066 TENTATIVE〔形〕暫定の,仮の
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王城の最奥、玉座の間は夜の帳に沈み、燭台の灯が金の装飾を淡く照らしていた。
静寂の中、フェルギス国王オレリアスは座していた。
その沈黙そのものが、王威であるかのように。
彼の前にはひとりの男が立っていた。
名を、ロシュディ と云う。
前王の庶子。今は彼の養子だった。
「暗黒領域との結界の破損が、予想以上の速度で進行中。このままでは北域の境界が消滅する可能性が」
ロシュディの言葉に、王はわずかに目を細めた。彼の手元の地図には、印がいくつか刻まれている。いずれも王国の防衛結界を支える骨格点である。
「その件については――新しい情報がありますぞ」
低く、しかし明瞭な声だった。王の横に控えていた老臣――宰相ビングルが一歩進み出て、封蝋の施された文を差し出す。ロシュディがそれを受け取りさっと目を通した瞬間、彼の眉がわずかに動いた。
「――再起動の儀……とは?」
「始祖の理を再び呼び覚ますことで、結界を再生できるという特別な理式で――」
ロシュディの喉がひくりと鳴った。
伝承に類される単語を聞いた瞬間、胸奥に潜む古い記憶が疼く。
「再起動の理式は、破損箇所を一度に修復する最も効率よく、有効的な手段――とあります」
ビングルの説明にロシュディは眉根を寄せる。
「しかし……それは未検証の伝承では……しかも記されている理式は、結界そのものを一度壊してから再構築する手順じゃないか。もし失敗すれば、王国全ての防壁が消滅し……」
「……無論、承知の上だ」
王の声には微かな苦味があった。
「お前も知っていよう。今の王家には、始祖の血を継ぐ者はいない。――ただ一人を除いてな。真に再起動が可能ならば、お前の血統を媒介にしか発動できぬ」
酷く重い沈黙が落ちた。
アルジェントがロシュディの背後から思慮深い視線を上げる。
「オレリアスよ――誰がこの再起動を進言したのじゃ?」
その問いに、王は一瞬だけ目を伏せた。
「隣国カーネリアから。王権安定のために協力を申し出てきた」
「ふむ、ずいぶん都合のいい話じゃの」
アルジェントの声音には冷ややかな刃が混じる。
ロシュディも静かに口を開いた。
「――彼らが本当に協力を望んでいるのかは、疑うべきです。式の施行が敵の思惑なら、再起動は結界の終わりを意味します。国は防御結界を失い、国防の手段を失いかねない」
王はゆるやかに立ち上がり、玉座の前に降り立った。
柔和な顔つきには似合わぬ静かな威圧があった。
「ロシュディ。私は王位に執着せぬ。だが、この国を守る理を外に預けるわけにもいかぬ。結界を修復すると同時に、王家を正しき血統へと戻す。お前が始祖の証を継ぐなら――この命を受けよ。その為に呼び戻したといっても過言ではない」
命令。それは、臣下としては拒めぬ響きだった。
ロシュディは膝の上で拳を握り締め、短く息を吐く。
「……承知しました。ですが――この儀式、危険があれば中止を進言します」
王は頷き、わずかに口角を上げた。
「構わん。未来は若き者達の手に」
その言葉に、ロシュディは頭を垂れる。
王位が欲しくて、戻ってきた訳ではない。
壊れてゆくのを見たくなかった――それだけだ。
そのためなら、使えるものは何でも使う。
しかし今、彼の胸中では、警鐘が鳴り響いていた。
――再起動して一気に修復させるなど、あまりにも馬鹿げている。
結界が弱体化したこの瞬間に、都合よく持ち込まれた協定書の提案。
そして始祖の血という、正しい道を望む王を動かす言葉。
誰かがこの均衡を……壊そうとしている。
それは彼の求める穏やかな安寧からは、かけ離れた現実だ。
アルジェントが微かにロシュディを見た。
視線が交わり、互いに言葉を交わさぬまま、恐らく理解が流れた。見えない敵は結界を破壊し、新王権を崩すための導火線を差し込んだのだ。
その夜、ロシュディはしばし窓辺に立ち尽くしていた。
王命を受けたというのに、胸の奥は奇妙な静けさに満ちていた。
風が塔を包み、遠くの灯を揺らしている。
「アルジェント」
呼ばれて現れた小柄な小姓姿の少年が、月明かりの中に姿を見せた。
「迷いがあるな」
ロシュディは短く息を吐く。
「命には従う。だが――」
言葉には、かすかな決意の棘があった。
「ユウを巻き込む気はないのか? 結界の理には、わしの血と魔女の力を礎として構築された。お前も、それを知っているはずじゃ」
その言葉に、ロシュディは一瞬、目を閉じ、低く答える。
「叶うなら、あの人には外から、この国を見ていてほしい。それが、俺にできる最後の守りだから」
アルジェントは静かに頷く。
黒髪が夜風に流れ、月光がその輪郭を細くなぞった。
「ならばわしもまた見届けよう。この国の理が、どこへ流れていくのかを。いつでも選択するのは、お前たち人間の仕事よ」
「頼む」
ロシュディの声は、夜の静寂に溶ける。その眼差しの奥にあったのは、決意でも哀しみでもなく――ただ、祈りに似た光。
月が雲間から顔を出す。
窓を照らす月光が二人の影を長く伸ばし、床に淡く滲んだ。
その静けさの下で、国の運命を変える最後の連鎖が、音もなく動き出していた。
◇◇◇
王都の朝は薄曇りだった。
灰色の光が魔術研究所の壁面に揺れ、石造りの回廊に湿った風を吹き込んでいる。
重厚な扉が開かれ、リーグベルが積み上がった報告書を無造作に机へ投げた。
「……やれやれ。夜のうちに古文書解析の急な仕事が舞い込んだと思ったら、今度は再起動だとさ。誰が言い出したんだ、こんな物騒な真似を」
低い声には苛立ちと、ほんの少しの興味が混ざっていた。
対面に座るグレイドは、湯気の立つ茶杯を軽く揺らし、穏やかに微笑んだ。
「王命だそうだ。――隣国カーネリアからの協定写し付きで」
「カーネリアぁ? 隣の魔術国家だろ。あそこが首を突っ込むときは、だいたい碌でもねえ」
リーグベルが大きく息を吐くと、書類の束が風でぱらりとめくれた。
その中の一枚、黒い墨で描かれた円環の図式が露わになる。
「……再起動の儀、だそうだよ。始祖の理を再生し、結界を修復する。壊れた箇所を含め全てを壊し直すってことだ」
「うーん、再生って名の自壊だろ、こりゃ」
リーグベルは呆れたように鼻で笑い、窓辺へ歩く。
魔力に集中し目を凝らすと、王都の北の空には、まだ薄く、結界の光の帯が見えていた。それは国を包む加護の象徴――だが、ところどころにほつれた裂け目が滲んでいる。
暗黒領域の結界騒動から始まり、大街道に設置されていた魔物召喚具が時限的に発動し、王都を守る防御結界にまで、破損が入りはじめている。
「……どうも話が早すぎる。修復に関する再提案書を出した翌日に、隣国から再起動の術式が届く。出来すぎてるだろ」
「やはり、そう思うか?」
グレイドの声は柔らかいが、瞳は冴え冴えとしていた。
リーグベルは肩をすくめた。
「思うさ。おまけに媒介は殿下なんだろ? つまり始祖の血。――成功すれば何某かに乗っ取られていた王家は、正統に戻り、失敗すれば王もろとも全部吹き飛ぶ。得をするのは誰だ?」
沈黙が落ちた。
外の風が強まり、窓を打つ。
グレイドは茶杯を置き、ゆっくりと指先で机を叩いた。
「陛下とその養子を同時に盤上に乗せる手。盤の外に立っている者にとっては――一石二鳥」
「そりゃあまりにも乱暴だろ……」
グレイドは立ち上がり、壁際の書棚から一冊の古文書を抜き取った。
表紙には見覚えのある印章が刻まれている。
禁書であるはずのそれを気軽な感じで手渡されたリーグベルは、呆れたように相棒を見やる。
「百年前の防御結界動揺期に、同じような再起動が試みられている。――不可侵を表では謳いながら、大規模な結界維持には魔女の軛無しに成り立たんとは、皮肉すぎる」
「――胸糞悪い話だな。先人たちも、理も知らずに道具を酷使し続けた結果か……」
「再起動は途中で中断。儀式観測者含め全員、跡形もなく消滅」
リーグベルが低く唸った。
「それにも関わらず、王都の防御結界が作動し続けているという事は、その時に多少は魔女の力が継ぎ足されたってことか。大街道の魔導灯は相変わらず毎晩規則正しく点灯するしな」
グレイドはリーグベルの手から書を抜き取ると、閉じ、視線を王城の方へ向けた。
「――魔女の力でなんとか百年維持した基幹に、始祖の血を継ぎ足して補強もしくは再生。それで本当に成功するなら、救いだが……再起動した所で、我々より未来を生きる者達に、この罪の尻ぬぐいが回るだけだろうに。永久に、人ならざる者の手で回り続ける。何もかもが風化して朽ちるまで」
「……お前さ、どっちに賭ける?」
「知っているだろう? 私はいつも、動く方に賭けるよ。ロゼと息子を守るためになら」
ふっと笑ったグレイドの横顔に、魔道灯の光が淡く射した。
その笑みの底には、裏が無い。
外から遠雷が響いてくるのが聞こえ始めた。
まだ雨は落ちていない。だが、季節の境目に似た、妙なざわめきが風の中に混じっている。
リーグベルがばたつくカーテンを押さえながら、ぼそりと呟いた。
「この揺れ……気持ち悪いな。魔力の流れが変だ」
リーグベル程の魔力を有していないグレイドは返事をせず、机上の書をもう一度めくる。紙の端に、淡く光る魔術式の痕跡。封印されていた古文書の写しには、誰かの手によって加筆された線が重なっていた。
見慣れぬ古い署名がある。
王の筆跡ではない。研究所の書記官でもない。
グレイドは指先で紙をなぞりながら、低く呟いた。
「……古い声が混じっているようだな。警告か注進か」
室内の灯が一瞬揺らぎ、空気がひやりと冷たくなる。
窓の外では、王都上空の結界がかすかに明滅していた。
何かが世界の裏側で目を覚まそうとしている。
それが敵の仕掛けなのか、それとも別の意志なのか――まだ何もかもわからない。
「……リーグベル。念のため、始祖の血の系譜をもう一度洗い直したい。王家だけじゃ足りん。魔女の側の記録もだ」
「まさか、またあの禁書庫に潜ろうって?」
「それ以外あるのか?」
あっさりと答えたグレイドは立ち上がり、外套を肩に掛けた。
リーグベルは小さく舌打ちし、後を追う。
建物を出る二人の背後で、魔術灯が再び点滅し――机の上の日報が、ひとりでに風にめくれた。
風は、紙の上の文字を微かに震わせ――
――世界が、息を吸い込んだ。




