083 TESTIMONY 証言
森の入り口に差し掛かったとき、エミールは不意に立ち止まった。
「おや、もう着いたようだね」
彼女が指差す先、鬱蒼とした木々の影の中に、二つの人影があった。
一人は、元は豪華だったのだろうが、今は泥と裂け目で満身創痍の衣を纏った若き女性が、地面に座り込み、荒い息を繰り返している。
髪は乱れ、顔は土埃に塗れている。
彼女の姿は、何日もまともな食事も睡眠もとっていない、過酷な逃亡の末に、ようやくこの地に辿り着いた、限界の旅人にしか見えなかった。
その女性のそばには、同じく汚れで色褪せた制服らしき服を身につけた壮年の男が、力なく膝をつき、背後の木々を警戒しながらも、もはや立ち上がる気力もない様子で剣を杖代わりにしていた。
絶望的な疲労と諦めが、その場全体を支配している。
女性は、自らの命の炎が消えかける寸前のように、小さな木箱を抱きしめている。だが、その肉体の疲弊とは裏腹に、女性から発せられる魔力の奔流は、周囲の空気を歪ませるほど強大だった。
その光景を見たルクスとシェルダンは、僅かに目を見開き、そして深く息を飲んだ。
彼等は元カーネリアに所属していた人間だ。
男の纏っている制服には見覚えがある。
「まさか……」
シェルダンはかすかに呟いた。
「……アーディナ王女殿下……」
その瞬間、膝をついていた壮年の魔導士は、小さく舌打ちをした。
エミールは無機質な瞳で、護衛の男を一瞥し、片手を軽く振る。
「言っておくが、こちらは四人全員、術師だよ」
その声は、優しく響いたが、周囲の空気を一瞬で凍らせるほどの重みを持っていた。
護衛の男は、目の前に現れた異様な集団に戸惑い、警戒心を露わにするが、疲労で身動きが取れない。
次の瞬間、エミールは何らかの魔術を行使した。
ルクスやシェルダンですら知覚できないほどの一瞬の出来事だったが、結果は明確。
彼の足元の砂が、瞬く間に凍りつき、氷の杭に繋がれたかのように、ぴくりとも動けなくなる。そして、凍りついた護衛の男を背に、エミールは地面に座り込んでいる女性を一瞥し、それからユウ達に声を掛けた。
「さーて、ここから先はあんた達の出番だろ。年寄りが授けるのは切っ掛けとちょっとした経験談だけだよ」
最初に動いたのは、シェルダンである。
彼は最上位の礼をとり、その場に膝を立て座り、ゆっくりとした言葉運びで言った。
「私は、かつて、第二研究所に所属していた魔導士です」
目の前の女性は、地に視線を落としたまま微動だにしない。
「――――貴方が、魔導士だと言うなら……尚更、これを……渡すことは、できません」
彼女は声を絞り出し、木箱を抱き締める腕に、残る力がすべて籠められた。
「アーディナ王女殿下、私は、かつてと言ったのです。今の私は……祖国カーネリアより離反しただの流浪の身です」
「え? 王女さまなの?」
場違いな声を思わずあげたユウの横で、エミールは楽しげに首を傾げ、耳打ちする。
「この子を保護してやるか、それとも原因ごと排除するか。あんたが決めなユウ」
ユウは、絶望した王女と、氷のように静かなエミールの瞳を見比べ――言葉を探した。
「うーん……そうですね……こういう時は、まず保温と水分、それから塩分でしょうか」
いっそ気軽に告げられた言葉に、エミールは声を上げて笑い、場に結界を放った。
ユウは、当然のような顔をして、防水加工された布を、震える女性の肩に巻き付けた。そして、幾日かの旅の共であるルクスは、ユウの考えを汲み取り、近場にあった石を集め、竈を即席で組み始めた。
「味噌もチューブ生姜もあれば話は早いんですけど……ないものねだりは私の主義じゃないし」
ユウは独り言のように呟きながら、手際よく一人で作業を進めていく。
鍋の中身は、日本の家庭料理とは程遠い、この世界の無骨な食材たち。
携帯保存食である石のように硬い干し肉を削り入れ、森で採取した木の実を石ですり潰して投入する。この実は脂肪分が豊富で、煮込むとミルクのように白濁し、独特のコクが出るのだ。
そこに、ピリッとした辛味を持つレイザークという根菜の薄切りを加える。
テンシアギルドに薬師として登録し、地道に依頼をこなしてきた成果である。レイザークは、ユウの知る生姜の代用となり、体を芯から温める。
立ち上る湯気と共に、クリーミーで野性味あふれる香りが森の冷気を侵食していった。
呆然と座り込んでいた女性、アーディナ王女の鼻が、ひくりと動く。
畏怖と絶望を背負っていた護衛の男も、食い入るように鍋を見つめている。
ユウは木製の携帯カップに注いだその液体を、二人に差し出した。
「どうぞ。見た目はちょっとアレですけど、滋養はあります。胃が驚かないように、少しずつ飲んでくださいね。私達も夜ご飯しちゃいましょ折角ですし」
アーディナは、恐る恐るそのカップを受け取った。
泥と脂で汚れた手と、白濁したスープの対比が痛々しい。
口をつける。
木の実の濃厚な脂質と塩気、そして根菜の熱さが、凍えきった内臓に染み渡る。
「……ぁ……」
それは、洗練された宮廷料理とは似ても似つかない、粗野な味だった。
しかし、数日間、恐怖と飢えに苛まれた彼女にとって、それは命を繋ぎ止める楔の味がした。
体内で熱が生まれ、枯渇していた魔力回路が、物理的なカロリー摂取によって軋みながらも再起動する。
その様子を見ていたエミールが、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「年寄り臭い味だけど、効率は悪くないね。あたしは味噌スープも飲みたいけど……さて、姫さん」
アーディナは無遠慮な声にカップを抱え込み、それでも、命の恩人であるユウの背後に立つ正体不明の女を見上げた。
見たことも無い衣服を身に纏っているが、隠すことも無く魔力を滾らせている。傍らに立つ二人のカーネリア人らしき魔導士達も、かなりの手練れに見えた。
アーディナの魔力量をもってしても、この四人が束になって掛かってくれば、かなわないのは、彼女自身が腕のある魔導士であるゆえ、すぐさま理解した。
護衛の助けを加えたとしても、圧倒的に力不足だ。
アーディナは空になったカップの底を長い事見つめてから、疲れ果てたように言った。
「……これは、災厄の魔女の核の一つ……私が破壊し損なったものです」
シェルダンは、アーディナの言葉を一言も聞き漏らすまいという姿勢だ。
ルクスはどこか安堵した様子に見える。
「カーネリア議会は魔導院の手に落ちました。父も兄もすでに抜け殻です。魔導院はこれを使って……亡き王族達を蘇らせようとしています。ですが、蘇生実験は失敗続きで……彼らが作ろうとしているのは、父上や兄様の身体を使った、意思を持たぬ兵器……」
シェルダンが歯を食いしばって項垂れる。
ユウは、難しい魔術理論は分からないなりに、一つだけ確実に理解した。
アーディナの話はつまり、本人の尊厳を無視して、死してなお働かせようとする究極のブラック案件であるという事を。
ルクスも、シェルダンも、そしてアーディナも、母国から逃げて来た理由はこれだったのだろうか。




