第2話 ボクちゃん
鏡を見た瞬間、思わず息を飲んでしまう。
そこに映るは、見慣れない金髪碧眼の美少年だったから。あまりに整ったその顔立ちはどこか現実離れしていて、映像かと疑ってしまったほど。
試しに、その表面をそっと指でなぞってみる。指には、ひんやりとした硬い感触。見れば縁には細かな植物模様の彫金が施されていて、どう見ても質の良い鏡にしか見えなかった……。
それにしても、この鏡に映る少年は──可愛らしい美男子という言葉がまさにぴったり。 試しに自分の頬に触れてみると、指先に伝わるのは瑞々しいほどの弾力で、疲れ切った三十代の肌とは、明らかに違う感触だった。
「これが、俺……? 一体どういうこと、だ……?」
訳のわからなさに頭が混乱し、眩暈すら覚える。
そのうえ鏡の中の可愛らしい自分の姿は、妙に心までも落ち着かなくさせる。
胸のざわつきが収まらない。ええい、パニックに陥っている場合ではない。
「いや、待てよ。まさか……」
男性として最も重要な……アイツの安否が気になった。
もし、アイツを失ったら俺は、どうすればいい?
……いや、それはないさ。
前世では結局、一度もその真価を発揮する機会に恵まれなかった相棒に、今世では最初から存在すら許さないなんて、そんな悲劇があっていいはずがない! 神がいるなら、そんな無慈悲な仕打ちは絶対にしない。
それでもするというのなら、俺は本気で神をも呪う。
「ええい、ままよ!」
──覚悟を決め、そっとズボンのベルトに手を伸ばす。
おもむろにズボンを下ろすと、細くて長い息を吐いた。
あぁそうだよ、見るのが怖いんだ……。悪いかよ。泣くぞ?
下着を下ろしたままの、情けない姿でいる訳にもいかず、意を決して視線を下ろすと(ゴクリ)……そこには確かに相棒がいたよ。随分と小さくなって、頼りない姿に変わり果てた姿のアイツが、所在なさげに鎮座してたさ。チンなだけに……って?
そも、この体は子供なのだから当然か、と自分に言い聞かせはするも、変わり果てた姿にしばし言葉を失ってしまう。
それよりもこれからだ、これからどうする。
相棒はそのうち成長するから、この際どうでもいいとして……。
出来れば元の世界に帰りたいけど、戻る方法なんてあるの、か?
その扉を開けたら元の世界でした。そんなこと、ある訳がないとわかってはいても、ほんの少しだけ、淡い期待と共にその扉を開けてみる。
くっ、取っ手がやけに高い。
はぁ。やはり今の俺は……子供なんだな。
ガチャ、ギギィ──。
重い木の扉が軋む音を立てて開く。恐る恐る扉の隙間から様子を窺うと、部屋と同じような古い洋風造りの廊下が広がっていた。壁には等間隔に燭台が掛けられているが、今は火が灯されていない。先ほどの部屋もそうだけど、現代にしては妙に作りが古めかしい。良く言えばアンティークな造りに一抹の不安を覚えてしまう。
やはり通じていなかったか……。残念すぎる結果に大きく肩を落として、斜めに差し込んだ光が床に格子模様を描く廊下をとぼとぼと歩く。するとコツ、コツと小さな足音が近づいてきた。
「ぼっちゃま、どうされましたか?」
声をかけられ、思わずドキリとした。
そりゃそうか、記憶喪失? の子供が一人で歩けばこうなるよな。
「まだ無理はせず、お休みになられませんと」
心配そうな表情で近づいてくるメイドさんに、元の世界に戻る方法を探してたと言えない俺は、こう答えるのが精一杯。
「何もかも覚えていないんだ、だから冒険してたんだ」
「──まぁ、では私がご案内して差し上げましょう。小さな勇者様」
そんな自分に、憐れむでもなく、ただ悪戯っぽく笑うメイドのお姉さん。
あれ? このメイドさんって、さっきの女性だよね?
こんなにも綺麗な人だったのか……それに、なんて素敵な振る舞いだろう。この美しくも素晴らしい対応の女性が俄然気になってしまい、心がギュンギュンと弾みだす。そう、こういう人と仲良くなりたかったんだよ。
このお姉さんは名を何というのだろう、知りたい!
俺のスペシャルな好奇心が、俺史上初めて火を噴いた。
「お姉さん、お名前を教えていただけませんか?」
「わたくしですか?」
「ええ」
「私はアンリエッタと申します。以後よろしくおねがいしますね」
名乗りを終えると、彼女はまたニコリと微笑む。
『本当は知ってるくせに』と思われても仕方がない状況で、医者が言った言葉を信じてか、ちゃんと名乗ってくれるんだぜ? 素敵がすぎるってもんよっ。
それからは、アンリエッタさんと二人で館を隅々まで探検したね。食堂には、使い込まれて艶の出た大きなテーブルと、揃いの頑丈そうな椅子が並び、すぐ隣の居間の壁にはなんと煉瓦で組まれた立派な暖炉が! 深緑色のベルベット生地で覆われた、体が沈み込むほどふかふかなソファがとても気持ちよさそう。
手洗いを含めた、ひとまず生活に必要な場所も、併せて知ることができ一安心。
「このお部屋は書斎でございます。ご主人様が在宅の時は、ここでよくお仕事や調べものをなされてますよ」
扉を少しだけ開けて、中を覗かせてくれる彼女。一際目を引く大きな棚には、よく整理された書類のようなものと、革で装丁された重厚な本が数冊並んでいる。奥の大きな机の上にはインク壺と羽ペンが見えた。
ふぅ。どうやら先ほどの男性はいないようで、ちょっと一安心。
しかし、暖炉に羽ペンか……。本の革装丁や箔押しも気になる。それに、どうやら電気も無さそうだぞ? 文明レベルは中世あたりといったところか……。
「へぇ、なんだか難しそうな本が並んでるね」
「旦那様が大切にされている本ばかりです」
アンリエッタさんは、優しく微笑みながらそう言った。
「アンリエッタさん、色々とありがとう」
「どういたしまして。冒険したくなったら、またお誘いくださいね。私も、またご一緒できるのを楽しみにしています」
こんなにも綺麗で優しくて、受け答えまでも素晴らしいお姉さんと別れるのは名残惜しいけど……よくよく考えると、彼女はこの館で働いていたはず。なんだ、またすぐに会えるじゃないか。
部屋に戻ってベッドで横になった俺は、改めて先ほどの探検に思いを馳せた。
初めて彼女を見た時は、訳の分からない状況に気が動転してしまい気づかなかったけど、落ち着いた今ならわかる。アンリエッタさんは美しかった。なんと説明すればいい? 彼女は、俺と同じ人間とは思えないほど美しいんだよ。わかる? あんな綺麗な人は大学や職場にも誰一人としていなかった。
黒く輝く、艶やかな長髪はまるで黒曜石のようで、その奥に蒼く輝く瞳は、サファイアを連想させるほど美しく煌めく。肌は雪のように白くて、触れると溶けてしまいそうだった。ぷっ、まるで売れない小説家みたいだな。
あれ? ちょっと待てよ。
そういえば……耳が、尖っていたような……?
アニメ好きの同僚が熱く、いや、うざったいほど語っていたのを思い出す……。彼女のように美しくて、耳が尖ってる人を表す言葉があったはずなんだ。エ、エ、エロフ? こんなにも人に言い辛いネーミングだったか? 何かが違う気がする。
駄目だ、思い出せない。まぁいいか、いずれ本人に直接聞けばわかることさ。
とりあえずだ、異世界転生なぞありえん! 今すぐ帰せ! と思っていたけど、アンリエッタさんに免じて少し猶予してやる。
さて、今すぐ元の世界に戻る方法がないのであれば、方法が見つかるまで、この世界で生きていかねばならない。なぜか言葉だけは理解できるが、文字がさっぱりなのは非常にマズい。
転生って、もっと何かこう、すごい恩恵とか能力を貰えるのではないのか?
疑問に思った俺は、シュッシュッとボクサーのように、空に拳を放ってみたけど普通に子供のそれだった。正真正銘のヘナヘナパンチ。
「うーん……」
悩んだところで、このボクちゃんボディには強さの欠片もありはしないし、異世界お決まりの「ステータス」と呟いてみても、何の変化もない。それどころか、文字の読み書きすらできないときたもんだ。ただでうまい話などないのは、どこの世界も同じ……か。
能力云々より切実なのは、価値観や常識の欠落かもしれない。
これらを理解していないのは非常に危険だ。元の世界でもあったろ? ヌード雑誌を持ち込んだら逮捕とか、酒を飲んだら死刑とか、未婚の女性とハグをして鞭打ち百回の刑を言い渡されたサッカー選手もいたはず。
それらが悪いと言いたいのではなく、国や地域、そこで暮らす人々が変われば価値観や常識、社会通念に倫理観はそれこそ千差万別だ。
元の世界では『親切』とされていた行為が、この世界では『迷惑』や『侮辱》』にあたる可能性だってある訳で……。
ああ、ややこしい。
そんなことをグルグルと考えていたら、なんだか眠くなってきたよ。
ボクちゃんボディのせいかな?
今日はもう寝よう。おやすみ、アンリエッタさん……。
厚いカーテンが引かれた窓の外からは時折、風の音か、あるいは遠くで何かの鳴く声が聞こえる。ふかふかのベッドに身を沈め、彼女との探検を思い浮かべながら、次第に重くなる瞼に身を任せた。




