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黒曜の髪 蒼玉の瞳 ~輪廻の先で出会った君を救うため、僕はこの世界で生きると決めた~ 転生医師の異世界奮闘記  作者: 神崎水花
第三章 黒が忌諱される理由

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第84話 蜂蜜酒より甘い夜

 冒険者ギルドの一階ホールは、夜になると昼間とは全く違う顔を見せる。

 むせ返るような熱気に汗とエール、肉の焼ける匂いが混じり合った喧騒の中、アンリエッタさんの場違いなほど清らかな佇まいが、嫌でも注目を集めていた。

 

「こんな騒がしいところでごめん。でも、僕が毎晩食べていたのはここだから。ほら、さっきも話したと思うけど、明日皆との合流次第では町を離れるわけだし。今しか知ってもらう機会がないかなと思って……」

「ふふ。随分と賑やかですね。大丈夫ですから、気にしないでください」


 いくら明日リヨンを離れるかもしれないとはいえ、最高の一日の締めくくりがギルドの酒場って、正直どうなの?

 でも確かに。この数か月の食事と言えば……ここ意外となると……市場で買って上の部屋で食べるか、一度マリーさんの家でご馳走になったくらいで、他で食べた記憶がないんだよね。

 ……これが偽らざる、僕の日常だったんだ。

 着飾った店など、もう遠い世界の記憶。

 

「そうだ。僕の新しい仲間のことも、話しておかないとね」

 少し照れくさかったけど、彼女がいなかった間の僕の全てを知ってほしかった。その間にできた、素晴らしい仲間たちのことをもっと。

「一人はミゲルさんという、元騎士見習いの人でね。ほら、例の手合わせの彼だよ」

「ええ、フェリクス様に一撃で倒された方ですよね」

「う、うん……」


 そうか、アンリエッタさんの中でのミゲルさんは、あの日のまんまだもんな。父さんが、顔をしわくちゃにして喜んでくれた、あの日のまま。

 

「彼は本当に実直で、頼りになるんだ。ただ……少し事情があって。僕が彼の再起不能なほどの大怪我を治して以来、どうにも僕のことを、肉体だけじゃなく騎士としての魂まで救われた、と思い定めてしまったみたいで。……その、僕のことを『ご主君』と呼んだり……。だから、もし会っても、びっくりしないで欲しい」

 アンリエッタさんは、その言葉にこくりと頷いた。


「わかりました。お力を、良いことにお使いになられたのですね」

 

「……父さんのこととか色々あって、正直、少しだけ悩んだよ。だけど、もし、あの場にアンリエッタさんがいたなら、迷わず彼を助けるだろうなって。そう、思ったら自然と体が動いちゃったよ」

 僕の言葉に、彼女の唇が慈しむように弧を描く。

「まあ……フェリクス様……」


「おっと、続けるね。もう一人はマリーさん。彼女がいなければ、僕はきっと、ここにこうして立ってはいないと思う」

「お買い物の前に聞いた、フェリクス様を助けるために、ギルドを辞められたという方ですね」

「うん」

 僕が頷くと、アンリエッタさんは何かを納得したように、小さく息を吐いた。

 それから僕の目を、真っ直ぐに見つめて続ける。

「その方は……命の恩人、なのですね。ですがもう二度と、そんな無茶はなさいませんように」

 どこまでも僕を捉えて離さない瞳に、もう、謝ることしかできない。

「うん。ごめんなさい」

 

 そんな少しだけ、しんみりとした空気を変えようと、僕はわざと明るい声で、彼女のもう一つの側面を付け加える。

「そんな彼女なんだけどね。……お酒が、すごく好きでさ。たまにちょっと、困ることもあったり」

「困ること、ですか?」

「うん、僕もミゲルさんも付き合って飲まされるんだよ」

「うぅ……私は、お付き合いできるでしょうか。何分、飲んだことがありませんし」

「えぇ? アンリエッタさんって、お酒を飲んだことがないの?」

「はい……。使用人の立場で、お酒をいただくわけには参りませんでしたから」


「そうかもしれないけど……。冒険者の人達って飲む人が多いみたいだよ?」

「そ、そうなのですね。どうしましょう……」

 うちの緑鬼(マリー)さんは、本当に凄いんだから……。


「じゃあ少し飲んでみる? 練習も兼ねてさ」

 僕がそう言うと、彼女は少し困ったように眉を下げた。

「練習ですか……。別に、飲めないなら飲めないで、問題ないような気もしますけれど」

 その、どこまでも控えめな彼女の言葉に、僕は抗う。懸命にだ!

 彼女はずっと、自分を殺して生きてきたに違いないから。それに、何よりも酔った彼女を見てみたい、というのも大いにある。

 樽ジョッキを片手に騒ぐ冒険者たちの喧騒から、彼女だけを切り取るように、その澄んだ蒼玉の瞳を真っ直ぐに見つめて、言ったよ。


「アンリエッタさんはもう、自由なんだ。これからは、色んなことをやってみようよ。お酒だって、ひょっとしたら、すごく好きになるかもしれないよ?」

 僕の言葉に、彼女は一瞬驚いたように、ぱちりと瞬きをした。

 そして何かを決心したかのように、小さく頷いて見せる。

「……わ、わかりました。試してみます」


 運ばれてきたエールの、大きな樽ジョッキを前に、アンリエッタさんが固まっている。

「こ、これがエールですか……」

 その真剣な眼差しは、まるで強敵と対峙するかのようだ。


 まあ、無理もないか。

 父さんも、たまに飲むのは葡萄酒(ワイン)だったから。エールという庶民のお酒に、僕たち自身、ことさら馴染みがないのは当然と言える。

 

 エール vs アンリエッタさんの戦いが、今、幕を開ける。

 頑張れ、アンリエッタさん!


「それじゃあ……僕たちの、新しい日常に乾杯」

 僕が少し照れながらそう言うと、彼女は意を決したように、大きな樽ジョッキを両手で持ち上げ、その薄く端正な唇を縁に触れさせた。

 こくり、と、小さな喉が上下に動く。

 次の瞬間、その美しい顔がくしゃりと歪んだ。


「に、にがぁ……っ」

 時折見せてくれる、彼女の変顔がずっと好きだった。

 なぜなら、それは彼女が、自分の美しさに無頓着だからなのか。それとも、僕の前では完璧な使用人でいる必要がないと、心を許してくれている証なのか。……きっと、後者だと思えたから。たまらなく好きだったのだと思う。

 それは、変わりつつある僕たちのこれから先でも、きっと変わらない。

 

「これがね、不思議と、飲んでいるうちに美味しくなるんだよ」

 僕がそう言うと、彼女は「冒険者として、嗜む程度には」と、小さな使命感に燃えて、もう一口、またもう一口と、健気にエールを飲み進めていく。

 けれど、その眉間の皺は、深まるばかりで。

 やがて彼女はこほん、と小さな音を立ててジョッキを卓上へ戻してしまう。


「うぅ……すみません、フェリクス様。どうしても、この、美味しさが分からなくて……」

 俯いてしまった彼女の姿に、僕は僅かに笑みを浮かべる。

「無理することないよ。僕も、最初から好きだったわけじゃないし」

 

 僕は、彼女の樽ジョッキを、そっと手元へと引き寄せる。

「じゃあ、そのエールは僕が貰うから。代わりに、これを飲んでみてよ」

 言ってすぐ、僕はホールの給仕さんを呼び止め、注文していたもう一つの杯を受け取る。杯の中では、鮮やかな黄金色の液体が、甘い香りと共に揺らめいていた。

「これは……?」

 

「蜂蜜酒(ミード)だよ。こっちなら、気に入るかもしれないと思って」

 アンリエッタさんはおそるおそる、その小さな杯を手に取ると、一口、唇を湿らせた。すると──彼女の蒼玉の瞳が、星屑を散りばめたように、ぱあっと輝く。


「……! おいしい、です。甘くて、果物の香りが少しして……」

 先ほどとは打って変わって、彼女はこく、こくと、嬉しそうに蜂蜜酒(ミード)を飲み進めていく。そんな、幸せそうな横顔を見ていられるだけで、僕の心も蜂蜜みたいに甘く、温かくなっていくようだった。

 

「そうそう、アンリエッタさん」

「はい、どうかしましたか?」

 

「その、僕の呼び方なんだけどね……。僕たちは主従じゃない。だから、『様』は、やめようよ」


 ピタリ、と。

 蜂蜜酒(ミード)の杯を口に運んでいた、彼女の動きが止まる。

「それでは何と、お呼びすれば……」

「フェリクスで、いいんじゃないかな」

 僕がそう言うと、アンリエッタさんはひどく困ったように眉を下げた。

 長年の習慣は、そう簡単には抜けないのだろう。違和感も凄いはずだ。それに、彼女の生真面目な性格からすれば、僕を呼び捨てにすることなど、想像もできないのかもしれない。


 彼女は意を決したように、小さく、息を吸う。

 桜色の薄い唇が、ゆっくりと開かれてゆく。

「……フェ、フェ……」

 期待したその音は、とてもか細く、途中で消えてしまう。

 それから彼女は、何か名案でも思いついたかのように、はっと顔を上げた。


「……では、『フェリクスさん』と。……これでは、いけませんか?」

 少しだけ頬を染めながら、彼女はおそるおそる、そう尋ねる。

「もちろん! これからはそれでお願いするよ、アンリエッタさん」

『様』付けより、ずっといい。

 僕が満面の笑みでそう答えると、彼女は心の底からほっとしたように、ふわりと、微笑んでくれた。

 

「フェ……フェリクスさん。何だか、頭が、ふわふわとしてきました……。それに、ふぅ……顔が、熱いです。これが、『酔う』ということ、なのでしょうか?」


 見れば彼女は、その雪のように白い肌を、頬だけでなく、その可愛らしい耳の先までほんのりと桜色に染めている。潤んだ瞳が、どこか頼りなげに揺れていた。

 ……アンリエッタさん、お酒、弱かったんだ。

 また一つ、僕の知らなかった、彼女の新しい一面を知ることができた。

 その発見が、どうしようもなく嬉しい。


「じゃあ、上で少し休もうよ。水も飲んだ方がいいね」

「はぁい……」

 気の抜けた、甘い返事。これも初めて聞く響きだ。

 僕はそんな彼女を促して、喧騒に満ちたホールを後にする。


 ギシ、ギシ、と軋む階段を上がり、階上の僕の部屋へと戻る。

 アンリエッタさんは僕が勧めるまま、小さな木の椅子にちょこんと腰掛けた。

 僕は彼女の前に、なみなみと注いだ水の入った杯を、ことりと置く。

「アンリエッタさん、お水を飲んで」


「はぁい……」

 こくり、こくりと、小さな喉を鳴らして水を飲む彼女の体が、少しだけ、ゆらゆらと揺れている。

 そんな、あまりにも無防備な姿が愛おしくて、目が離せない。

 僕の前でだけ解かれる、心の壁。それが、彼女が僕に寄せてくれる、絶対的な信頼の証なのだと


 やがて、水を飲み干して少し落ち着いたのか、彼女はまだ桜色に染まった頬のまま、僕の顔をじっと見つめてきた。


「そういえば、フェリクスさん」

「な、なんですか?」

「私がいない間も、ちゃんと魔力制御の練習は続けていましたか?」

「も、もちろんだよ。出来るだけ続けるようにはしてたかな」

「本当ですか?」

「本当だよ」

「では、昔のように、指に炎を灯していただけませんか?」


 懐かしいな。あの家で毎日、毎日、飽きもせずに指に火を灯した日々よ。

 僕の、幸せだった全ての記憶が、そこにある。


「アンリエッタさん……。さすがに、もう失敗なんてしませんよ。ふふん」

 僕は得意げに笑い返すと、両手の指を広げてみせる。

 かつて、あれほど苦労した炎が、今は、まるで僕の体の一部であるかのように、何の苦もなく、十本の指先すべてに大小さまざまな形で静かに灯った。


 すると、アンリエッタさんの美しい顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 ああ……あったよね、こんなこと。忘れもしない。

 炎の制御に集中していた僕を驚かそうとした、彼女の、あまりにも可愛すぎる悪戯。あの日の記憶が蘇り、心が、温かく満たされていく。

 

 あの頃に比べたら、魔法の制御はずいぶんと上手くなったと思う。だからか、あの時は気づけなかった君の接近に、今回は気づくことができたんだ。……今度は、こっちから驚かせてあげる。

 

 けれど。

 あれ? アンリエッタさん……驚かさないの?

 彼女は笑みを浮かべたまま、その動きを止めない。

 指先で揺らめく十の炎が、近づいてくる彼女の顔を柔らかく照らし出す。炎に照らされた瞳は、どこまでも深く潤んでいて。僕の視線は吸い寄せられるように、濡れた桜色の唇へと注がれていた。


 ──僕の心が、千々に乱れる。

 それに呼応するように、十の炎が、頼りなく揺らめき始めた。

 あの時、超えることのできなかった、手のひらほどの距離。

 近いようで絶望的に遠かった、その最後の壁を。

 彼女は静かに、乗り越えて──


 思考が止まる。時が止まる。

 いまこの瞬間、世界には僕と貴女しかいない。

 やわらかく、温かい何かが、僕の唇に触れた。ほんのりと、蜂蜜酒の甘い香りがして、それが彼女の唇なのだと理解するのに、永遠にも似た時が必要だった。

 

 ほんの一瞬。

 けれど、僕にとっては永遠にも感じられる、ひと時。

 僕の指先に宿していた十の炎がフッ、と、最後のまたたきを残して、掻き消えてしまう。

 

 唇が、名残を惜しむように離れていく。

 元の位置に戻ったアンリエッタさんが、美しい顔を真っ赤に染めて、幸せそうに囁いた。


「ぼっちゃま、まだまだですね〜。火が、ぜーんぶ消えてしまいましたよ?」と。

 ああ……そうか。覚えていてくれたんだね。あの日の僕たちの、何もかもを。

 台詞まで、全て。

 幸せすぎて、胸が、苦しい。

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