第62話 決戦前夜
まだ空に月が残る、暁の刻。
夜明け前の澄み切った空気が、高ぶる気持ちを静かに引き締めるようだった。
深い眠りから未だ覚めやらぬリヨンの町を、僕は門を目指し音もなく歩いている。
薄明の石畳に響くのは、僕一人の足音だけ。
遠くでパン屋の窯に火でも入ったのか、香ばしい匂いが微かに風に乗って届く。
目指すは、憎き仇敵『黒いオーガ』がいる、町の北西に広がる「魔の大森林」
美しい緑風の髪が特徴的な、彼女の住まいがある辻を横切る、その先。まるで夜の闇から滲み出すように、彼女が音もなく姿を現した。
背負った漆黒の弓と、腰の小剣が描く硬質なライン。けれど、その武具を纏う肢体は、夜明け前の柔らかな光に、しなやかな腰から脚にかけての、紛れもない女性の曲線美を浮かび上がらせていた。
その表情に、昨夜見せたような柔らかさはなくて、ただ一点、僕たちの向かうべき先だけを、未来をも見据えるような眼差しで見ていた。
僕たちは、言葉を交わすことはない。
ただ、互いの存在を認め合うように一度だけ頷くと、再び静かに歩き始めた。
足音が、一つから、二つに重なる。
二つの足音は、黙々と西門を目指す。
やがて、リヨンの町の西門が見えてきた。
その門の前、まだ夜の青さが色濃く残る空の下で、一本の槍さながらに、一人の男が真っ直ぐに立っている。
ミゲルさんだ。
その腕には、僕が魔法で鍛え上げた白銀の盾が、夜明け前の微かな光を浴びて、静かな輝きを放っている。彼自身の実直さが示すような趣が、そこにはあった。
彼は、僕たちに気づくと、軽く会釈だけを返す。
こうして、三人は揃う。
誰一人、口を開く者はいない。けれど、僕たちの間には、言葉以上に雄弁な覚悟と信頼が満ちていたと思う。
──目指す場所は、同じ。
──成すべきことも、同じ。
懸ける想いさえも、同じ。
どれほどの時間が過ぎただろう。
僕たちの眼前には、巨大な木々が壁のように連なる、魔の大森林の入り口が広がっていた。
闇と朝の光が混じり合う、その境界線。
それが、この世と、異界を分かつ門のように、不気味なほどの静けさで僕たちを待ち構えている。
僕は、その入り口で一度だけ足を止め、二人を振り返った。
「──最後に、装備の最終確認をしましょう」
僕がそう言うと、二人は無言で頷いた。
最も肉体強化が進んでいる僕が背負うのは、父さんが遺してくれた頑丈な革の背負い袋。これなら、野営装備一式も丸ごと入る。
次いで体格の良いミゲルさんが、食料の入った袋の口を固く縛り直していた。
後衛で軽いフットワークが求められるマリーさんは、ポーションなどの回復薬や細々としたものを。理に適った、完璧な役割分担だと思う。
「ミゲルさん、食料は?」
「はい、問題ありません」
「マリーさん、回復薬は?」
「ええ、こちらも大丈夫。予備も多めに持ってきたわ」
「僕の野営具も問題ありません。……では」
互いに頷き合い、最後の準備が整ったことを確認する。
──とうとう、やって来たんだな。待ち望んだこの、瞬間が。
僕の脳裏に、あの女性の、アンリエッタさんの美しい笑顔が浮かぶ。
あの笑顔を取り戻したい。僕の全てであった、あの温かな日常を、僅かでもいい。この手に取り返したいんだ。
だけど、これだけは誓う。そのために、今僕の隣にいるこの二人を犠牲にするつもりなど、毛頭ないことを。
マリーさんにも、ミゲルさんにも、絶対に無事帰ってもらうんだ。
あれも、これもと。
何と、欲張りなことだろうか。全てが欲しい。何も、失いたくないだなんて。
僕は、自嘲するように、小さく息を吐いた。
けど、それでいいんだ。
今の僕はもう、一人じゃないのだから。
『──帰れ、お前を待つ者たちの元へ。そして、今度こそ、お前の信じる道を最後まで歩き通せ』
父さんのあの言葉は、この時のためにあったのかも、しれないな。
僕は自らの右の手の甲に、左手の指先をそっと走らせる。
そこには、あの幽世で父から託された、一角獣の聖痕が浮かび上がっていたよ。
ありがとう、父さん。
僕の信じる道は、もう決まっている。
さあ。行こう。
その全てに決着をつけるために。




