064 TIMELY HELP 助け舟
研究所の一角に設けられた執務室。
窓辺に立ち、薄く笑みを浮かべていたのは、ユウを迎えに来たグレイドだった。
陽光が差し込むなか、彼は机の上に広げた報告書を軽く叩く。
「――何か進展されましたか?」
「リーグベルさんと、結界のことを少し」
ユウが答えると、グレイドは顎に手を当てて「ふむ」と短く呟いた。
「彼は頭は切れるが、言葉を選びすぎる男だ。それでいて、研究所の判断を疑っている」
「うーん……確かに、何か言いたそうで、言わないことが多いような」
「それは彼に限った話じゃない。この国の上に立つ者のほとんどは、沈黙を盾にしている」
グレイドは穏やかな声のまま、茶を一口すする。
香ばしい湯気の向こう、その目は笑っていなかった。
「結界を直接みた魔女殿はどう思われました? 誰が結界を壊していると?」
その問いに、ユウは息を詰めた。
グレイドの声には、単なる興味以上の探りが含まれている。
「……そんな、私には判断できません。まだ何も知らなくて。それに、あまりにも自然ではないものが、なんて説明すればいいんだろう。歪んだものがすぐそこにある状況って、経験したことないんで」
「ふむ。では一つ、話しておきましょう」
グレイドは窓辺に歩み寄り、外の景色を眺めた。
石畳の上を歩く研究員たちが、まるで駒のように見える。
「現王陛下が即位したのは、王権強化を望む派閥を抑えるため。彼の御方は力より均衡を取ります。――だからこそ、あの方は常に板挟みになっているとも言えます」
振り返ったその横顔には、どこか諦めにも似た笑みが浮かんでいた。
「そして――ロシュディ殿下は、そのどちらにも興味を示さない。王位にも、派閥にも。だが、そういう者が一番厄介なのです」
「どうして……ですか?」
「中立というのはね、立場を持たないようでいて、実際には誰も信用しないし誰からも信用されないということ。陛下にとっても、とても扱いづらい方なのです」
ユウは言葉を失った。
ロシュディの遠い眼差しと、あの日の冷たい態度が脳裏に蘇る。
「……でも、それでも、ロシュディ――殿下は国のことを考えて動いてるんですよね? だから王都に帰ってきたんですよね?」
問うと、グレイドは小さく笑った。
「さあ、どうでしょう。あの方の考えは、私にも読めません。ですが――魔女殿のような証人をそばに置いていたのは、意味があると思っています」
「証人……?」
「見たままを語る人間というのは、案外貴重なのです。誰の旗も掲げず、ただ感じたことを伝える事ができます。それは、王も研究者も為政者もできない芸当だとは思いませんか」
そう言って、グレイドは軽く肩を竦めた。
「真実は、必ず誰かの囁きの中にあります。あとは、どの声を拾うか――それが鍵かと」
彼は茶杯を置き、柔らかく微笑んだ。
その目に映るのは、やはり何かを試すような光だった。
執務室を出ると、回廊の風が頬を撫でた。
昼の光が傾き、石畳の影が長く伸びていく。
――三つの声。
リーグベルの沈黙の奥に潜む慎重な理。
グレイドの微笑の裏にある計算された誘導。
そして、エミールが残した「人の話を聞く」という言葉。
どれも正しいようで、どれも嘘のようだった。
ユウは胸ポケットの日記を取り出し、指先でそっと撫でる。
赤い革表紙のぬくもりが、少しだけ現実に引き戻してくれる。
――知るために聞くことから、始めよう。
そう心の中で繰り返し、ユウは歩き出した。
遠くで鐘の音が鳴り、王都の一日が静かに傾いていく。
◇◇◇
夜の王都は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
石畳の街路に灯る魔導ランタンが、風に揺れるたび宝石のような光を散らす。
空には薄い雲、遠くに鐘の音。
ユウは、グレイド邸を出発した馬車の中で、膝の上の手をそっと握った。
隣には、髪を美しく結い上げたロゼ夫人がいる。
淡い珊瑚色のドレスに身を包み、香り立つように微笑んでいた。
「まあ、そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
「だ、だって……」
ユウは視線を落とした。
深い群青のドレス。胸元には控えめな刺繍、裾には星のような銀糸がきらめいている。
鏡の前で夫人に選ばれたときに「夜空の雫みたい」と言われて頬が熱くなった。
「ほんとうに似合っているのよ。少し視線を集めてしまうかも」
「……やめてください、そういうの苦手で……」
夫人は悪戯っぽく、くすりと笑う。
馬車が停まり、扉が開いた。
王都の一角――華やかな貴族の社交場、王城の離宮で開かれる夜会。
光と音と香り。
そのすべてが、ユウの知らない世界だった。
大広間には、数えきれないほどの灯が揺れていた。
楽師たちが奏でる旋律のなか、ドレスの裾が波のように揺れる。
ロゼ夫人は軽やかに人々と挨拶を交わし、その傍らでユウは静かに微笑みを浮かべていた。
まるで舞台の中にいるみたいだ。
どの言葉も、どの仕草も洗練され、慎重で、そして計算されている。
笑顔の裏には駆け引きの匂いが漂っていた。
「とても複雑な顔をしているわ」
ロゼ夫人がワイングラスを手に、そっと耳元で囁く。
「え、どんな……?」
「自分は場違いだって思ってる顔。けれど、それがあなたの魅力ね。見て、皆、笑顔の裏側に何かを隠している」
言われて、少し言葉に詰まる。
夫人は、まるでお手本のように笑みを浮かべて、続けた。
「私も最初はね、こんな世界が息苦しくて仕方なかったの。でも、あの人――グレイドは、見たくないなら見ているふりだけでいい。って言ってくれたの」
「……見ているふりだけ、ですか?」
「そう。見ているフリだけして、後は感じて、覚えておけばいいの。さざめきや熱狂の中に隠れている誰も気づかないものを拾える人が、結局いちばん強いのよ」
その言葉に、エミールの言葉が重なる。
――あんたは人の話をよく聞く。それが役に立つ時が来るさ。
ワルツの調べが響く中、ユウは胸の奥がきゅうと締めつけられるのを感じた。
「ねえ、ユウさん」
夫人はグラスを傾けながら、何気ない声で言った。
「この間の話。もしかして……仲が良かったの?」
「え……?」
「左奥にある衝立の影から、こちらを熱心に見つめている殿方がいてよ」
返す言葉に困り、喉の奥が詰まる。
夫人の微笑みは柔らかく、どこか探るようでもあった。
ロゼ夫人が扇を開いてユウの姿を隠すようにして身体をずらす。
「ふふ。あの方の名を出すと、みんな表情が変わるの。あなたも例外じゃないわね」
ロゼ夫人が軽く頭を傾けたずっと奥に白と金で構成された豪奢な衝立が見える。
白金髪の絹糸のような髪が揺れる。
「あ、ロ、……」
言いかけて、声がかすれた。
何を言いたいのか、自分でもわからない。
ただ、胸の奥で静かに疼く痛みがある。
夫人は黙って頷いた。
やがて、ふっと微笑みを深める。
「ねえ、ユウさん。人ってね、忘れられない相手がいると、その人を中心に世界を見てしまうものなの。でも、それに気づくのは、だいたいその人がいない時なのよ。私も母を亡くして初めて気が付いたわ。ああ、かけがえのない時間を共に過ごした大切な人だったんだって」
胸の奥がじんと熱くなる。
それは恋という言葉にまだ結びつかない、けれど確かに近い痛みなのかもしれない。
群衆の向こう――一瞬だけ見えた白金。
光に揺れて消える。
まるで、記憶の中の残像のように。
名を、唇の裏でそっと呼んだ。
けれど、彼の姿はもうどこにもなかった。
夜会の音楽が、再び高らかに鳴り響く。
ユウはグラスを握りしめ、深く息を吐いた。
誰が何を壊し、誰が何を守ろうとしているのか。
そして、自分は――何を想っているのか。
群青のドレスの裾が、灯の海の中で揺れた。




