070 TRANSITORY 変化が早く、安定しないため予測が難しい状況
崩れかけた離宮の外壁を伝い、ユウは足を滑らせながら庭園へと降りた。
焦げた土の匂い。
あちこちで魔力の残滓が火花のように弾けている。
さっきの爆発音がまだ耳の奥で鳴っている気がした。
――ここを出なきゃ。
城門の方角を避け、裏の通用路を抜ける。誰もいない中庭。噴水は干上がり、石像が片腕を失っている。夜空は薄暗く、雲の上で稲妻が形を変えて渦巻く。
見上げると、王都の結界がまだ辛うじて光を放っている。
だが外側の闇の中で、無数の影が蠢いていた――結界に阻まれ、進めない魔物たちだ。その異様な光景に、胸の奥がぞくりと震える。
だから世界はこんなにも暗いのか。
ユウは自分の腕を抱きしめるようにして走り出した。
目指すのはグレイド邸。王城からも程近い貴族街。
けれど街の様子は、もう知っている王都ではなかった。
瓦礫が散乱し、どこかで誰かが叫んでいる。
崩れた家屋の隙間から光が漏れ、魔術の暴走を示す残光が空気を焦がしていた。
曲がり角を抜けたところで、兵士の亡骸を見た。
胸に刺さったままの長槍。王城警護隊の徽章だろうか。
――お願いみんな無事でいて。
ようやく屋敷が見えた時、空の色が変わり始めていた。
夜なのに、北の空だけが白く明るい。
結界があそこから裂けている。
そこから侵入しようとしている魔物を、退けようと騎士や兵士たちも集まっている。
グレイド邸の門扉の前には、護衛の姿がひとりもいなかった。
それでも屋敷の窓には、かすかに灯が見える。
「……誰か、いる?」
ユウは戸を叩く。返事がない。
恐る恐る押すと、軋む音と共に扉が開いた。
玄関の奥で、ロゼ夫人が祈るように両手を胸に当てていた。
傍らには、まだ幼い息子――顔に煤をつけ、泣きはらしたような瞳。
「ユウ……よかった。あなた、無事なの」
震える声に、ユウはただ頷いた。
その時、屋敷の奥から、荷物を抱えたグレイドが走って来る
左腕に血の滲む包帯を巻きながら、片手でどうやら通信用の魔道具を操作している。
ユウの姿を捉えると「魔女殿……」と狼狽した声をあげた。
「グレイドさん、あれからどのくらい時間経ったんですか!?」
礼拝堂での理式の暴走以降、記憶が無い。
「まだ一昼夜ですが……まさか、お一人なんですか?」
「一回気が付いた時アルジェントさんが居たんですけど、ロシュディさんは声だけ……記録用魔道具の。他は誰も居なくて……たぶん戦闘の痕跡も有って私」
一瞬だけ空を見上げてグレイドは小さく頷いた。
「リーグベルは、研究所の中央制御陣に張り付いています。貴女の魔力の補助が必要かもしれません。この屋敷から研究所までは、使われていない古い地下水路で繋がっています。王都の民が、いざという時に避難する場所でもあります」
彼の表情には、焦燥よりも決意があった。
「王都の結界はまだかろうじて持ちこたえておりますが、長くは持ちません。私は陛下の元に戻ります。現在非常事態が宣言され、ロシュディ殿下は軍の再配置につかれておられます」
グレイドは血の滲む手で、ユウの肩を強く掴んだ。
「ロゼと息子を、地下までお願い出来ますか」
言葉が胸に突き刺さる。
ユウは息を吸い込み、頷いた。
まだ三つにもならない男の子が小さな声で父を呼ぶ。
ユウは微笑もうとしたが、唇が震えた。
「もちろん、一緒に」
そう告げた瞬間、外で再び轟音が響いた。
ロゼ夫人が耳を塞いで叫び、男の子を守るように抱き寄せる。グレイドはそんな二人を庇うようにして両腕でまとめて抱きかかえた。
空が裂け、北の光柱がもう一度、夜を貫いた。
――こんな光景、見たことも無い。
ユウ達はその光を背に、地下水路へと続く古い石段を駆け下りた。
中は湿った空気でひんやりとしているが、水路の水はとうに枯れたようで、水気は無い。太いトンネルと細いトンネルが交差し、ところどころには大きめの窪みがある。
恐慌に陥る人々の間を抜けながら、グレイドから教えてもらった道順を辿る。
地下水路は、かつて避難路として造りかえられたものだという。
石造りの壁には、今も古い魔導灯が点々と残っており、ほとんどは壊れていたが、いくつかは微かに光を放っていた。
その淡い灯を頼りに、ユウたちは進んだ。
ロゼ夫人が幼子を抱きしめながら、震える声で問う。
「外……どうなっているの?」
ユウは言葉に詰まり、ただ小さく首を振った。
光の柱、結界の揺らぎ、崩れる王都――そのすべてが現実とは思えない。
やがて、トンネルの奥から風が吹いてきた。
地上の空気だ。けれど、その風は冷たく、どこか焦げた匂いを含んでいた。
グレイドに教わった通り、分岐を二度曲がると、古い鉄格子の前に出た。
その先には、研究所へと続く旧防衛路があるはずだった。
ユウは先ほどグレイドの屋敷で確保したアイテムポーチの中から、長い杖を取り出した。
みちゆきに向かって慎重に翳してみる。
隣ではユウの行動にロゼ夫人が息を呑む気配がする。
それもそうだ、ロゼ夫人がグレイドからある程度の話を聞いているのは予測できたが、あからさまに魔術を行使するような姿を彼女に見せたことは一度たりともなく、砂糖菓子やふわふわのリボンの話に、終始費やされていたからだ。
ユウは自嘲するように薄く笑い、先に視線を探るようにあてる。
風が淀んでいる気がする。
ロゼ夫人が不安げに子を抱き寄せる。
「どうしたの?」
「判りません……でも、これは――」
その瞬間、足元の石が微かに震えた。
遠くで鈍い音。壁の向こうから、何かが這うような音。
ユウはとっさに光球を作り出す。
橙色の光が一瞬、空間を照らした。
トンネルの先――黒い靄が蠢いていた。
形を持たないそれは、魔力の漏出によって生じた影のようにも見える。
ロゼ夫人が息を呑んだ。
「下がってください」
ユウは短く言い、五つの魔石の嵌った長杖を掲げた。
眩い光が暗闇に向かって走る。
光が闇を切り裂いた。
一瞬だけ、黒い影が後退する。だが、完全には消えない。
――このままじゃ、みんなが巻き込まれる。
ユウは歯を食いしばり、一時しのぎの隔離場を展開した。
足元に光の円が走る。
これ以上、地下に魔力の歪みを広げるわけにはいかない。
「ここから先は、私が行きます。ロゼさんはこのまま避難路を辿って、北側へ――!」
「でも……!」
「私は、大丈夫です! だって……私、エオルトリア高地の魔女ですから!」
杖を見せつけるように軽く揺らすと、ロゼ夫人は目を瞠ってから頷いた。
ユウは振り返らずに走り出した。
魔力の渦巻く闇の奥へ。
光の残響が彼女の背を照らし、やがて地下の闇に溶けていった。




