり前のようでいて、奇跡のような光景に、僕は朝だというのに、胸の奥が熱くなってしまうんだ。


「……似合って、いますか?」

 僕の視線に気づいたのだろう。

 彼女が少しだけ照れくさそうに、首元にそっと触れる。

「うん。世界で一番、似合ってるよ」

 僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


 正門が見えてきた。

 その下には、僕たちを待つ二人の、頼もしい仲間の姿があるはずさ。

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