第82話 新しい未来へ
「ですが、私ばかり、皆さんにこんなに良くしていただいて、よいのでしょうか? フェリクス様が、それこそ命がけで貯めたお金を……私の、自由のために……」
彼女の声は喜びよりも、戸惑いと申し訳なさに濡れていた。
その響きを感じ取った僕は、思わず足を止め、俯きがちに歩く彼女の前にそっと回り込む。それから、その澄んだ蒼玉の瞳を、真っ直ぐに覗き込むようにして言った。
「それは違うよ、アンリエッタさん」
「……そう、でしょうか」
「よく聞いて、アンリエッタさん。お金はね、ただのお金でしかないんだ。それだけでは何も生み出さない。僕はそれを使って、何を置いても貴女を取り戻したかった。僕が、そうしたかったんだ。全て、僕が自分のためにしたことだよ」
「フェリクス様……」
折角、自由になれたというのに。金貨百枚というお金の重みが、申し訳なさが、再び彼女を縛ってしまう。そんなのは、本当の自由じゃないだろ。
「お金が、人を幸せにするんじゃない」
そう、僕にとってお金の多寡は重要じゃない。
前世で嫌というほど学んだことだ。
「アンリエッタさん、貴女はお金なんかとは比べ物にならないくらい、僕にとって、かけがえのない女性なんです」
彼女は驚いたように蒼玉の瞳を瞬かせると、その白い頬を、夕暮れの空のようにふわりと朱に染める。
その反応に、自分の言葉が孕んでいた熱量に、僕自身の顔までがかあっと熱くなるのを感じた。違う、これじゃあまるで告白じゃないか。
「……いや、あ、うん、長く暮らした家族、だから。だから、ただ一言、こう言ってくれれば僕は満足なんです。『ありがとう』って」
僕の言葉に、アンリエッタさんはようやく、心の底から微笑んでくれた気がした。
「……私は、こう言えばよかったのですね。『私の、小さかった騎士様。本当にありがとう』と」
「うん、どういたしまして」
小さな騎士様か、懐かしいなぁ……。
懐かしくて、でも、何だかくすぐったいようでもある言葉に、僕の心臓がきゅっと、甘く締め付けられる。
これからは僕が、彼女の本当の居場所にならなければ。強くそう思った。
「そうだ、アンリエッタさん。もし、皆に対して、申し訳ないって気持ちがまだあるならさ」
「はい」
「これから、僕と一緒に返していこうよ。ね? そうしよう」
その言葉に、彼女は再び花が綻ぶように笑う。
「うふふ、フェリクス様。なんだか少し、大人になられましたね」
「そうかな?」
「なられましたよ~? じゃあ、一緒に、返していきましょうね」
一緒に、か。
彼女から発されるその一言が、どれだけ僕の心を温かくしたか。
貴女は、知らないのだろうね。
「よし、なら、今から買い物に行こうよ」
「え、お買い物ですか?」
「だって、これからは毎日一緒なんだよ? 替えの洋服だって必要でしょ?」
「少しなら、フェリクス様が持ってくださった袋に入っていますが……」
「あの袋に、服が入っていたんだね。ちなみに、替えは何枚くらいあるの?」
「……一枚ずつ、です」
「ほら、やっぱり少ないじゃないか。行こう、アンリエッタさん」
僕は遠慮する彼女の、華奢な手を引いた。
「あっ……」
か細い声に、僕は一瞬、彼女の肩がびくりと震えたのを見逃さなかった。まるで、予期せぬ何かに怯えたように。
けれど、いま手の中にある彼女の指先は、その力を緩めている。
初めて触れるかのように、慎重に伝わってくるその温もりが、どうしようもなく愛おしかった。
(……そうか、彼女は)
「大丈夫だよ」
「……はい」
薄暗くて殺風景だった僕の部屋から、再び、太陽の降り注ぐ町の中へと。
リヨンの市場は、相変わらずの活気に満ちている。果物を売る露店の前を通り過ぎた時、ふと、いつかの初デートを思い出して顔が綻ぶ。あの時初めて知った、アンリエッタさんが果物を好きだってことを。
これから、もっと沢山の貴女を知っていこう。心から、そう思う。
僕たちは、ごつごつとした鉄の扉を押し開き、ゴードンさんの店へと足を踏み入れた。カン、カンと響く鋼を叩く音と、肌を焼くような熱気が僕たちを迎えてくれる。
「おう、フェリクスじゃねえか。……ん?」
奥から現れたゴードンさんが、僕の隣に立つアンリエッタさんの姿を認め、その熊のような巨体をぴたりと止めた。
「……なんだ女連れか? 珍しいな。っておい、そちらの姉さんは、とんでもねえ別嬪さんじゃねえか!」
ゴードンさんの、あまりにも直線的な物言いに、アンリエッタさんは少しだけ頬を染め、こくりと小さく会釈するのが精一杯。
「やるなぁ、坊主……」
ふふん。そうだろう、そうだろう。特別にじっくり見てくれて構わないよ。
僕が焦がれた世界一の女性だから。
ゴードンさんの言葉が、驚きが、まるで自分に向けられた賛辞のように胸に響いて、どうしようもなく誇らしかった。
ゴードンさんの威勢のいい声もそこそこに、僕たちは店に並んだ無骨な武具へと、自然に視線を移していく。
「アンリエッタさん、ちょっと教えて欲しいのだけど」
「はい、なんでしょう?」
「アンリエッタさんは、魔法使いってことでいいの? 剣とか、鎧とかは……」
「そうですね。フェリクス様の強化魔法のお陰で随分と動けるようにはなりましたけど、基本は魔法使いです。ですので、重い鎧は不要かと」
「その……エルフの人たちって、金属を嫌うとかってあったりするの?」
僕の前世の知識からくる、少し突拍子もない疑問。それに、アンリエッタさんは不思議そうに、こてんと首を傾げた。
「金属、ですか? いいえ、特にそのような風習はありませんよ?」
ああ、それだよ。彼女が考え事をしている時の、顎にそっと指をあてる仕草が、良き。
って、エルフの金属嫌いは嘘じゃないか。ホントいい加減だなぁ。
一通り話を聞いて、僕はゴードンさんへと向き直る。
「ゴードンさん、魔法使いが使うような装備を専門に扱ってる店、知りませんか?」
僕がそう尋ねると、彼は一旦槌を置き、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「なんだ、おい、冷やかしか? しかも美人を連れてたぁ、とんでもねえな、お前」
「す、すみません」
「ガハハハ、冗談だ。魔法使いの装備か。そりゃあ俺の専門じゃねえな。頑丈さだけが取り柄の、俺の武具じゃあ、お気に召さねえだろうよ」
彼は豪快に笑うと、顎でクイと特定の方向を指し示す。
「それなら、市場の西側にある『風凪ぎの枝』って店に行ってみな。小綺麗な杖やら、変な模様の入った服やらを専門に扱ってる店があったはずだ。おっと、俺から聞いたって言うんじゃねえぞ? 俺はあそこのババアが、大の苦手なんだ」
「わかりました。ゴードンさんに聞いたって言っておきますね! ありがとうございます、ゴードンさん。行ってきます!」
「おう、また来な! っておい、違うだろ!」
ゴードンさんに教えてもらった『風凪ぎの枝』は、想像していたよりもずっと、趣のある店だったよ。
扉にかけられた小さな鈴がチリン、と澄んだ音を立てる。一歩足を踏み入れると、そこはもう、僕が焦がれてやまなかった世界が広がっていた。
僕は見つけてしまったのかもしれない。天国を。楽園を。
壁一面に並んだ、様々な意匠が凝らされた杖。
棚の上で、淡い光を放つ魔石や、怪しげな色の液体が入った小瓶の数々。
そして──丁寧に木製の衣紋掛け(?)らしき物にかけられた、色とりどりの洋服。これこれ! 深い夜空の色をしたものや、燃えるような深紅のものまで。銀糸で、精巧な紋様が刺繍されているものまでも。
その中にはいつか見た、そう、ミレーユさんが着ていたような。体の線がくっきりと浮かび上がる、少し煽情的なデザインのものも数多くあった。
こういうの着てくれないかなぁ。
マリーさんはパンツスタイルが基本だし、もしアンリエッタさんまでパンツだったら……僕たち『契りの円環』に、夢がなさすぎると思わないかい?
お先、真っ暗だよ。はぁ……。
後ろ髪を引かれる想いで、視線を逸らした先。
そこでとうとう、見つけてしまったのだ。 『魔法使い』の象徴たる、あの品を。
棚の最上段に置かれた、深い夜空の色をしたつばの広い帽子。その先端は夜空に浮かぶ三日月のように、優美な曲線を描いて、きゅっと、とんがっている。
……なんて言うんだろう、この帽子。とんがり帽子、でいいのかな?
それ以外の名前を、僕は知らない……。
「アンリエッタさん、こ、これ、被ってみてよ!」
僕は興奮を抑えきれずに、その帽子を手に取って彼女へと駆け寄る。
僕の、子供みたいにはしゃぐ姿に、アンリエッタさんはくすくすと喉を鳴らして笑うと、僕が帽子を被せやすいように、その美しい顔をそっと、僕の目の前へと下げてくれた。
「うふふ、はい、どうぞ」
え? 僕に、被せてくれってこと!?
逸る心臓を抑えながら、僕は両手で帽子を掲げる。
すぽん、と。
アンリエッタさんの背の中ほどまで届く艶やかな黒髪の上に、深い夜空の色をした『とんがり帽子が、ちょこんと乗っかった。
……ああ、なんて、ことだ。
この世の誰よりも、似合っているじゃないか。
「おかえりなさい、魔法使いのアンリエッタさん」




