第80話 小さな僕と、大人だった貴女のたった一つの約束
曇った鏡に映る自分の顔を、僕は何度も確認する。
髪に、寝ぐせはついていないだろうか。目ヤニは大丈夫……?
あと、もう少しすれば、あの女性に会える。
どうせなら、成長した僕を見て欲しい。
少しでも、見違えた自分を見て欲しい。
当たり前だったはずの日常。僕から失われてしまった、ささやかな幸せの数々が、ようやく、僕の元へと帰ってくる。
そう思うだけで、浮き足立つ心を抑えきれない。
「よし、行くか」
皆に背を押してもらった僕は、改めて二階の部屋で身支度を整え、階段を降りる。僕なりに精一杯のおめかしをしたつもりだ。
まあ、あり合わせの服では、これが限界なのだけど。
ギルドを一歩出ると、まだ背の低い太陽が、祝福のように僕の全身に降り注いだ。昨日までとは比べ物にならないほど、温かく、そして眩しい。
今まで見過ごしてきた町の色彩が、音色が、匂いが、一斉に僕の世界へと流れ込んでくるみたいに。
稼がなきゃ、稼がなきゃと、心ばかりが焦っていた僕は。この世界の美しさに、目を向ける余裕すら、失っていたのかもしれない。
随分と前、アンリエッタさんと共に見上げたあの日の空と同じように、今見上げる空も、どこまでも突き抜けるように青い。人の営みにまだ汚されていない世界の、その美しさを。僕は、ようやく思い出すことができたのかも知れない。
冒険者ギルドを出た僕は一人、商人ギルドへ向かって歩き出す。
懐に忍ばせた革袋が、ずしりと重い。
それは、ただの貨幣の重さではなくて。
僕自身の血と汗が、マリーさんとミゲルさんがくれた温かい想いが、そして何よりも、アンリエッタさんが自らの「自由」と引き換えに託してくれた彼女の人生が。最後に、父の仲間たちが繋いでくれた、アドリアン・コンスタンツェという騎士の生き様が──
その全てが、この一つの革袋に息づいている。
石造りの、この町でも有数の大きさを誇る商人ギルド。その重厚な扉をくぐると、外の喧騒が嘘のように遠ざかり、ひやりとした空気が肌を撫でた。
インゴットの運搬で何度もお世話になった、受付のお姉さんと目が合う。
彼女は僕の顔を見るなり、ふわりと、優しい笑みを浮かべた。
「よく、頑張ったわね」
……ん? 何のこと?
この前のインゴット運搬のことだろうか?
今さら褒められても、と少し戸惑ったけれど、今はそんなこと、どうでもよかった。待ちきれない僕は、彼女にロルフさんを呼び出してもらうよう、お願いした。
あれ? おかしいぞ?
もうすぐアンリエッタさんに会える。そう思うだけで、心臓が、やけにうるさく鳴り始める。
あれだけ毎日一緒にいたのに、どうしてだろう。
収まれ、僕の心臓。
「おお、坊主。本当に来たか」
「ロルフさん、こんにちは」
「よし、じゃあ付いてきな。応接室に案内してやる」
「はい、宜しくお願いします」
「ん? そういや坊主、今まで俺に『さん』付けで呼んでたか?」
「え、いやあ……その、すみません」
「カハハハ、現金な奴め!」
バンバンと、容赦なく背中を叩かれる。痛い。
正直、昨晩までは『ロルフ』と呼び捨てでした。すみません……。それに貴方は、どちらかというと敵側でしたのも認めます。
三ヶ月は無理だと聞いたときは、本気で恨みましたよ。
本当に、ごめんなさい!
ロルフさんに導かれ、僕は、一つの扉の前で足を止める。
ここだ……。ここが、僕の辛くて苦しい三ヶ月の、終着点。
ゴクリと、乾いた喉が鳴る。
希望と、それから、ほんの少しの不安を胸に、僕はその一歩を踏み出した。
「初めまして。私が当商人ギルドのマスターをしており、名をヨハンと申します」
「ヨハンさん、初めまして。フェリクス・コンスタンツェと申します」
「これはこれは、ご丁寧に」
軽い挨拶のあと、マスターであるヨハンさんに勧められ、高価そうな革張りの長椅子へと腰を沈める。体が、ふわりと沈み込む感覚があった。
「さて、フェリクス様。当ギルドにてお預かりしている女性を一人、お引き取り希望と伺いましたが、相違ありませんかな?」
「はい、間違いありません」
「念のため、その者の名をお伺いしても? ああ、他意はありませんよ。万が一、違う者の契約書をお見せしてしまわぬよう、確認のためです」
「……名は、アンリエッタと申します。黒い髪に、蒼い瞳の女性です」
その名を口にした瞬間、一つの、あまりにも単純な事実が、僕の胸を冷たく貫いた。
アンリエッタさん……。
そう、僕は、彼女の名前しか知らない。生まれも、歳も……家名(?)さえも知らないんだ。何が『かけがえのない』だよ。僕は、彼女のことを何一つ……知りはしなかったんだ。
……これからは、ちゃんと教えてもらおう。
一つ、一つ、ゆっくりと。時をかけて。
「では、こちらをご確認ください」
「はい」
差し出された契約書はインクが掠れ、長い年月を経て紙自体が薄汚れている。そこに記された「Anrietta」という署名。その、どこか子供っぽさが残る筆跡に、胸が締め付けられる思いがした。
「既にロルフから聞き及びかと思われますが、念のため。私どもがお預かりしているアンリエッタを買い取るのでしたら、金貨百枚が必要です。ご用意は?」
「はい、ここに」
僕は懐から、あの革袋を取り出し、重い音を立ててテーブルに置いた。何度も、何度も数え直した金貨百枚。間違いないはず。
「では、確認させていただきます」
ヨハンさんが目に単眼鏡のようなものを装着し、金貨を一枚、一枚、丁寧に調べていく。
……真贋の見極めだと!?
偽物が混ざっていたら、どうしよう……。
焦る僕の脳裏に一瞬だけ、あの領主の顔が浮かぶ。
いや、さすがに偽の金貨を渡すことはないだろう?
腐っても領主だよ?
誰か無いと言って!
「……確かに。金貨百枚、正しくお預かりいたしました」
その言葉に僕は、今まで押し殺していた息を、ようやく細く長く吐き出す。
ああ、本当によかった……。
「──ではロルフ、彼女を連れて来なさい」
「分かりました」
ロルフさんが一度、僕の顔を無言で見て、それから静かに部屋を出ていく。
ふう……あと、もう少しだ。
僕は、逸る心臓を必死で抑えながら、その時を、ただ、待った。
だめだ、まだ会ってもいないのに、込み上げてくる熱いもので、視界が滲んでしまいそうになる。
「実は、あなたのことは当ギルドでも、ちょっとした話題になってましてね」
僕が一人で感傷に浸っていると、ヨハンさんが楽しそうに口を開いた。
「そうなんですか?」
「お若い方が、当ギルド預かりの女性を取り戻すために日夜頑張っていると、ロルフが吹聴して回るものですから、皆の知るところとなってしまいまして」
「ロルフさんが……?」
僕からアンリエッタさんを奪っていった、あの男が?
「彼なりの、私への牽制だったのかもしれませんが」
「おっと、話がそれてしまいましたな。で、不謹慎ではありますが、当ギルド内で賭けが行われておりましてね」
「一体何を?」
「ええ。フェリクス様が、アンリエッタの契約が決まる前に彼女を取り戻せるか、否か、と。ちなみに『取り戻せる』方に賭けたのは、私とロルフの二人だけでした。いやぁ、個人的にも大儲けさせてもらいましたよ。ありがとうございます」
「は、はは……そうですか」
僕の、あの、必死だった毎日が、まさか娯楽にされていたとは。だけど、あのロルフさんが僕に賭けてくれていたという事実に、僕はどうしようもなく、心を揺さぶられてしまう。
なるほど、だからあの受付のお姉さんも、優しかったのか……。
賭けに負けちゃったのに……。
ヨハンさんとの、どこかちぐはぐな会話が終わると、部屋には再び、息の詰まるような沈黙が訪れた。
時針の、刻限を刻む音だけが、やけに大きく聞こえるほど。
一分が、それこそ一刻にも感じられるような、長い、長い時間。
でも、それすら苦痛じゃなかったよ。
やがて、廊下から、二つの足音が近づいてくるのが分かった。
一つはロルフさんの、重い革靴の音で。
そして、もう一つは──もっとずっと、軽やかで、僕が焦がれたあの人の足音だと分かる。
心臓が、喉から飛び出しそうになる。
扉の取っ手が、ゆっくりと、回されていく。
ギィ、と。軋む蝶番の音が、永遠のように長く響いて──扉が開かれた先に、そっと、一人の女性が姿を現した。
少し痩せたかもしれない。けれど、あの頃と何も変わらない、黒曜の髪と、蒼玉の瞳が美しい女性。
僕の姿を認めた彼女の瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく、見開かれている。
「え? ぼっちゃまがどうして、ここに?」
記憶喪失を装っていた、小さな僕に。
貴女は、いつだって優しかった。
慈しみと、思いやりで、僕をずっと見守り続けてくれた女性が……今、扉の前に立っている。
覚えてるかな? いつだったか交わした、幼い日の約束を。
僕は、忘れたことなんてなかったよ。
もう少しだけ待っていて。今、貴女に返すから。
「では、フェリクス様、最後の確認です」
ヨハンさんの厳かな声が、僕の意識を現実へと引き戻す。
「はい」
「これで彼女は、法的には貴方の所有物となります。貴方が彼女をどう扱おうと、それは貴方の自由です。──殺人以外は、ですが。これは、まあ、爺の老婆心というやつですかな。一つ聞いておきたい」
「なんでしょう」
「この契約書は今や貴方のもの。どうされますか? もし、貴方が真に彼女の自由を望むなら、この場で責任を持って焼却処分もできます。……無論、そうすれば、彼女が貴方の側を去るやもしれませんがね」
とうとう、この時が来た。
僕の答えは、もう、ずっと前から決まっている。
「ヨハンさんがおっしゃって下さらなければ、私の方からお願いするつもりでした」
「ほう、では?」
「その契約書は破棄してください。そして、彼女を……アンリエッタさんを、自由にしてあげてください」
「本当によろしいのですね?」
「はい、ずっと昔に約束しましたから」
僕の言葉が、引き金になったのだろう。
それまで、ただ、呆然と立ち尽くしていたアンリエッタさんの、その美しい蒼玉の瞳から、大粒の涙が堰を切ったように、ぽろぽろと溢れ出す。
「ううっ……」
か細い、悲鳴のような嗚咽。
そんな彼女の肩をロルフさんが、どこか不器用にそっと支えようとする。けど──彼の指が触れそうになる瞬間、アンリエッタさんの肩がびくりと跳ねた。
「す、すまん。あー、しっかりしろ嬢ちゃん。まだ終わってねえぞ、坊主も頑張ってる。そう言いたくてな……」
「はい……」
ごめん、アンリエッタさん。泣かせるつもりはなかったんだ。ただ、貴女に自由になってほしくて。
けれど、まだ終わりじゃない。
貴女のその白い首筋に、今なお食い込む、最後の枷が残っているのだから。
これこそが、幼き頃の僕の……たった一つの願い。
「ヨハンさん、彼女の首輪も、外してあげてください」
僕の言葉にヨハンさんの眉が、僅かにひそめられた。
「本当によろしいので? 解放された彼女の力が、貴方に向く可能性もあるのですよ? 主人と使用人、信頼していたのは片側のみ。昔からよくある話です」
「ええ、それでも構いません」
僕は、涙に濡れる彼女の蒼い瞳を、真っ直ぐに見つめ返して答える。
貴女の力が、僕を襲う?
そんなことは、あり得ない。それでも……。
「万が一そうなったとしても、僕は甘んじて受け入れようと思います。それも、彼女が選んだ『自由』なのだから」
僕の絶対的な響きを持った言葉に、部屋の空気までもが息を呑むよう。
ヨハンさんは一度だけ固く目を閉じ、やがて何かを確信したように確かに頷くと、ロルフさんに目配せした。
彼は自ら重厚な執務机へ向かうと、錠前付きの引き出しを開け、中から一本の銀細工が施された小さな棒状の物を取り出す。
「ではロルフ、彼女をこちらへ」
ロルフさんはアンリエッタさんを伴い、彼の元へとゆっくりと歩み寄る。
彼はその銀の魔道鍵を、アンリエッタさんの首輪の中心にある小さな紋様へと、そっと触れさせる。すると、鍵の先端が仄かな蒼い光を放ち始めた。
カシュン、と。
錠が外れるような、澄んだ音がして──長年、彼女を縛り付けていた魔封じの首輪が、力なく床へと転がり落ちた。
雪のように白い首筋には、長年の束縛を物語るかのように、一本の細く赤い痕が痛々しく残っていたよ。
おかえり、アンリエッタさん。
ずっと、会いたかったんだ。君がいない毎日は本当に辛くて、なんて無意味な生なんだと思えた。
そして、君はもう、本当に自由だよ。これからは、好きに生きていい。
もし、叶うのなら、僕の側にいて欲しいけど──
黒曜の髪 蒼玉の瞳 転生医師の異世界奮闘記
─ 第二章、取り戻すために 完 ─
─あとがき─
第二章「取り戻すために」、お楽しみ頂けましたでしょうか。
ここまでお付き合い下さった皆様、本当にありがとうございます。
孤独な旅に出たフェリクスが、マリアンヌやミゲルといったかけがえのない仲間と出会い、数々の試練を乗り越えて成長していく姿を描いた第二章でした。そして、ついにアンリエッタを取り戻すことができました。これもひとえに、応援してくださった皆様のおかげです。
自由になったアンリエッタを迎え、フェリクスたちのパーティー『契りの円環』は、四人揃って新たな旅路へと歩み出します。彼らを待ち受ける『広がる世界』。 そして、物語の核心に迫る『黒が忌諱される理由』とは何なのか。第三章では、彼らの新たな絆と、この世界の謎をさらに深く描いていきたいと思っています。
皆様の反応が、この物語を書き進める上で何よりの励みとなっております。これは本当です。
もし、この第二章の結末や、これからの物語に少しでも「面白い」「続きが気になる」と感じていただけましたなら、★★★★★やブックマーク、レビューに感想など、足跡を残していただけると嬉しいです。どんなお声でも構いません。本当に嬉しいのです。
引き続き第三章も、キャラクターたちの魅力を精一杯お届けできるよう頑張りますので、どうぞ応援をよろしくお願い致します。
神崎 水花




