第56話 形なき導(しるべ)
「──稽古試合の後、見かねて君は治療してくれただろう? あの時の君の治癒魔法は、本当に凄かった。領主様お抱えの、あの偉そうな治癒魔法使いなんかよりも、君の力の方が絶対に上だと、私はそう確信している。だから……だから頼む! 少しでもいいんだ、君のその力で、この役立たずの体を、もう一度……もう一度動くようにしては貰えないだろうか」
「お願いだ、フェリクス君!」
あのミゲルさんが、溺れる者が藁にも縋るような、必死な形相で僕を見つめてくる。その瞳の奥に、深い絶望の底に揺らめく、最後の、か細い希望の光を宿して。
そんな目で、僕を見るな。
僕の胸の内で、何かが軋むような音がした。
僕は、僕は……聖人君子なんかじゃないっ!
そんな都合のいい救世主みたいに、僕を頼るな。僕の願いは、何一つ叶わないというのに! そんな奇跡は、神や仏にでも頼むがいいさ、そうだろ!
僕の内心の叫びなど露知らず、ミゲルさんは懇願を続けた。その声は、もはや懇願というより、悲痛な祈りに近い。
「もし……もし、この体がまた自由に動くようになったら、私は君の為なら何だってする。この命だって惜しくはない、どんなことだってするから……! 頼むよ、うぅ……どうか……っ」
彼の言葉は、やがて途切れ途切れの嗚咽に変わり、骨張って痩せこけた肩が小さく、そして痛々しく震えている。
なぜ……なぜ、アンタが、そんなにまで痩せこけているんだ……っ。
反射的に部屋を見渡すけど、食べ物はおろか、生活の痕跡すら希薄。わずかに残る薬草を煎じたらしい匂いが、彼の苦境を物語っていた。
騎士団を罷免された、か。
命を懸けて領主のために戦い、その結果がまたこれか。役に立たないと見なされれば、こうして何の保障もなく見捨てられる。僕の父さんも、そして彼も……。
訪れた悲劇に、叶わぬ願い。
今も僕の心を覆う、悲嘆。
込み上げてくるのは、この理不尽な仕打ちを許し、何一つ報いようとしない領主への、言葉にならない熱い怒りだった。
ああ、アンリエッタさん……僕は、どうすればいい?
こんな時、貴女なら……どうする?
どれだけ辛く、どれだけ悲しいことがあろうとも、僕は聖人のように、全ての人を無償で癒し続けなければならないの?
僕は、救いを求めるように、マリーさんを見た。
一瞬、アンリエッタさんと彼女の顔が、だぶって見えた気がした。
そんなマリーさんの大きな緑の瞳は、僕の揺れる心を見透かすように、優しく、そして力強く見つめ返してくる。
「フェリクス君の思うようにすればいい。どっちを選んでも、私はキミを肯定するわ。ただ、後悔だけはしないで」
マリーさんの、静かで、けれど確かな信頼を込めた言葉が、僕の心に深く届く。
「マリーさん……」
そうだ……僕の願いは、何一つとして敵わないことばかりではなかった。
僕は、この異世界に来てから、たくさんのものを貰っていたじゃないか。父さんの優しさを、母さんの無償の愛を、そして何よりも、アンリエッタさんの、マリーさんの、その温かい心を。
僕を信じ、支えてくれる人たちが、確かにいたことを。
あの女性は、僕とは比べ物にならない、辛い境遇に身を置いていたはずなのに、それでも、いつも陽だまりのようだった。
僕がやるべきことは、もう疾うに決まっていたのかもしれない。
心の中で、アンリエッタさんのあの深い蒼玉の瞳と笑顔を思い浮かべる。彼女の、どんな時も他者を慮る慈愛に満ちた姿を。
彼女なら……きっと、この人を治すだろう。
見返りなんて、何も求めずに。
その確信は、僕の胸の内を覆っていた暗い靄を、すうっと晴らしていく。
僕は一度深く息を吸い込み、その息に全ての迷いを乗せて吐き出すと、目の前でなおも最後の光に縋るミゲルさんへと、静かに告げた。
「アンリエッタさんなら……きっと、貴方を治すでしょう。だから、僕も治しますよ。ミゲルさん、貴方のその体を」
僕のその一言は、乾ききった大地に降る慈雨のように、ミゲルさんの瞳に確かな希望の輝きを蘇らせる。そして、隣で息を詰めていたマリーさんの表情を、春の陽光のような穏やかな微笑みへと変えたのだった。
「では、少し診せてもらいます」
そう言い、僕は彼の動かない右腕や、力なく引きずる左足の状態を注意深く観察し始めるのだ。治すと決めたなら、後は全力で彼を治療するのみ。
彼女への想いと、元医師の矜持に賭けて。
そして、診れば診るほどに、僕の眉間の皺は深くなるばかり。
これは……酷い。酷すぎる。
「……なんですか、これは。これが、領主様お抱えの治癒師が行ったという「治療」の結果なんですか?」
僕の声には、自分でも抑えきれないほどの冷たい怒気が孕んだ。
「そう、なんだが……。ど、どこか、そんなにおかしいだろうか?」
ミゲルさんが、僕の険しい表情に怯えたように問い返してくる。
「これは、おかしいという次元ではありませんよ。こんなものは治療とは到底呼べない! ただ骨を繋げただけで、関節は完全に固着してしまっているじゃありませんか。これでは動くはずがない……。あまりにも杜撰な、無責任な処置です」
僕の内心は、その拙劣な処置への強い憤りと、ミゲルさんの置かれた状況への暗澹たる思いで渦巻いている。
「ミゲルさん。もう一度だけ、はっきりとお聞きします。本当に、もとに戻りたいと、心の底から望んでいますか?」
僕の真摯な、されど有無を言わせぬ響きを持った問いに、ミゲルさんの瞳が一瞬、怯えにも似た色に揺らいだけど、すぐにそれは懇願の光へと変わった。
「治せるのかい!? 君になら……本当に、僕のこの体は、治せるというのか!? それなら、治してほしい!」
彼の声は、かすかな希望に上ずっている。
「僕なら治せます。ですが、ミゲルさん、これは想像を絶するほどの痛みと苦しみを伴うことになりますよ」
僕は敢えて、言葉に一切の甘さを含ませなかった。
「治るのなら……どんな痛みにも、耐えてみせる」
「もしかしたら、死んだ方がどれほどマシだったかと、そう思うことになるかもしれませんが、それでも?」
僕はさらに突きつける。生半可な覚悟では、この先の試練には到底耐えられないだろうから。
「それでも、構わない……!」
ミゲルさんは、ほとんど叫ぶように言った。
「今の私は、生きているとは到底言えない。もう、死んでいるのも同じなんだ。どんなに激しい痛みが襲おうとも、この体の何かを代わりに失うことになったとしても、構わない。……ただ、私は君に返すものが無い。もし、それを君が許してくれるなら、この身を君に捧げ、この先、生涯をかけて君に仕えることだって誓おう。だから……だから、頼む、フェリクス君!」
彼の、魂からの叫び。追い詰められた者の、揺るぎない覚悟。それが、ずしりと僕に重くのしかかり、僕自身の覚悟をも固めさせた。
「……仕えてはくれなくて、いいです。ですが、わかりました」
「ぐああああああああああああああっ!」
ミゲルさんの、もはや悲鳴とも絶叫ともつかない獣のような咆哮が、壁の薄いこの家から漏れ出ていないかと気が気ではない。
「──はぁ、はぁっ、ガアアッ……!」
「ぎぎぎぎッ、くっ、ッハァア……ッ」
彼は息を吸い込むわずかな間すら惜しむように、再び激痛に身を捩らせては絶叫し、ありったけの空気を肺から絞り出す。血走った目で天井を睨みつけ、歯が欠けてしまいそうなほど強く食いしばり、この壮絶なまでの痛みに必死で耐えていた。
「……次で、最後です。どうか、耐え抜いてください、ミゲルさん」
僕は汗の滲む額を袖で拭い、冷静を装いながらも、自分自身に言い聞かせるように声をかける。
「が、がんばって、ミゲル君。あと、あともう少しだから、ねっ!」
マリーさんが、彼の汗でぐっしょりと濡れた手を握りしめ、涙声で必死に励ましている。彼女の手もまた、小刻みに震えているのが見て取れた。
「はぁっ、はぁ……もう、いっそ殺してくれぇ……。頼む……っ」
途切れ途切れにそう呟くミゲルさんの顔は、苦痛と脂汗でぐしゃぐしゃだ。
そうだろう。僕が君の立場でも、きっと同じことを言う。
なぜなら、この治療法は……あまりにも、滅茶苦茶だから……。けれど、他に道はなかった。彼の固着した関節と萎縮した筋肉を再生させるには、これほど荒っぽく、そして強引な手段しかなかったのだ。
大きな木の台には、ミゲルさんの右腕が暴れて治療の妨げにならないよう、太い革紐や布で雁首搦めに括り付けられ、彼の体もまた、頑丈な椅子に何重にも縛り付けられている。
それでもなお、この耐え難い激痛に全身をのたうち回るだろうことは想像に難くなかったから、僕はマリーさんに頼み込んで、ミゲルさんの体を力一杯押さえつけてもらっていた。
ミゲルさんの腕や足は、なぜ、ここまで動かなくなってしまったのか。
それは、おそらく粉砕したであろう関節を、城館付きの治癒士が、治癒魔法で無理矢理に、不適切な形で癒合させてしまったからに違いない。
癒着し、固着してしまった関節は、もはや自力ではびくともしない。
そして、悲しいかな。
この世界には、僕が知る範囲で、まともな外科道具が存在しないんだ。
クーパーやメイヨーのような、繊細な動きを可能にする剪刀はおろか、的確な止血を行うためのペアンやコッヘルといった、鉗子に近い物すら見当たらない。何なら、術野を清潔に保つための十分な消毒薬すら、ここには無いのだから……。
もしも、最低限の設備と清潔な環境、そして適切な器具が揃っていれば、彼の苦しみは随分と緩和されただろうに。
関節部の肉を慎重に開き、癒着した骨や組織を丁寧に剥離し、再建するという選択肢もあったはずだ。
けど、ここには何もなかった。
この薄暗く、埃っぽい、お世辞にも清潔とは言えないミゲルさんの部屋で、麻酔も器具も無しに、そんな繊細な処置ができるはずもない。
何せ、医療用の鋸やノミすら無いのだから、本当に嫌になる。
だから……僕は……砕いたんだ。強引に。
僕は、傍らに用意していた道具へと目を配る。急遽ゴードンさんのところへ赴き、借りたハンマーにノミの数々。これらを用い、固着してしまったこの関節を……割り砕き、そして僕の魔法で、今度こそ正しい形に繋ぎ直すんだ。
荒療治であることは、百も承知しているさ。
けど、彼が再び自分の足で立ち上がり、腕を振るうためには、これ以外に道はない。そう断言できる
僕は鉄製の、ずしりと重いハンマーを手に取り、ミゲルさんの右肘関節へと狙いを定める。マリーさんが彼の体を押さえ、僕の合図をただ待っている。
一瞬の躊躇いを振り払い、僕はそれを振り上げた。
「ミゲルさん、歯を食いしばれッ! マリーさん抑えて!」
そして、力を込めて──振り下ろす。
ゴシャァッ!!
「ぎゃあああああぁぁぁーッ! ッハァ、ガアアアアアアアアッ!」
肉が潰れ、骨が砕ける鈍い音と、ミゲルさんの鼓膜を破らんばかりの絶叫が、この小さな部屋の空気を震わせた。
「ミゲル君、耐えて! 耐えればきっと、フェリクス君が治してくれるわ! だから……っ」
あのマリーさんが、あまりの凄絶な光景に顔を蒼白にさせ、涙を流しながら必死にミゲルさんを励ましている。その声もまた、震えていた。
ガクリ……
ミゲルさんの頭が力なく垂れ、強張っていた体から完全に力が抜け落ちた。彼は、ついに意識を失ってしまったようだった。
「……よく、ここまで耐え抜きましたね、ミゲルさん。貴方は、凄い」
僕の胸にも、荒療治の第一段階を終えたことへのわずかな安堵と、そしてこれから始まる本当の治療への、新たな種類の緊張感が交錯する。
「フェ、フェリクス君……?」
マリーさんが、まだ震えの残る声で僕に問いかける。
その大きな瞳は、目の前の光景への恐怖と、そして彼への心配とで揺れていた。
「も、もう少し……その、彼が苦しまないような方法は、やっぱり、できなかったの……かな?」
その言葉は非難というよりも、激しすぎる、彼の苦痛への深い同情から発せられたものだと、すぐに分かった。
「彼の関節は、もう完全に固着してしまっていて……。一度こうして破壊しなければ、再生への道筋すら、つけられなかったんです」
僕の声は、自分でも驚くほど冷静だったと思う。
いや、そう努めているだけか。
「そう……よね……」
マリーさんは、僕の言葉をどうにか飲み込もうとするように、小さく頷く。
「僕だって、好きでこんな手荒な真似をしている訳じゃありません。マリーさん」
そう言うと、彼女はハッとしたように顔を上げ、慌てて首を左右に振った。
「え、えぇ、もちろんよ。そんなことは分かってるわ、ごめんなさい。ただ、余りにも痛そうだから、それだけなの……本当にごめんなさい」
彼女の謝罪の言葉が、かえって僕の胸を締め付ける。
だって、そうだろ? 医療の知識が無い人からすれば、僕のやっていることは、それこそ鬼の所業のように見えるかもしれない。
「──あまりの凄絶さに、見ているこちらの方が、何だか申し訳ない気持ちにさせられてしまいますよね」
僕がそう言って僅かに口元を緩めると、彼女もまた「……うん」と、力なくではあるものの、小さな同意の頷きを返してくれた。
「その代わり、必ず治します。ミゲルさんの腕も、足も必ず。だからマリーさんも、あと少しだけ……僕を信じて、手伝ってください」
「……わかってる。信じているから。最後まで、まかせて……」
マリーさんの瞳には、もう迷いの色はない。




