088 TRADEMARK めじるし
オレリアスの退位式が、近づいてきたと同時に、グレイド邸に居候を決め込んでいたエミールが、旅立つことを告げた。
「私は開店準備に出立するよ」
「温泉宿? 本気だったんですか?」
「のんびりとした余生を送るには、温泉が一番だろ。アレルギー用の素材も色々揃えられたしな。残りは採取」
エミールは、新しく手に入れたらしい、魔導灯付き杖を北へ向ける。
「国境近くの北の高地に、そこそこ良い場所があるらしい」
「それって……」
エミールは、唇を釣り上げて笑う。
ルクスは、フェルギスの民として認定を受け、王立魔術研究所の嘱託研究員に就くことが決まった。
身元引受人はリーグベルだった。
「僕、頑張ります!」
「ルクス、落ち着いてください」
シェルダンが苦笑する。
「いやあエミール様の魔道具を研究できるこんな素晴らしい機会は――」
「あの方は、もう出発されましたよ」
「追いかけます! 休暇ごとに! なんせ信奉者なんで」
「それは、ご迷惑では……」
「それで、そっちの兄ちゃんはどうする?」
リーグベルの問いにシェルダンは、懊悩を滲ませる。
「私は……カーネリアに戻るべきなのか、それともここに留まるべきなのか、悩ましいです……一番は、償いを。私が関わった研究が、多くの人を苦しめました」
「んー、なら、その償いができる場所に行けばいいんじゃねえの?」
気軽にかけられた言葉に、シェルダンは瞠目しリーグベルを見つめ返し、それから研究所の室内をゆっくりと見渡した。
「償いができる場所……そうですね……許されるなら、カーネリアに戻ろうと思います。ゼルキオン様を手伝い、魔導院を改革するお手伝いをさせていただけるなら」
一週間後に、オレリアスの退位式と新王の即位式が静かに執り行われた。
招待客も居ない、簡素で、あくまでも儀礼的な式だ。
式典が終わると、オレリアスは私服に着替え、小さな荷物を持って、商人用の通用門から王宮を出る。
「陛下……いえ、オレリアス様」
グレイドが、感極まった声で呼びかけた。
「長い間、お疲れ様でした」
「お前には、世話になった。老いぼれの我儘を許せ」
「これから、どちらへ?」
「北だ」
オレリアスは、雲行きの怪しい空を見上げた。
「旧知が、温泉宿を開くらしい。押しかけてやろうと思う。あいつ私の顔を見て舌打ち一つだけ寄越したのよ」
「エミール殿ですか」
「説教しにいくつもりだ」
オレリアスは、心の底から愉快そうに笑った。
「たまには、誰かに叱られるのもいいものだ」
王都の外門に、見送りにきたのはユウだった。
「オレリアス様、お元気で」
「ユウ殿。貴女も、エオルトリアに戻るのだろう?」
「はい」
「ならば、いずれまた会うかもしれんな。エミールの宿で」
「その時は、美味しいお茶を淹れます! 美味しいパンも焼けますよ!」
「楽しみにしている」
オレリアスは、ユウの頭に軽く手を置いた。
「ロシュディを、頼むぞ」
「え?」
「あいつは、不器用だ。一人で全てを背負おうとする。だから時々、思い出してやってくれ。あいつにも、茶を淹れてくれる誰かが必要だということを」
馬に乗ってユウより一足先に王都を後にしたオレリアスの背中は、もう王のそれではなく、ただ自由を得た一人の男のものだった。
ユウは、その姿が見えなくなるまで見送り続けた。
それから数日、王都は戴冠式の準備に追われた。
ロシュディは、連日の会議と式典の練習に疲弊していた。
「……こんなに、面倒なものだったのか」
新宰相となったグレイドが、資料の束を持って現れる。
「殿下、こちらが明日の式次第です。それから、招待状の返信リスト、警備配置図、そして――」
「待て、グレイド。少し休憩を」
「休憩? しかし、式典まであと三日しか――」
「だからこそ、休憩が必要だ」
ロシュディは立ち上がり、窓を開けた。
外からは、準備に奔走する人々の声が聞こえる。
その中には相変わらずルネのねじの外れた言動や、叱責するディエゴの声も混じっている。なぜかアルジェントまで忙しそうに走り回っており、胡乱な目でそれらを眺めた。
「……賑やかだな」
「ええ。皆、殿下の戴冠を心待ちにしています」
その頃、ユウはグレイド邸の客間で最後の荷造りをしていた。
「これで……全部かな」
薬草、道具、着替え、杖。
アイテムポーチにすべて収納してしまえるため、持ち物は、少ない。
ロゼ夫人が、瞳に涙を湛えながら部屋を訪れ、ユウに縋りつく。
「ほ、本当に戴冠式を見ずにお帰りになるの?」
「人混みが苦手なんで」
「でも、ロシュディ殿下に……殿下とは、ちゃんとお話したんですかっ」
「お話……したかな……」
ユウは、曖昧に濁しそれからとびきりの笑顔を作る。
「きっとまた、会えると思います」
何か言いたげだった夫人は、やがて諦めたように肩を落とした。
「……そうですか。なら、せめて見送らせてください。王都の可愛い物、美味しい物、たくさん詰め合わせるんで、高地でも流行らせてください!」
「高地は正直……人殆ど住んで無いんで……でも、交易都市テンシアに寄るので、お土産一緒に考えて貰っていいですか!?」
「もちろんですわ!」
翌朝、ユウは静かに王都を出た。
見送りに来たのは、リーグベルとグレイドとその夫人だけ。
「ロシュディ殿下には、伝えますか?」
グレイドが尋ねる。
「いえ、いいです。今は、式典の準備で忙しいでしょうから」
「しかし――」
「大丈夫ですよ」
会いたい。
でも、会えば、きっと言葉にしてしまう。
まだ、言葉にしてはいけない想いを。
ユウは、北へ向かって歩き出した。
まず、テンシアを目指す。
帰りの旅路は、商会のカイと一緒だ。
奇跡的に古びた結界を維持し続けていたテンシアの街に、大きな被害は無かったという。大街道は修繕が急がれているものの、損壊している箇所がまだ多く、彼女たちの旅路は幾度となく足止めされるだろう。
けれど、急がなくても良い。急がなければいけない理由が無いのだから。
そんな報告を受けたロシュディは、王宮の窓辺に佇んでいた。
小姓姿に変化している神獣黒龍アルジェントは、傍らの手摺りに片膝を立て座っている。
「……行ってしまうのう」
呟くアルジェントの声は、寂しげだった。
「お前、かなり気に入ってるな? ユウの事」
「あれくらい魔力量が強いと、ワシの腹持ちがいいからのう」
「喰ってるのか!? 魔力」
「おすそ分けというやつじゃよ、駄々洩れしとる魔力の再利用じゃろ。感知されぬよう制御するといった小手先の技は教えなんだ。目印になるしの」
威張るように胸を反らすアルジェントの横顔を、ロシュディは呆れたように見下ろす。
「だからといって、魔核に喰らいつくのは悪食過ぎる」
「あれは流石に不味かったの」
追わなかった。追えなかった。それが彼女の選択だから。
「……いつか、また会おう。ユウ」
窓を閉じる音だけが響いた。
戴冠式まで、あと二日。




