第78話 いつか自分を自由にするためのもの
震える手で、扉を開ける。
その先に立っていたのは、やはりロルフだった。
「とりあえず、中に入れてくれるか?」
「……どうぞ」
望んだ客か、望まざるべき客か……。
扉が、乾いた音を立てて閉ざされた。僕の狭くて殺風景な部屋が、この男一人いるだけで、まるで檻のように息が詰まる。
「お、来客か。しかし、よくこんな狭い所に三人もいたもんだな」
マリーさんとミゲルさんが、射抜くような警戒の眼差しをロルフへと向けている。彼はそんな視線など、慣れたものなのだろう。飄々と受け流していた。
僕は、というと……怖くて、彼の顔をまともに見ることができなかった。もし、その唇から、あの人の名と、絶望的な結末が告げられたら……。そう想像するだけで全身から血の気が引いていく。
「今日は、領主の依頼を達成したお祝いの打ち合わせよ」
「おお、聞いたぜ? やるじゃねえか。まあ、やる奴らだとは思ってたがな」
「一応、礼は言っておくわ」
狼狽える僕の代わりに、彼女が毅然と応対した。
助かった……。今の僕では、まともに話せそうになかったから。
「……それで、アンタ、一体何しに来たの?」
その問いは、僕が喉まで出かかっていた言葉そのもの。
「──まさか、アンリエッタさんの、契約が……決まった、とか?」
彼女の台詞に勇気を振り絞り、恐る恐る付け加える。僕の声は、情けないほどに震えていたかもしれない。
「ん、ああ。だから坊主、そんなに暗い顔していたのか。違う違う、今日は別件だ」
「……ほんとに? 契約が決まったんじゃないんですね?」
「ああ、本当だ」
ロルフの、あっけらかんとした否定の言葉に、僕の心臓を締め付けていた氷の枷が、音を立てて砕け散る。まるで今まで止めていた呼吸を、ようやく許されたかのように、深く、熱い息が漏れた。
ああ、よかった……。本当に、よかった。
あと金貨十七枚。
あと、たったそれだけでアンリエッタさんに手が届くというのに、ここで全てが終わりだなんて、そんなの無情すぎる。
では、一体何のために?
この男が、わざわざ僕の部屋を訪ねてくる理由なんて、他に何かあっただろうか……? こいつは、僕からアンリエッタさんを奪って行った男の一人であって、友誼をかわした間柄ではない。
ロルフが、一つの古びた革袋を、卓上へと無造作に置いた。
「|ハーフエルフの嬢ちゃん《アンリエッタさん》から言伝と、これを渡して欲しいと、まあ、懇願されちまってな。俺はどうにも女の涙に弱いらしい」
「……これは、何ですか?」
「開けてみろ、坊主」
僕の心臓が、また嫌な音を立てる。
……言われるがまま、年季の入った革袋の固く閉じられた紐を解き、そっと中を覗き込んだ。そこには──長い年月を経て縁が摩耗し、輝きを失った金貨と銀貨が、びっしりと詰まっていた。
「……なぜ、お金が?」
「そうなるわな。では、嬢ちゃんからの言伝、伝えるぞ。よく聞け。二度とは言わんからな」
「は、はい」
言伝を伝えるだけだろうに、なぜ、この男が照れているんだろう……?
「『このお金は、私がいつか……、自分を買い戻すために貯めてきたものです。頂いたお給金を、コツコツと貯めたお金ですから、やましいお金ではありません。どうか、フェリクス様の今後のためにお使いください。あなたの幸せを、ずっと、願っています』……だとよ」
ロルフのぶっきらぼうな口調の中に、確かに彼女がいた。僕だけが分かる、彼女の言葉選び、息継ぎの間。
本当に、彼女がそう言ってくれたのだと、聞いているだけで分かってしまった。
「言っておくがな坊主、お前が嬢ちゃんを取り戻すために、こうして冒険者をしていることは伝えていないからな。あいつは、これを使って私を取り戻して、なんてこれっぽっちも考えちゃいねえぞ」
懸命に築いていたはずの僕の理性の壁は、驚くほどに脆く。
気づけば、僕の瞳から熱い雫が、ぽた、ぽたとテーブルの上に流れ落ちていた。
マリーさんが、ミゲルさんが、ロルフまでもが、すぐ側にいるというのに、もう、止めることなんてできなかった。
どうして……。これは貴女が、貴女自身の自由のために、ずっと、来る日も来る日も貯めてきたお金じゃないか。それを、なぜ、こんなにも簡単に、僕に託せるんだ……?
アンリエッタさん……。
貴女は、一体、どれだけ……。
「あーやば、もらい泣きしちゃうわ、私も」
「ええ、本当に……」
マリーさんとミゲルさんの声が、同情に濡れている。
僕はロルフへと向き直った。
「失礼ですが、このお金、今ここで数えても?」
「ああ、もうお前のもんだ。好きにしろ」
彼の許可を得て、僕は震える手で革袋を逆さにした。
ジャラリと卓上に、鈍い輝きを放つ硬貨の山ができる。僕はその山をそっと崩し、指先で広げていった。並べられた硬貨はどれも、見知らぬ誰かの手を渡り、長い年月を経てきたのだろう。表面がすり減って輝きも鈍い。
この一枚一枚に、彼女がどれだけの時間を、想いを込めてきたのか。
十四枚、十五枚……十六枚。そこで硬貨の山は無くなった。
アンリエッタさん……っ。
一度は堪えたはずの涙が、また、熱い雫となって頬を伝い始める。
「──全部で金貨十六枚分、ありました」
「そうか……」
そんな僕の隣でマリーさんが、すっと涙を拭う。
「ロルフさん、と言ったわね」
「何かな? 元冒険者ギルドの人気受付嬢様」
「なぜそれを?」
「はは、姉さんはこの町じゃ、ちっとは有名人なんだぜ?」
「う……。それよりも、頼みがあるのよ」
「頼み、とはなんだ?」
「領主からの報奨金にギルドからの特別手当、うちのリーダーが貯めたお金、そして……今回アンリエッタさんから託されたお金。これ、すべて合わせたら金貨九十九枚になるわ」
「ほう、頑張ったじゃねえか、坊主」
「あと一枚で目標達成よ。だから私たちが買い戻すまで、アンリエッタさんの交渉は、これ以降、全て中止して頂戴」
そうだ……感極まってる場合じゃない。マリーさんに任せきりにしてどうする。これは、僕の戦いだ。
「ふむ、正直言うとな? こいつや嬢ちゃんを見てると、俺も胸に来るものがあってなぁ。出来るなら何とかしてやりたいが、それは無理なんだ。俺には、そんな権限はねえ……」
「あんた、使えないわね」
「ああ、ほんとにな……」
「なによ、悪者なら悪者らしくなさいよ。調子くるっちゃうわ」
「悪者か、たはは、ちげえねえ」
「いいわ、じゃあ残りの一枚は、私が……」
「いえ、それは駄目です、マリーさん」
僕は彼女の優しさを振り払うように、静かに、しかし力強く言い放つ。
「……最後の一枚は、明日、必ず用意します。だからロルフさん、彼女の引き渡しの準備をして待っていてください」
「わかった、坊主」




