第10話 母さんっ!
異世界へ渡りて幾星霜。
日々青年へと近づきしは我が身かな。
されど、その意を知るや
引き替えて、をとこの夢の潰ゆる定めなるぞ……。
『湯と女』著フェリクス・コンスタンツェ
揺れる灯具の灯りが、父さんから借りた本をぼんやりと照らしている。窓の外は星すら見えない完全な闇。しん、と静まり返った部屋に、僕の溜息だけが小さく響く。
「はぁ、疲れた。集中していたらもうこんな時間か。外は真っ暗じゃないか……」
凝り固まった首筋をさすり、目頭を指で押さえる。残された片方の手でぐっと伸びをすると、使い込んだ椅子がギシッと音を立てた。どうして伸びはこんなに気持ちがいいのだろう。
「……湯に浸かりたいなぁ」
ぽつりと漏れた言葉は、気持ちよさの連想か。はたまた身体が芯から休息を求めているのか。理由はともかく、今、無性に温かい湯が恋しい。
多忙だった前世では、風呂はシャワーで済ますだけの単なる作業だった。湯にゆっくり浸かるなんて嗜みとは無縁で、ただ体を清潔に保つだけの手段でしかない。
けれど、手に入らないとなると、無性に欲するのが人の性というものだろう。だからこそ、どうしようもなく追いかけてしまう。
洗い場にあるのは、大きな瓶に溜めた湯だけ。あれに全身を沈めるのは、成長著しい今の僕には少々窮屈。どうすれば、あの心地よさを再現できるだろうか。
いっそ、何もない空間に直接、温かい湯を生み出せば……。しかし、それを入れる器がない。
ぶつぶつと独り呟きながら、洗い場へと向かった。
気もそぞろに、脱衣所の扉を開ける。年季の入った木の棚には、いつものタオル……ではなく、女性ものの衣服が畳まれていた。壁の灯具は頼りなく揺れ、あたりには湿った空気と、湯気と共に立ち上る微かな薬草の優しい香りが漂うばかり。
この、あまりにも分かりやすい状況すら、思案に耽る僕は気づかなかったのだ。
「……畳まれた、女性の服だ、と?」
その瞬間、耳が洗い場の奥から聞こえる水音をキャッチした。
ピチャ、ザザーッ──
誰かいる。しかもこの時間に女性がだ。
僕のスーパーコンピューターが、猛烈な勢いで処理を実行してゆく。
父さん? いや、もう入浴は済ませているのを見た。──────ブブー×
じゃあ母さんが? いつもならとっくに済ませている時間だ。──ブブー×
オデット婆さんが入るには、この時間は遅すぎる。───────ブブー×
ならもう、弾き出される答えは一つしかないじゃないか。
中にいるのは、僕が焦がれてやまないあの女性なの、か? ──ピコーン〇
なぁ。随分と前、彼女の手料理が叶わなかったあの日。その代案として『湯浴みを一緒に』と言えず後悔した日々を覚えているか? 神は我を見捨ててはいなかったぞ。幸いまだ毛は生えていない! ギリギリ許される年齢のはず! そうだろう?
行け、フェリクス。忌まわしい記憶と共に。
勇気を振り絞るのは今だ。おい、何をしている。なぜ動かん!
その扉一枚先に、湯気に濡れたアンリエッタさんが……想像しただけで眩暈がしそうな光景が待っているというのにいいい。
もし拒否されたら? 想像すると背筋が凍るよ。
彼女が驚き、悲鳴をあげたら? 進めない理由なんて山のように出てくる。
あの優しい手が、拒絶の平手打ちに変わったら、僕の心は砕け散ってしまう。
そんなのはまだいい。真に恐ろしいのは彼女に本気で嫌われることだ。その可能性を考えると、体が鉛のように重くなって、一歩も足が出ない。
見たい。彼女の誰も知らない姿を──
でも怖い。想いが強いからこそ臆病にもなる。ことは、そう単純じゃない。
『ふん……小僧。逡巡している暇があるのか? 停滞は罪であるぞ』
また心の声がする。もう一人の、やけに偉そうなフェリクス。
──通称・クロックスが囁く。
『人類はいつだって困難をその叡智と勇気で乗り越えてきた。お前は違うのか?』
うるさい! スリッパみたいな名前のくせに!
『扉を開けろ。そこに夢はある!』
ぐっ……、くぅぅぅ。
思考の泥濘で身動きが取れないでいるうちに、無情にも時は過ぎ、中の人物の方から、ギィと重々しい音を立て扉が開かれてしまう。
『あわわわ、ちょ、ちょっと待って。まだ心の準備が』
ごめんアンリエッタさん。こんな形で見ちゃいけないよね。
僕は固く目を閉じ、精一杯彼女を守ったんだ。
何から? いや……僕から……。何を言ってるんだお前は。
あれ? おかしいぞ? 悲鳴や怒声が聞こえてこない。
非難めいた空気すら……。
おそるおそる、薄目を開けて状況を確認すると、目の前に立っていたのは薄い湯浴み着を纏い、ほんのり肌を上気させたママンがいて、ビックリおめめ仰天。
こういう時の不運は続くんだよね~。僕知ってる~。アハハハハァ。
「奥様、お着替えをお持ちしました。お開けしますね」
ガチャ、ギギィ──
こういうのを『前門の虎、後門の狼』っていうんだぜ?
良い子のみんな、覚えておくといい。
前に湯上りママン。後ろにはタイミング最悪のマイハニー。穴があったら入りたい、いや、もう自分で掘るから誰かスコップを貸してくれないか。はよう!
「あらあら、ぼっちゃま。ごめんなさい。奥様と入浴されるところだったのですね」
「ち、ちがっ」
ちがーう。それが最も避けたかった誤解なのに。
僕の否定もなんのその、母さんの瞳が怪しく光る。
「まあ、嬉しいわ。一緒に湯浴みなんて何年ぶりかしら? さあいらっしゃいフェリクス」
有無を言わせぬ笑顔が怖い!
「もう出るとこでしょうが、母さん!」
「あーら、いいじゃないの。丁度いまから、もう一度温まろうと思ってたところよ」
母さんは力強く僕の腕を掴むと、ズルズルと僕を引きずり湯の入った大きな瓶へと向かう。ちょ、なんでこんなに力が強いの? 助けて父さーん。
「ごゆっくり」
バタン、と背後で無情にも閉ざされた扉。
よりによって、アンリエッタさんの手でだなんて。
こんな理不尽なことがあってたまるか!
こんなバカなことがあっていいのかあああ。
湯上りの火照った体で、居間の長椅子にぐったりともたれる僕。
余計に疲れたよ。はぁ、しんど。
「ふぅ、汗が止まらないわ」
そりゃ、母さんは連続で入ってるから暑いでしょうよ。
「奥様もぼっちゃまも、冷たいお水をどうぞ。それで、久しぶりの親子水入らず。如何でしたか?」
「アンリエッタさんありがとう。久しぶりに可愛い息子と入浴できて幸せだったわぁ。知らず知らずのうちに、子供って大きくなっているものねえ」
なんなんだ、この公開処刑のような会話は。 いつまで続くんだ。
僕はむすっと口を引き結び、そっぽを向く。
「この子ったら、ずっとこんな感じなのよ? もう」
「まぁ、うふふ」
「それにしても、アンリエッタさんには素直なのにねえ。困った息子だこと。反抗期なのかしら」
「そうでしょうか? ぼっちゃまは恥ずかしかったのかも……」
気配でわかる。アンリエッタさんがこちらを向いた。きっとあの悪戯っぽい、それでいてドキリとするような笑みを浮かべているに違いない。わかっている。アレは見てはいけない、甘美で危険極まりないモノ。
早くこの場から逃げ出して、部屋に閉じこもりたい。ここは魔窟だよ。
……ふぅ。ようやく解放され、自室のベッドに倒れ込む。
あの時、もし本当にアンリエッタさんが入っていたら? そんな『もしも』の空想が、僕の中に燻る彼女への懸想を、どうしようもなく掻き立て止まらない。
アンリエッタさん──その容姿は際立って美しい。
黒く長い髪は艶やかに煌めきを放ち、まるで凪いだ湖面の様に優しく穏やか。
そして、その黒髪と鮮やかな対比をなす、雪のように白い肌。この黒と白のコントラストが、彼女の神秘的な魅力を際立たせている。
そんな彼女の瞳は、覗き込む者を捕らえて離さないような、深い蒼玉の輝き。
澄み切った蒼玉は、星々の輝きを閉じ込めたようで、いつまでも見つめていたくなる。……実際は、見続けると彼女に気づかれてしまうから、長く見つめられないのが残念でならない。
引き締まったウエストから、女性らしい柔らかな曲線を描く腰つき。華奢に見えて貧相ではない、しなやかで均整のとれた肢体。その全てが、奇跡的な調和で成り立っている。神が精魂込めて創り上げた芸術品、とでも言うべきだろう! 白熱してきたぞ! うおおお。もっと語らせろ。
敢えて言うなら、胸のふくらみだけが少し控えめかもしれない。ボソボソ……。
だが、それすらも神の計算の内ではないのか? ……彼女の持つ繊細な雰囲気によく似合っているのでは? 違うか?
うん、あれでいい! さすが神だ、いい仕事する。
でもね、彼女の本当の素晴らしさは、その類まれな容姿ですら、彼女という存在のほんの一面に過ぎないところだよ。
アンリエッタさんはいつだって優しく隣に寄り添って、静かに肯定してくれる。慎み慈しみ深く僕を包んでくれて、その行動や言動に一切の嫌味が無い。稀にポンコツで意地悪だけど……。
彼女がいつも後押ししてくれるから、僕は頑張れるのさ。
やる気にさせる名人だよ、ホント。
認めたくなかったけど、もうこれ以上自分に嘘はつけない。
神様ありがとう。こんなにも素晴らしい女性と巡り合わせてくれて。僕の中で、彼女という存在は日に日に大きく、かけがえのないものとなって。もうこの想いを抑えることなどできはしない。
そうそう神様。チートとか、何もないけど恨んでないよ。
スキルを奪えたり、ステータスが見れたり、無限収納とか貰える方もいるそうですね(ビキビキ)。羨ましいとは思うけど僕は恨んでいません。なぜなら、その代わり最も望んでた女性と過ごせてるから。
字すら自己努力かよ! とは思ったけど怒ってませんから。
字を教わる時はアンリエッタさんが凄く近くて、逆にご褒美でした。
あとがき
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どうぞ皆さま、応援よろしくお願いいたします。
──神崎 水花




