第5話 魔人、そして希望の光
「アンリエッタさん、この字はなんて読むのかな?」
僕は机の上に広げた本の、ある文字を指さし示す。
「お姉さまにおまかせあれ」
彼女は少しおどけたように微笑むと、そっと僕の隣に寄り添う。いつものように髪をかきあげながら本を覗き込むと、普段はきっちり纏められている黒髪が、その仕草で、一筋、二筋と、パラリと零れ落ちた。その様子があまりにも美しくて、思わず言葉を失ってしまう。
「歴史書をお読みなのですね」
「う……うん」
質問した側であるはずの僕の反応の悪さに、少しだけ怪訝な表情を浮かべながらも、優しく教えてくれるアンリエッタさん。
「これは、『魔人』と読むのですよ」
「魔人!?」
え? いま魔人って言いましたか? 黒髪の素敵なお姉たま。
思わず聞き返したくなるような、衝撃的なお言葉。
驚きのあまり、勢いよく彼女の方へ顔を向けると、想像以上にお互いの顔が近くてまたまたビックリ。不意打ちのドアップは心臓に悪くてよ。アンリエッタさん。
パラリからの連続コンボは最高でしたわ。ええ。
それにしても魔人かぁ……驚いたな。何とも強そうで悪そうなネーミングじゃないか。そんな奴本当にいるのかな? いたとしたら怖すぎでしょうが、異世界さんよ。
おっと、ここに女神様がおわすのだから、魔人がいてもしょうがないかもね~。くふふ。
「……ぼっちゃま?」
アンリエッタさんが不思議そうに僕を見つめているけど、吐息がかかりそうな距離にドギマギする。さっきから近いんだってば。
「空気が美味しい気がする」
「へ?」
連続コンボにやられっ放しの僕の思考は、もう完全に湯だってしまい、纏まることがなければ最早締めようもない。緩みっぱなしなのであーる。アンリエッタさんが変顔できょとんとしていたけど無視、異世界『初』無視よ。
平静を装いながら、精一杯の質問を絞り出すと、残りかすのように言葉が出た。
「その……魔人って、本当にいるのかな?」
「どうでしょう、大昔は有名な魔人がいたそうですが、近頃はとんと聞きませんね。それよりも……」
アンリエッタさんはそこで言葉を区切ると、悪戯っぽい表情を浮かべて続ける。
「魔人なんて怖い存在、ぼっちゃまには知って欲しくありませんでした……」
……いや、表情がもうね、どう考えてもビッグ釣り針なんよ。
だけど、それはそれは美しい釣り針なんよ!
ええい、釣られるしかないじゃないか。
「どうして? 知ってはいけないことなの?」
僕の反応を確認したアンリエッタさんは、耳元に薄く艶やかな唇をそっと寄せると、まるで二人だけの秘密の話をするように、小さな声で囁いた。
「だって、夜中におトイレへ行けなくなってしまうでしょう? うふふ」
あ、やられた!?
くぅぅ、彼女の方が一枚も二枚も上手だった。
中身は三十代なんだよ? そんな訳ないのに!
言えないもどかしさが辛いし、何だか腹立つぅ。
「アンリエッタさん! からかって!」
「からかってなんて、いませ〜ん」
アンリエッタさんはそう言うと、とても楽しそうに笑うのだった。
「そうそう、夜中に起こしてくれても構いませんからね?」
去り際に放たれる彼女の追撃に、僕はツーンと横を向く。
この人生で二度目の無視を、黒髪の妖精さんにお見舞いしてやった。
◇ ◇ ◇
ある昼下がり、僕とアンリエッタさんは、庭の中ほどにある大きな石へ腰掛けた。
手入れの行き届いた庭は、初夏の柔らかな日差しを浴びて、様々な緑が鮮やかに輝いている。
「ぼっちゃま、では始めますね」
アンリエッタさんが、静かに口を開く。
「お願いします」
少し緊張しながらそれに答えると、僕の返事を待っていたかのように、彼女はそっと右手を前に差し出す。そして、静かに何かを唱え始めた。
「小さき炎よ、我が指先に宿りて光を放て【ルイン】」
次の瞬間、アンリエッタさんの長く美しい指先に、小さくも明るい炎がポッと現れる。まるで、大きな蝋燭の灯火のように穏やかで、温かい光が。
その炎は、周囲の緑を背景に、ひときわ鮮やかに揺らめいていた。
いつか見た、あの不思議な光景。
映画やゲームでしか見たことのない魔法が今、現実に目の前で再現されている。
震える声で尋ねずにはいられない。
「やっぱ凄いや、これが魔法なんだよね?」
アンリエッタさんは、優しく微笑んで頷いた。
「はい、魔法です。以前お教えすると約束しましたよね」
「覚えてくれてたんだね」
「当然です」
「僕にも使えるかな?」
期待と不安が入り混じった声で彼女に尋ねると、アンリエッタさんは少しはにかんだ面持ちで、
「ぼっちゃまなら大丈夫かと。なぜか、そんな気がするのです」
と、今日も当然のように僕を肯定してくれる。
ただ肯定される。
たったこれだけのことが、どうしようもなく嬉しい。
前世の親父は否定するばかりだったから……。
彼女の優しさに感謝する心と、女神が降臨したかのような美しさを持つ彼女への憧憬。そこに『魔法があるなんて信じられない』という驚きに不安。
欲が深いのか、そこに『もしかしたら自分も?』という期待までもが合わさってしまって、様々な感情が胸の中で渦巻き、どうにかなってしまいそう。
「魔法を使うには、まず、自分の体の中にある『魔力』を感じる必要があります」
アンリエッタさんはふわりと立ち上がり、静かに僕の正面で膝をついた。木漏れ日が、彼女の黒髪をキラキラと輝かせている。そんな中、まるで壊れ物に触れるように、そっと静かに僕の胸に手を当てた。
「えっ?」
「いまから魔力を流してみますね。何か温かいものを感じたら、それが『魔力』です」
アンリエッタさんの少し冷たい指先が、薄い服越しに僕の胸に触れる。その瞬間、心臓がドキリと大きな音を立ててしまった。彼女に、もし聞かれていたら? と思うと何だか耳が熱くなる。
ほんの僅か、お互い何も発さない時が続いた。
短くも長い長いひと時。
美しい女性が凛とした面持ちで目を閉じて、自分の胸に手を当てている。
そんな静寂を、とても神聖な時間なのでは? と錯覚すらしてしまいそうな刻を打ち払うのは、僕の一言が切っ掛けだった。
「ごめんなさい。何も、感じない……かも」
僕は、正直に答える。
彼女に応えられない自分が何とも不甲斐なく、情けない。
閉じられていた長い睫毛が震え、瞼がゆっくりと持ち上がる。深い輝きを放つ蒼玉の瞳が穏やかに僕を見つめていた。
「魔封じのせいで、私がぼっちゃまに送れる魔力は少ないですから。わかり辛いのは仕方がないかと。ぼっちゃまのせいではありません。大丈夫ですよ」
そう言い終えると彼女は、今度は両の手で僕の胸に触れる。
まるで、宝物に触れるかのように。そっと、優しく。
確かに、アンリエッタさんの手の平から、僕の胸の奥へと、じんわりとした熱が伝わってくるような……? まるで小さな太陽が、胸の中で僅かに燃えているかの如く不思議な感覚がやってくる。
「……なんとなく、わかる、かも」
「本当ですか? それが魔力です。しばらく送り続けますから、その感覚をしっかりと覚えてくださいね」
いつも素敵な振る舞いの女性が、懸命に魔力を送ってくれていた。
前世なら、誰もが羨むような見目麗しい貴女が、地に膝を付いて。
そんな彼女の首筋を汗が伝う。
風に流された艶やか黒髪は、パラパラと僕の周りではためいて、共に流れてきたであろう花の香りが僕の鼻腔をくすぐる。
僕はこの光景を、生涯忘れることは無いだろう。
彼女の献身を、温もりを、優しさを──。
「──ふぅ、少しでも魔力の感覚を掴めたならよいのですが……」
アンリエッタさんは僕の胸からそっと手を離すと、少し疲れた様子で言の葉を吐いた。ゆっくりと再び僕の隣へ腰を下ろすと、指先に小さな炎を灯す。
「体の中にある魔力を指先に集中させて、炎の形や大きさを、具体的にイメージするのです。詠唱はその手助けにもなります。さあぼっちゃまも、やってみてください」
くっ、うぐぐぐぐ、上手くいかない。
たかだか小さな炎一つが、灯せない。
気合の入れ方が空回りしている。力の入れ方が違う。そんな感じがしてしまう。
「だめだ、できないよ」
思わず弱音を吐いた。
「最初は目を閉じた方が、イメージしやすいかもしれません」
彼女のひんやりとした手のひらが、僕の視界を塞ぐ。
「わかった」
言われた通りに目を閉じた。
あの時、胸の奥に感じたアンリエッタさんの魔力を、小さな煌めきを。
今は拡散して消えてしまった、彼女の温もりを探すんだ。
こと彼女が残してくれたモノを探す一点において、自分より上手い奴は存在しないだろう。なぜか絶対的な自信があった。
そして集めて、灯すイメージを思い描くんだ。
「小さき炎よ、我が指先に宿りて光を放て【ルイン】」
……何だか、目蓋越しにほんのり明るい気がするし、なんなら指も少し暖かい。
恐る恐る目を開けると、僕の人差し指の先には、小さな初めての炎が頼りなげに揺らめいていた。
「すごーい、 ぼっちゃま成功です!」
アンリエッタさんが、まるで自分のことのように喜んでくれている。
「ああっ、でも、すぐ消えちゃう……」
彼女の残滓を追い求めるように探して灯した炎は、ほんの一瞬で消えてしまった。
「最初は誰だってそんなものです。むしろ、教わった日に成功するなんて凄いんだから! きっとすぐに上達しますよ」
(魔力を送り続けても底が見えないような、人族らしからぬ魔力の器だった気がするのだけど、気のせいかしら……。首元に嵌めたコレのせいで魔力を一気に送ることができないから、感覚が狂ってしまっているのかもね……)
「本当に?」
「ええ、本当です。さあ、もう一度やってみましょう」
それから日が暮れるまで、何度も何度も魔法の練習を繰り返す。
アンリエッタさんは根気強く、丁寧に魔法の基礎を教えてくれた。
「慣れてきたら炎を大きくしたり、小さくしたりと、形を変えてみてください。同時に何個か灯すのも良いですよ」
「うん、頑張って続けてみるね」
「ぼっちゃま、今日はもう終わりにしましょう。とても、お上手でしたよ」
夕焼け空の下、アンリエッタさんが慈愛溢れる笑顔で僕の頭を撫でてくれた。
何だか恥ずかしい台詞とともに……。そんな、僕なんて……。
「ありがとうアンリエッタさん。……もっと練習して必ず上手くなるからね」
ま、ま魔法のことだからな! ええい。
「ええ、楽しみにしています」
その日の夜から、僕はベッドの中で、何度も魔法の練習を始めることとなる。
間違えて家を燃やさないよう、極限まで小さくした炎でね。
指先に灯るとても小さな炎は、まるで希望の光のように、僕の心を温かく照らしてくれた。
僕も、魔法使いになれるかもしれない。いいやそれ以上に、彼女の期待に応えられることが嬉しいのかもしれない。
そんな想いを胸に、僕は深い眠りにつくのだった。




