第84話 蜂蜜酒より甘い夜
冒険者ギルドの一階ホールは、夜になると昼間とは全く違う顔を見せる。
むせ返るような熱気に汗とエール、肉の焼ける匂いが混じり合った喧騒の中、アンリエッタさんの場違いなほど清らかな佇まいが、嫌でも注目を集めていた。
「こんな騒がしいところでごめん。でも、僕が毎晩食べていたのはここだから。ほら、さっきも話したと思うけど、明日皆との合流次第では町を離れるわけだし。今しか知ってもらう機会がないかなと思って……」
「ふふ。随分と賑やかですね。大丈夫ですから、気にしないでください」
いくら明日リヨンを離れるかもしれないとはいえ、最高の一日の締めくくりがギルドの酒場って、正直どうなの?
でも確かに。この数か月の食事と言えば……ここ意外となると……市場で買って上の部屋で食べるか、一度マリーさんの家でご馳走になったくらいで、他で食べた記憶がないんだよね。
……これが偽らざる、僕の日常だったんだ。
着飾った店など、もう遠い世界の記憶。
「そうだ。僕の新しい仲間のことも、話しておかないとね」
少し照れくさかったけど、彼女がいなかった間の僕の全てを知ってほしかった。その間にできた、素晴らしい仲間たちのことをもっと。
「一人はミゲルさんという、元騎士見習いの人でね。ほら、例の手合わせの彼だよ」
「ええ、フェリクス様に一撃で倒された方ですよね」
「う、うん……」
そうか、アンリエッタさんの中でのミゲルさんは、あの日のまんまだもんな。父さんが、顔をしわくちゃにして喜んでくれた、あの日のまま。
「彼は本当に実直で、頼りになるんだ。ただ……少し事情があって。僕が彼の再起不能なほどの大怪我を治して以来、どうにも僕のことを、肉体だけじゃなく騎士としての魂まで救われた、と思い定めてしまったみたいで。……その、僕のことを『ご主君』と呼んだり……。だから、もし会っても、びっくりしないで欲しい」
アンリエッタさんは、その言葉にこくりと頷いた。
「わかりました。お力を、良いことにお使いになられたのですね」
「……父さんのこととか色々あって、正直、少しだけ悩んだよ。だけど、もし、あの場にアンリエッタさんがいたなら、迷わず彼を助けるだろうなって。そう、思ったら自然と体が動いちゃったよ」
僕の言葉に、彼女の唇が慈しむように弧を描く。
「まあ……フェリクス様……」
「おっと、続けるね。もう一人はマリーさん。彼女がいなければ、僕はきっと、ここにこうして立ってはいないと思う」
「お買い物の前に聞いた、フェリクス様を助けるために、ギルドを辞められたという方ですね」
「うん」
僕が頷くと、アンリエッタさんは何かを納得したように、小さく息を吐いた。
それから僕の目を、真っ直ぐに見つめて続ける。
「その方は……命の恩人、なのですね。ですがもう二度と、そんな無茶はなさいませんように」
どこまでも僕を捉えて離さない瞳に、もう、謝ることしかできない。
「うん。ごめんなさい」
そんな少しだけ、しんみりとした空気を変えようと、僕はわざと明るい声で、彼女のもう一つの側面を付け加える。
「そんな彼女なんだけどね。……お酒が、すごく好きでさ。たまにちょっと、困ることもあったり」
「困ること、ですか?」
「うん、僕もミゲルさんも付き合って飲まされるんだよ」
「うぅ……私は、お付き合いできるでしょうか。何分、飲んだことがありませんし」
「えぇ? アンリエッタさんって、お酒を飲んだことがないの?」
「はい……。使用人の立場で、お酒をいただくわけには参りませんでしたから」
「そうかもしれないけど……。冒険者の人達って飲む人が多いみたいだよ?」
「そ、そうなのですね。どうしましょう……」
うちの緑鬼さんは、本当に凄いんだから……。
「じゃあ少し飲んでみる? 練習も兼ねてさ」
僕がそう言うと、彼女は少し困ったように眉を下げた。
「練習ですか……。別に、飲めないなら飲めないで、問題ないような気もしますけれど」
その、どこまでも控えめな彼女の言葉に、僕は抗う。懸命にだ!
彼女はずっと、自分を殺して生きてきたに違いないから。それに、何よりも酔った彼女を見てみたい、というのも大いにある。
樽ジョッキを片手に騒ぐ冒険者たちの喧騒から、彼女だけを切り取るように、その澄んだ蒼玉の瞳を真っ直ぐに見つめて、言ったよ。
「アンリエッタさんはもう、自由なんだ。これからは、色んなことをやってみようよ。お酒だって、ひょっとしたら、すごく好きになるかもしれないよ?」
僕の言葉に、彼女は一瞬驚いたように、ぱちりと瞬きをした。
そして何かを決心したかのように、小さく頷いて見せる。
「……わ、わかりました。試してみます」
運ばれてきたエールの、大きな樽ジョッキを前に、アンリエッタさんが固まっている。
「こ、これがエールですか……」
その真剣な眼差しは、まるで強敵と対峙するかのようだ。
まあ、無理もないか。
父さんも、たまに飲むのは葡萄酒だったから。エールという庶民のお酒に、僕たち自身、ことさら馴染みがないのは当然と言える。
エール vs アンリエッタさんの戦いが、今、幕を開ける。
頑張れ、アンリエッタさん!
「それじゃあ……僕たちの、新しい日常に乾杯」
僕が少し照れながらそう言うと、彼女は意を決したように、大きな樽ジョッキを両手で持ち上げ、その薄く端正な唇を縁に触れさせた。
こくり、と、小さな喉が上下に動く。
次の瞬間、その美しい顔がくしゃりと歪んだ。
「に、にがぁ……っ」
時折見せてくれる、彼女の変顔がずっと好きだった。
なぜなら、それは彼女が、自分の美しさに無頓着だからなのか。それとも、僕の前では完璧な使用人でいる必要がないと、心を許してくれている証なのか。……きっと、後者だと思えたから。たまらなく好きだったのだと思う。
それは、変わりつつある僕たちのこれから先でも、きっと変わらない。
「これがね、不思議と、飲んでいるうちに美味しくなるんだよ」
僕がそう言うと、彼女は「冒険者として、嗜む程度には」と、小さな使命感に燃えて、もう一口、またもう一口と、健気にエールを飲み進めていく。
けれど、その眉間の皺は、深まるばかりで。
やがて彼女はこほん、と小さな音を立ててジョッキを卓上へ戻してしまう。
「うぅ……すみません、フェリクス様。どうしても、この、美味しさが分からなくて……」
俯いてしまった彼女の姿に、僕は僅かに笑みを浮かべる。
「無理することないよ。僕も、最初から好きだったわけじゃないし」
僕は、彼女の樽ジョッキを、そっと手元へと引き寄せる。
「じゃあ、そのエールは僕が貰うから。代わりに、これを飲んでみてよ」
言ってすぐ、僕はホールの給仕さんを呼び止め、注文していたもう一つの杯を受け取る。杯の中では、鮮やかな黄金色の液体が、甘い香りと共に揺らめいていた。
「これは……?」
「蜂蜜酒だよ。こっちなら、気に入るかもしれないと思って」
アンリエッタさんはおそるおそる、その小さな杯を手に取ると、一口、唇を湿らせた。すると──彼女の蒼玉の瞳が、星屑を散りばめたように、ぱあっと輝く。
「……! おいしい、です。甘くて、果物の香りが少しして……」
先ほどとは打って変わって、彼女はこく、こくと、嬉しそうに蜂蜜酒を飲み進めていく。そんな、幸せそうな横顔を見ていられるだけで、僕の心も蜂蜜みたいに甘く、温かくなっていくようだった。
「そうそう、アンリエッタさん」
「はい、どうかしましたか?」
「その、僕の呼び方なんだけどね……。僕たちは主従じゃない。だから、『様』は、やめようよ」
ピタリ、と。
蜂蜜酒の杯を口に運んでいた、彼女の動きが止まる。
「それでは何と、お呼びすれば……」
「フェリクスで、いいんじゃないかな」
僕がそう言うと、アンリエッタさんはひどく困ったように眉を下げた。
長年の習慣は、そう簡単には抜けないのだろう。違和感も凄いはずだ。それに、彼女の生真面目な性格からすれば、僕を呼び捨てにすることなど、想像もできないのかもしれない。
彼女は意を決したように、小さく、息を吸う。
桜色の薄い唇が、ゆっくりと開かれてゆく。
「……フェ、フェ……」
期待したその音は、とてもか細く、途中で消えてしまう。
それから彼女は、何か名案でも思いついたかのように、はっと顔を上げた。
「……では、『フェリクスさん』と。……これでは、いけませんか?」
少しだけ頬を染めながら、彼女はおそるおそる、そう尋ねる。
「もちろん! これからはそれでお願いするよ、アンリエッタさん」
『様』付けより、ずっといい。
僕が満面の笑みでそう答えると、彼女は心の底からほっとしたように、ふわりと、微笑んでくれた。
「フェ……フェリクスさん。何だか、頭が、ふわふわとしてきました……。それに、ふぅ……顔が、熱いです。これが、『酔う』ということ、なのでしょうか?」
見れば彼女は、その雪のように白い肌を、頬だけでなく、その可愛らしい耳の先までほんのりと桜色に染めている。潤んだ瞳が、どこか頼りなげに揺れていた。
……アンリエッタさん、お酒、弱かったんだ。
また一つ、僕の知らなかった、彼女の新しい一面を知ることができた。
その発見が、どうしようもなく嬉しい。
「じゃあ、上で少し休もうよ。水も飲んだ方がいいね」
「はぁい……」
気の抜けた、甘い返事。これも初めて聞く響きだ。
僕はそんな彼女を促して、喧騒に満ちたホールを後にする。
ギシ、ギシ、と軋む階段を上がり、階上の僕の部屋へと戻る。
アンリエッタさんは僕が勧めるまま、小さな木の椅子にちょこんと腰掛けた。
僕は彼女の前に、なみなみと注いだ水の入った杯を、ことりと置く。
「アンリエッタさん、お水を飲んで」
「はぁい……」
こくり、こくりと、小さな喉を鳴らして水を飲む彼女の体が、少しだけ、ゆらゆらと揺れている。
そんな、あまりにも無防備な姿が愛おしくて、目が離せない。
僕の前でだけ解かれる、心の壁。それが、彼女が僕に寄せてくれる、絶対的な信頼の証なのだと
やがて、水を飲み干して少し落ち着いたのか、彼女はまだ桜色に染まった頬のまま、僕の顔をじっと見つめてきた。
「そういえば、フェリクスさん」
「な、なんですか?」
「私がいない間も、ちゃんと魔力制御の練習は続けていましたか?」
「も、もちろんだよ。出来るだけ続けるようにはしてたかな」
「本当ですか?」
「本当だよ」
「では、昔のように、指に炎を灯していただけませんか?」
懐かしいな。あの家で毎日、毎日、飽きもせずに指に火を灯した日々よ。
僕の、幸せだった全ての記憶が、そこにある。
「アンリエッタさん……。さすがに、もう失敗なんてしませんよ。ふふん」
僕は得意げに笑い返すと、両手の指を広げてみせる。
かつて、あれほど苦労した炎が、今は、まるで僕の体の一部であるかのように、何の苦もなく、十本の指先すべてに大小さまざまな形で静かに灯った。
すると、アンリエッタさんの美しい顔が、ゆっくりと近づいてくる。
ああ……あったよね、こんなこと。忘れもしない。
炎の制御に集中していた僕を驚かそうとした、彼女の、あまりにも可愛すぎる悪戯。あの日の記憶が蘇り、心が、温かく満たされていく。
あの頃に比べたら、魔法の制御はずいぶんと上手くなったと思う。だからか、あの時は気づけなかった君の接近に、今回は気づくことができたんだ。……今度は、こっちから驚かせてあげる。
けれど。
あれ? アンリエッタさん……驚かさないの?
彼女は笑みを浮かべたまま、その動きを止めない。
指先で揺らめく十の炎が、近づいてくる彼女の顔を柔らかく照らし出す。炎に照らされた瞳は、どこまでも深く潤んでいて。僕の視線は吸い寄せられるように、濡れた桜色の唇へと注がれていた。
──僕の心が、千々に乱れる。
それに呼応するように、十の炎が、頼りなく揺らめき始めた。
あの時、超えることのできなかった、手のひらほどの距離。
近いようで絶望的に遠かった、その最後の壁を。
彼女は静かに、乗り越えて──
思考が止まる。時が止まる。
いまこの瞬間、世界には僕と貴女しかいない。
やわらかく、温かい何かが、僕の唇に触れた。ほんのりと、蜂蜜酒の甘い香りがして、それが彼女の唇なのだと理解するのに、永遠にも似た時が必要だった。
ほんの一瞬。
けれど、僕にとっては永遠にも感じられる、ひと時。
僕の指先に宿していた十の炎がフッ、と、最後のまたたきを残して、掻き消えてしまう。
唇が、名残を惜しむように離れていく。
元の位置に戻ったアンリエッタさんが、美しい顔を真っ赤に染めて、幸せそうに囁いた。
「ぼっちゃま、まだまだですね〜。火が、ぜーんぶ消えてしまいましたよ?」と。
ああ……そうか。覚えていてくれたんだね。あの日の僕たちの、何もかもを。
台詞まで、全て。
幸せすぎて、胸が、苦しい。




