第42話 萌芽
◆ ◆ ◆ ─ Anrietta side ─
ごしごしと、何度も、何度も、アンリエッタは自らの肌を擦り続ける。
石鹸の泡などとうに消え失せ、ただただ冷たい水が無情に流れ落ちるだけだというのに、彼女はその手を止めることが、どうしてもできなかった。
皮膚の奥深くに染みつき、こびり付いて剥がれないかのような、あの男の悍ましい感触を、その記憶ごと削り取るかのように。
見た者すべてが羨望のため息を漏らすに違いない、雪のように真っ白で、透き通るような肌が、声なき悲鳴をあげていた。
「上質な絹」と称されるほどにきめ細やかで、しっとりと潤いに満ちていたはずの極上の素肌は、アンリエッタ自身の執拗なまでの擦りによって赤く腫れ上がり、赤い斑点がぽつぽつと浮かび上がっては、水に流され消えてゆく……。
それでも、彼女は手を止めない。止めることなど、できない。
この程度の痛みなんて……あの時感じた、心が軋むような屈辱と、身を引き裂かれるような恐怖に比べれば、何でもなかったから。
あの男に、触れられた──あの忌まわしい手が、私の肌を這った!
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いッ……!
その、声なき絶叫が、誰もいない洗い場に満ちては消え、彼女の内に秘めた誇り高きエルフとしての矜持と、一人の女性としての尊厳を、少しずつ、しかし確実に打ち砕いていくようだった。
男に、卑しい欲望を湛えた手で直接肌をまさぐられるまで、気づけなかった自分自身も、彼女は許せなかった。フェリクスの残してくれた力で撃退できたとはいえ、あの瞬間の恐怖、肌に焼き付いて離れないおぞましい感触は、何度、どれだけ強く肌を擦り続けようとも、決して消えはしない。
その拭いきれない汚辱感は、やがて極致に至り、心の奥底に沈めていたはずの、別の苦い記憶の蓋をこじ開けることになる。
「人族の男などに、肌を許すとはな。お前の母の気が知れん」
脳裏に蘇るのは幼い頃に投げつけられた、同族からの氷のように冷たい言葉。純然たるエルフたちからの、侮蔑に満ちた視線。
「やめて、母様の悪口は、言わないでっ!」
幼い彼女の必死の叫びも虚しく、追い打ちをかけるように、嘲りの声が続く。
「黙れ、汚れた混じりものが!」
パァン、と乾いた音が弾け、小さな頬に、熱く、痛みが走った。
「うぅ、どうして……。どうして、そんなに私を嫌うの? 私が、一体、何をしたっていうの……?」
「はん、お前を嫌う理由なぞ、いくらでもあるわ。その存在自体が、我ら高貴なるエルフへの許されざる裏切りなのだということを知れ。それに、その色だ! 忌むべき闇色をその身に宿すなぞッ、断じて許せるものかッ!」
……私も、心の奥底では、あの者たちと同じように、人族の男性に触れられることを、本能的に忌避していたというの? 見下し、卑しめていた、と……?
だとしたら、私は……。私たち母娘を、あれほどまでに蔑み続けた、あのエルフたちと、何も変わらないじゃない……。そんな……。
荒れ狂う波に飲まれ、沈みかけた小舟にも似て。
ただ頼りなく漂うばかりだった私の意識は、ふと、遠い灯台が放つ、一条の微かな光を見つけたの。
その光に導かれるように、私の心は、コンスタンツェ家で過ごした、穏やかで懐かしい日々の記憶へと、ゆっくりとたどり着いた。
『アンリエッタさん、僕にも魔法を教えて!』
『ぼっちゃま、ご主人様に叱られてしまいますから』
『わかった、頑張ってみるよ』
『えええ、すごーい!』
我がことのように嬉しくて、年甲斐もなくはしゃぎ、庭でまだ小さかった、あの少年と抱き合って喜んだ……遠い日のことを……。
一生懸命に、脇目も振らず、ひたすらに努力し続ける、汗まみれの少年の姿。水浴び後の火照った彼の体を、何度も何度も、丁寧に拭いてあげたことを。
『アンリエッタさん!』
不意に呼ばれて振り向けば、そこには、いつの間にか頼もしく成長した彼がいて。リヨンの往来で人目も憚らずに、私をぎゅっと、力強く抱きしめてくれたこと……。
暖かい情景の数々が、次々と胸に溢れ出てくる。
それらの記憶が、色鮮やかに蘇るたび、胸の奥が、なんだかむず痒くて、心がチクチクと甘く痛みだすの。
どうしてかは、わからない。
でも、少しも嫌じゃなかった。それどころか、心が、温かいもので満たされていくのを、はっきりと感じていたことを、思い出した。
「あぁ……よかった」
ぽつりと、震える唇から、吐息のような声が漏れた。
「私は……私は、あの人たちと、同じじゃ、なかった……」
一人きりの洗い場で、アンリエッタは崩れるようにその場にへたり込む。
止まっていたはずの涙が、今度は違う種類の、安堵と、切ないほどの温かい熱を持って、彼女の美しい顎先から赤く腫れた胸へと、静かに伝い落ちていった。
彼女自身もまだ明確には気づいていない、あの少年への、特別な想いの萌芽を、そっと濡らしているかのように。
「……でも、もう会えない、の……」
◆ ◆ ◆ ─ Felix side ─
今日も一日の依頼を終え、汗と土埃にまみれた体を引きずるように、僕は冒険者ギルドの扉を押し開ける。
既に西の空は朱に染まり、リヨンのあちこちから夕餉の支度をする炊煙が細長く、どこか物悲しく立ち上る、そんな喧騒の只中だった。
ギルドホールは、一日の仕事を終えた冒険者たちの、汗と、エールと、そして、むせ返るような熱気で満ちている。
樽ジョッキのぶつかりあう音、その日の成果を大声で語り合う声、カウンターに押し寄せる人々の群れ。昼間とは比べ物にならないほどの喧騒に、僕は少しだけうんざりしながらも、人波をかき分けて査定窓口へと向かった。
「今日は混んでるからな、結果が出るまで少しかかるかもしれんぞ? いいか?」
「はい、お願いします。ホールで待ってますので」
リヨンへやってきた日から続くスクルさんとの短い、しかし、もうすっかり慣れたやり取り。
さて、査定が終わるまで、どうするか……。
今から受けて、すぐに終われそうな依頼は無さそうだし、マリーさんは、まだ仕事中なのだろう。気軽に話せそうにもない。
一人で、この喧騒の中にいるのは、どうにも落ち着かなかった。
部屋に上がって、装備の点検でもするか。
そんなことを考えながらホールから離れ、二階へと身を移そうとした僕の肩を、不意に背後から伸びてきた、ごつい手に、乱暴に掴まれた。
「おい、待てや、小僧」
その、不快な声には、聞き覚えがあった。
案の定、というべきか。いつか、こうなるだろうと、薄々感づいていたその日が、よりによって、今日このタイミングで訪れたらしい。
これは、面倒なことになった。
振り返った僕の前に、あの大勇者テリーを含む、普段からマリーさんに執拗に絡む連中が、人を小馬鹿にしたような、にやにやと下卑た笑みを浮かべて、立ちはだかる。
たぶん、意図的にやっているのだろう。
マリーさんたち職員がいるカウンターからは死角になる位置へと巧みに誘導し、いつの間にか、その周囲を仲間らしき男たちで固め、半包囲のような人の壁を作り上げていた。
やれやれ、この僕が、いちいちマリーさんに泣きつくような、か弱い男だとでも思われているなら、それは少々心外だな。
……いや、待てよ。そう思ったのも束の間、よくよく考えてみれば、彼女が休みの日に助けてもらったことは二度や三度ではきかないし、仕事が欲しくて懇願したことだってある。
うーん、あながち間違ってはいないのかもしれない……。
僕が、そんな自問自答の末に一人で苦笑したのが、彼らの目には僕の余裕と映ったのか、はたまた、僕の存在そのものが元々気に入らないのか、テリーが吐き捨てるように言った。
「おい、テメェ、いい加減に表へ出ろや」
僕の肩を掴み、半ば強引にギルドの外へ連れ出そうとする。
さすが異世界というか、何というか。まるで、昭和の不良ドラマじゃないか。
「何か御用ですか? 僕は査定の受け取りもありますし、これから装備の点検もしたいので、色々と忙しいのですが」
できる限り面倒事は避けたい。僕は努めて事務的な口調で答える(マリーさん直伝?)。疲れ果てている時に絡まれるなんて、億劫以外の何物でもない。
正直、勘弁してほしいよ。
「へっ、アンさんとベタベタするのに忙しいってか? ああ?」
取り巻きの一人が喚くと共に、強烈な酒の臭いが鼻をつき、思わず顔をしかめてしまう。この時間からこんなに飲んでいるとは、こいつら、まともに依頼も受けていないのだろうか? 全く、気楽な身分なことだ。
「アンさーん助けてぇ、ってか。ゲラゲラゲラ!」
下品な笑い声が、僕の我慢の限界を試すみたいに、耳を劈く。
さっきから、人の神経を逆撫でするようなことばかり……。
本気で腹が立ってきた。だけど、こんな救いようのないアホ共のせいで、喧嘩両成敗などという、理不尽極まりない罰を喰らうのは避けたい。
あまりにも、馬鹿らしい。
数日とはいえ、依頼受注停止処分など喰らったら、僕の計画は、それこそ、目も当てられない事態に陥るのだから。
そんな僕の心情の変化を読み取ったのか、それとも、単に煽りたいだけなのか。勇者テリーが、僕の肩を馴れ馴れしく、しかし明確な敵意を込めて、ポンポンと叩く。
「お前、最近ずいぶんと調子に乗ってるらしいじゃねえか。ギルドに来たばかりの新人だってのに、俺のアンに色目使って、あまつさえ『マリー』呼びたぁ、一体どういう了見だ? ああ? 説明してもらおうじゃねえか」
「そうだそうだ!」
「おこがましいとは思わんのか!」
取り巻きたちが、待ってましたとばかりに囃し立てる。
はぁ……一体いつから、マリーさんはお前のモノになったんだ?
お前たちの脳みそは、ゴブリン以下なのか?
「僕は彼女の許可を得て、そう呼ばせていただいているだけです。それに、色目を使った覚えなどありません。勘違いなさらないでください。どうしてもそう呼びたいなら、貴方たちも、彼女に直接、許可を得ればいいじゃないですか」
「んだと、コラァ! この、生意気なクソガキが!」
僕の冷静で毅然とした(最後に少しだけ煽ったかもしれない)反論は、逆に、彼の堪忍袋の緒を、見事に断ち切ってしまったらしい。
彼の顔がみるみるうちに怒りで赤黒く染まっていく。周囲の空気も、一触即発と言わんばかりに張り詰め、殺気にも似た険悪なものへと変わっていった。
「問答無用だ! 死ねや、クソガキが!」
逆上した勇者(笑)テリーが、腰に差していた剣を鞘走らせ、その、手入れもされていない、鈍く錆びた剣先を、僕の喉元へと突きつけてきた。
冒険者同士の私闘は、ご法度のはずでは!?
こいつ、本気か!?




