第65話 続、初めての野営
楽しい食事を終え、僕たちは揺らめく焚き火の炎を見つめていた。
深い静寂に包まれた森の中に響くのは、パチパチと薪が爆ぜる音と、時折、ミゲルさんが火の番をしながら、薪をくべる音だけ。
幾重にも重なる木々の葉の隙間から覗く夜空には、僕の知らない星座が、宝石を散りばめたように煌めいている。
この世界に来て間もない頃に、アンリエッタさんと二人で見上げた、どこまでも広がる青い大空を思い出す。
いま僕を包むこの深い森も、頭上に輝く星々も、あの時と同じ。
人の手が加えられていない、ありのままの自然が放つ、ひたむきな美しさがそこにあって。ゆっくりと癒されていくようだった。
そんな感傷に浸りかけた、その時。
マリーさんの楽しげな声が、夜のしじまを破った。
「ねえ、二人とも。ちょっと気が早いかもしれないけど、パーティーの、これからのことを考えない?」
「これからのこと、ですか?」
僕が問い返すと、彼女は楽しそうに笑う。
「そう。例えば、いつかお金を貯めて、便利な魔道具を買うとかね。ゆくゆくは、皆で使える拠点とかも、いいと思わない?」
「魔道具、でありますか……」
ミゲルさんが、興味深そうに呟いた。
「うん。例えば『魔道袋』があれば、これからの冒険が、ぐっと楽になると思うのよね」
「確かに、それは非常に有用かと。いくつか所有できれば野営の質も上がり、ひいては、我々の作戦遂行能力の向上にも繋がりましょう」
「う……ま、まあ、そうなのよ。戦利品とか、素材とか、その辺もね。持ち運べる量が増えれば、稼ぎも変わってくるから」
ミゲルさんのどこまでも真面目で、少しだけズレた軍隊のような分析に、マリーさんの笑顔が僅かに引きつる。
微妙に噛み合わない二人のやり取りに、僕は、思わず苦笑が漏れた。
この忠実なる騎士様は、いつだって、どこだって、大真面目なのだ。
「そういえば、マリーさん」
「ん、なあに?」
「その矢筒、もしかして、魔道具の類だったりします?」
僕の問いに、マリーさんは、
「ふふ、よく分かったわね」と、少しだけ得意げに笑う。
「そうなのよ。これも、ちょっとした魔道具なの。こうして矢を取り出しても、中に蓄えられた矢が次々と補充される仕組み。おかげで、ほら。見た目よりずっと多くの矢を持ち運べるから、すごく便利なのよ」
そう言って、彼女は実際に矢筒から矢を数本、立て続けに引き抜いてみせる。すると、すぐにまた新たな矢羽が、顔を覗かせた。
「おお……!」
「ほう、それは、素晴らしい」
不思議な光景に、僕とミゲルさんの感嘆の声が夜の森に重なる。
理屈は全く分からない。けれど、凄い物はすごいのだ。
「でも、すごく高価なものに見えますね……」
僕の素直すぎる感想に、マリーさんは愛おしそうにその矢筒と、傍らに置いた漆黒の弓をそっと撫でた。
「魔道袋は、その収納量で値段はピンからキリまでね。普通の矢筒なら矢が十五本も入れば上等だけど、この子はその何倍も収納できるの。……現役時代のなけなしの貯金を殆どはたいて手に入れた、私の大切な子たちよ」
楽しい語らいは、時間が経つのも早いもので。
夜は静かに更けていく。
「……随分と夜も更けました。最初の見張りは私が引き受けますので、ご主君もマリアンヌ殿も、そろそろご同……」
「──ミゲル君」
彼が言い終わる前に、マリーさんの地を這うような低い声が、その言葉を遮った。有無を言わせぬ響きを纏わせて。
「な、なんでしょうか、マリアンヌ殿」
ミゲルさんが思わず背筋を伸ばして応えてしまう程に。
その姿が、少しだけ面白かった。
彼女はそんな彼を、にっこりと、しかし全く目の笑っていない笑顔で見つめる。
そして、はっきりと告げるのだ。
「『同衾』とか、そういう寝ぼけたことを、もう一度、言ってみなさい? その、さっきチーズを刺してた串で、容赦なく喉をつき刺してあげる」
「ひぃっ……!?」
彼曰く、将来の奥方様からの、あまりにも物騒な刺突宣言。
ミゲルさんの顔から、さっと血の気が引く。
彼は僕と、恐ろしいことを言い放ったマリーさんとを、きょときょとと交互に見比べるだけだった。
マリーさん。あの発言、まだ根に持ってたんだね……。
僕は、このどうしようもない空気を変えるため、わざとらしく咳払いをする。
「えーっと、まあ、その、なんだ。見張りですね。最初の三刻ほどは、ミゲルさんお願いできますか? 僕は、その次をやりますから」
僕がそう言うと、ミゲルさんは救われたように、しかしマリーさんの視線からはまだ逃れられないといった様子で、こくこくと何度も頷いていた。
噛み合わないやり取りに、マリーさんが痺れを切らしたのだろう。
彼女は、天を仰ぐほど深いため息をつくと、その場の空気を断ち切るように、きっぱりとした声で言う。
「もう、寝るわよ! 行くわよ、フェリクス君!」
「は、はいっ!」
彼女は、まだ何か言いたげなミゲルさんを、ぴしゃりと一瞥で黙らせる。それから僕の手をぐいと掴んで、天幕へと向かって歩き始めた。
その唇からは、「ったく、ほんとに……。あんなこと、口にするから意識しちゃうんじゃないの……」という、小さな、けれど心の底からの呟きが、零れていた。
手を引かれたまま、僕は彼女と共に、ごく簡素な三角天幕の中へと滑り込む。
幕の中は、焚き火の光がぼんやりと布地を透かし、狭い空間を、頼りない薄琥珀に染めていた。
彼女はまず、ふう、と一つ息をつく。
それから、体の動きを妨げていたであろう、硬い革の胸当てを外していく。
カチャリと。
小さなバックルの外れる、乾いた音。
革紐が、衣が擦れる微かな音が、やけに大きく聞こえた。
たかが音一つ。
どうして僕の心臓は、こんなにもうるさく、鳴り響くのだろうか。
肩当てと胸当てが外され、薄手のチュニックだけになった彼女のシルエットは、驚くほど柔らかな、女性らしい丸みを帯びていた。
「フェリクス君も、寝るのに邪魔な防具はちゃんと外すのよ?」
「は、はいっ!」
彼女と向かい合うようにして座った瞬間、僕の体は意思とは無関係に、完璧な正座の形をとっていた。
べ、別に何かを期待している訳じゃあないぞ?
ミゲルさんも外で見張りをしているんだ、僕たちも出来るだけ早く寝なくちゃいけないし! で、でも、どどどど、どうしよう……!
「フェリクス君、おやすみ」
「お、おやすみなさい、マリーさん……」
何かがあるはずもない。そもそも、何かがあってもいけない僕たちだ。
ただ僕の自意識と、ほんの少しの期待が、過剰に、猛烈に反応してしまっただけのこと。
これは……あれだね。
修学旅行で、「先生に見つかっちゃうから、ごめん」と、クラスの女子が突然自分の布団に潜り込んできた時のような、あの感覚なのかもしれない。
ドキドキするだろう?
え? しない?
そうか、君は男子校だったんだね……。
互いに「おやすみ」を告げ、僕たちは同じ方向へ足を向けて横になる。
冒険の旅で使われる、携帯性に主眼を置いた天幕だから……当然、大きいわけがないよね。
すぐ隣にはマリーさんの体温だけでなく、彼女から香る、石鹸のような匂いまでが感じられるほどに、僕たちの距離は近かった。
スゥ……、スゥ……。
僕のすぐ側から、マリーさんの穏やかな寝息が聞こえてくる。
どんな状況でも、眠るべき時にすぐに眠れるんだ。さすがだなぁ……。
男として意識されていないようで、何だか少し寂しくもあるけれど。
僕はね。ただ、それだけの思いで、そっと彼女の方へと視線を移したんだ。
本当だよ?
夜の帳の中、天幕を仄かに照らすは、少し離れた焚き火の灯りだけ。
炎の揺らぎに合わせて天幕の中の僅かな光も揺らめき、暗闇に彼女の柔らかなシルエットを浮かび上がらせては、消える。
その光は、まるで僕の好奇心を煽るように彼女の輪郭をなぞっていった。形の良い高い鼻筋、そして、呼吸に合わせて緩やかに上下する、豊かな双丘が描く美しい曲線を。
……こんばんは、たわわ様。
深夜に申し訳ありません。本日も、その、大変お美しいことで……。
お美しいのは結構ですが、これでは、とても寝られそうにありませんが!
だめだ、なんだか無性にもやもやする!
これ以上は僕の理性が、いけない領域へと踏み込んでしまいそうで。
僕は自分の邪な思考を振り払うように、ぶんぶんと頭を振った。そして無理やり、僕の心の全てを占めるべき、たった一人の女性のことだけを考えることにする。
そうだ……アンリエッタさん……。
彼女ともこうして、一緒に野営する日が、いつか来るのだろうか。
焚き火を囲んで、彼女のあの美しい顔を見ながら、他愛もない話をするんだ。そういえば、アンリエッタさんの作った料理って、結局まだ一度も食べたことがなかったなぁ。
きっと、美味しいに違いない。
なんせ、あの完璧な彼女が作るんだからね。ふふん。
あともう少しの筈。
憎き黒いオーガさえ倒すことが出来れば、僕は再び彼女と会えるだろう。
いつしか僕の心は、たわわ様への邪念ではなくて、アンリエッタさんへの温かい想いで一杯になっていた。
おやすみ……ア……ンリエッタ……さん。




