第47話 もう一度会いたい
そうして、血霞の向こうに揺らめく意識の中、傷ついた獣が己の巣穴へと逃げ込むように、ふらつく足取りでようやく見つけ出した岩の窪みへと転がり込む。
もはや、荒い息を繰り返すことしかできず、岩肌にずるずると背を預け、その場にへたり込んだ。
「ふぅ……はぁ……はぁ……っ」
止血。それはいかなる状況下においても、何よりも優先されるべき応急処置の鉄則だ。人は、その体内を巡る赤い生命の雫を、ある一定量以上失うだけで、あまりにも呆気なく、簡単に死に至る。
それを、医師であった僕は、誰よりもよく知っている。
「マルタンさんの、あの薬のお陰かな……」
今も舌の奥に微かに残る薬草の苦みが、思い出させる。
あの時、あの薬を飲んでいなければ、僕はもう、この岩陰にすら辿り着くことは出来なかっただろう。
それに、あの薬が稼いでくれた少しの猶予が、何とありがたいことか。おかげで、枯渇寸前だった魔力が、本当に雀の涙ほどではあっても、僅かに回復しつつあるのを感じている。
だが、このあまりにも頼りない魔力で、貴重な治癒魔法を無駄弾として撃つわけにはいかない。 ならば、この意識が辛うじて繋がっているうちに、やらねばならないことが、まだあった。
こうしている間にも傷口からは、ポタリ、ポタリと、僕の命が雫となって、冷たい地面へと抜け落ちていく。
人が数人、どうにかこうにか雨露をしのげる程度の、この小さな岩の窪みに身を潜め、僕は唯一持ち出せた革袋に手を突っ込んで中を掻き回した。
「何か、何か使えるものは……!? あってくれ、頼む……!」
「くそっ……!」
悪態が、血の臭いを帯びた呼気と共に漏れ出す。
回避と治癒魔法に絶対的な自信があった僕は、回復ポーションの一本すらもこの袋に入れてきていなかったのだ。何せ、マルタンさんから頂いたあのポーションの存在すら、先ほどまで完全に忘れてしまっていたくらいだ。
ここしばらくは大きな怪我とは無縁だったのも、油断を生んだ大きな原因の一つだろう。
アンリエッタさんを一日でも早く取り戻したい。その焦りから、僅かな経費すら惜しんだ結果が、こんな、最悪の形で裏目に出るなんて。
「やはり、何も……ない、か……」
僕はバカだ。 何て、愚かなんだ。
ポーションの数本くらい、無理をしてでも買っておくべきだった。
今日は、後悔ばかりが、僕の心を締め付ける。
そうだ、直接、傷口を圧迫止血するのはどうだろう?
いや、それは無意味か。
この肩口から胸にかけて、パックリと割れた傷は、圧迫程度でどうこうなる深さと大きさではない。ただ押さえてどうにか出来る範囲を、遥かに超えている。
──万事休す、か。
諦めにも似た、冷たい絶望が心を覆い尽くそうとする。
それでも僕は、諦めることがどうしても出来なかった。
血に濡れて滑る指で、収納袋の隅から隅までを、何度も、何度も狂ったように探した。そうして、僕は見つけたんだ。本当に小さな、たった一つの希望を。
収納袋の奥底でとても丁寧に、綺麗に折りたたまれていた、アンリエッタさんの洋服を。陽の光をいっぱいに浴びたであろう、懐かしい、あの布の感触だった。
あの日の、忘れもしない夜のことだ。
父さんも、アンリエッタさんも、最後に残った母さんさえも居なくなった、がらんとしたコンスタンツェ家の館。そこで僕は、真っ暗な庭に干されたままになっていた、彼女の服を見つけた。
それをそのまま残し、雨風に晒され、やがて朽ちていくのは、僕の心情がどうしても許せなかった。それに、彼女を取り戻せた暁には、替えの洋服としても使えるかもしれない、と。
そんな、様々な想いを込めて、この収納袋へと大切に詰めたんだった。
彼女が使っていた、小さな裁縫道具と共に……。
僕は、その彼女の服をおもむろに取り出すと、一つ、また一つと、その小さなボタンを丁寧に取り外し、そこに結ばれていた糸を慎重に解いていく。
そうして集めた、長さの不揃いな糸で、僕は自らの傷口を、一針、また一針と縫い合わせていく。
これは、縫いやすい医療用の縫合針でもなければ、ましてや、縫合糸でもない。ただの、使い古された衣服の糸。その縫い目は、およそ元医師の仕事とは思えないほどに歪で「お前本当に医者だったのか?」と誰かに詰問されても仕方がないほどに、あまりにも無様な応急処置だった。
けれど、このアンリエッタさんの服から取った糸は、確かに僕の傷を塞ぎ、漏れ出る生命の雫を少しずつ、しかし、確実に堰き止めていく。
彼女は、その夜空のように美しい黒髪を目立たなくさせるためか、あるいは、それが元々の彼女の好みだったのか、黒い色合いの服を着ることが多かったように思う。
だからか、彼女の服から取った、僕の胸を裂き、死へと誘うこの傷を塞ぐこの糸もまた、やっぱり黒かったよ。
黒は不吉の色だって? 死の象徴?
はは……馬鹿らしい。そんな訳があるものか。
彼女を想わせるこの色は、僕にとっては何よりも温かい、希望の色そのものさ。
光り輝く、黄金色にさえ負けやしない。
朦朧とする意識の中、血と汗にまみれながら、僕はなんとか傷口の縫合を終える。
そして、残ったアンリエッタさんの服の生地を、父の形見の刀で、まるで包帯のように細長く切り裂き、自らの胴体をぐるりと何重にも巻き付けた。それから、左肩から脇へとたすき掛けのように固く縛り上げることで、不格好ながらも、縫合と圧迫止血を完了させた。
「貴女は……アンリエッタさんは、いなくなってしまっても、こうして、また僕を助けてくれるんだね……」
夜の帳が下りた、冷たい岩の窪みの中で、僕は一人ごちる。
最愛の、かけがえのないあの人がいなくなり、もう枯れ果てたと思っていたはずの僕の目から、熱い雫が、とめどなく頬を伝い落ちた。
それは、悲しみの涙ではない。
感謝と、そして、まだ生きている、生かされているというという実感からくる、温かい涙だったと思う。
この状態なら、仮にこのまま意識を失ったとて、すぐに出血多量で死んでしまうことはないだろう。この彼女の糸が、僕の命を繋いでくれているから……。
あとは、岩陰に忌まわしき魔物が迷い込んで来ないことを、ただひたすらに祈るだけ。
なにせ、ここまで追い込まれた状況ではなかった『二剣一華』の皆と戦った時でさえ、僕は最後に気を失ってしまっていたのだから。今のこの状態で、意識を保ち続けることの方が奇跡に近い。
それでも、今この極限状況で僕が使うべき魔法は、これしかないと思う。
敵中で気を失うのは、あまりにも危険すぎる。だから、一人でいる時には絶対に使わないようにと、マリーさんが僕の身を案じてくれた魔法。
僕の将来を本気で危惧して、ミレーユさん達に口止めしてくれた、あの神々しいまでの黄金の煌めき。
僕は初心に返るかのように、ゆっくりと丁寧に、魔力の流れに意識を沈めた。
足の指の先から、手の指の先まで。それこそ、血に濡れそぼった毛髪の一本一本先までも。このボロボロの体のありとあらゆる場所から、まだ僅かに残っているはずの魔力を探し求めて、必死にかき集めていく。
そうして集めた、なけなしの魔力。
正真正銘、これが、僕が放てる最後の一発になるだろう。
あの、黄金の煌めきを放ったが最後、僕は、間違いなく意識を失ってしまう。
もしかしたら、もう二度と、目を覚まさないかも知れない。
そう思うと、体の芯から震えが来るほど怖かった。
死ぬのが、と言うよりも、この暖かい世界と永遠に別たれてしまうことが、心の底から怖かったんだ。
「万物を照らす光よ、生命の煌めきよ、今、消えゆかんとする同胞の灯火に、慈悲と恵みの力を与え給え。砕けし骨、裂けし肉を癒し、失われし血潮を再び【ルクス・リヴァイヴ】」
座して、ただ死を待つわけにはいかない。
覚悟を持って唱えると、僕の体から眩く、どこまでも温かく力強い黄金色の光が、最後の生命の輝きのように迸り、真っ暗な岩窪を一瞬にして、真昼のように煌々と照らし出した。
ミレーユさんを死の淵から救った、あの奇跡の魔法『ルクス・リヴァイヴ』。その神々しいまでの輝きを、今度はこの僕自身の為に使う。
残存する魔力量、そしてこの致命的な傷の深さを考えれば、この魔法が完全に成功するかどうかは、正直、分からない。
それでも、僕は、この一縷の望みに、僕の全てを託し……たのだ。
……彼女の側に戻り……たい。
もう一度抱きしめた……い、抱きしめてほ……いよ。
もう……一度あい……たい……。
アン……リ……タ……ん。
薄れゆく意識の中、最後に僕の脳裏に浮かんだのは、やはり彼女の、あの黒曜の髪と、吸い込まれそうなほど美しい、蒼玉の瞳だった。




