062 TRIGGER OFF 誘発する,引き起こす
王立魔術研究所の会議室は、石造りの壁に囲まれていた。壁面には結晶の標本が淡く光り、机の上に広げられた羊皮紙には、幾何学模様の術式や、魔力の流れを示す複雑な線が、誰かの指によって何度もなぞられていく。
「結界の基盤そのものが高地の地脈に依存している以上、恒常的な補強は難しい」
「ならば補助的な術式を重ね、周期的に再活性を……いや、人員の確保が追いつかない」
飛び交う議論は速すぎて、ユウの耳をすり抜けていく。
隣に座るリーグベルも険しい顔で腕を組み、時折短く意見を挟んでいた。
行動を共にしたことのある彼の言葉すら、半分も理解できない。
ふとした沈黙の隙に、何人かの視線がユウへと向けられる。
魔女として招かれている、その肩書きだけの理由で。
自分に、できることなんて本当にあるんだろうか。
背筋を正して座っているだけで、胸の奥がずしりと重くなっていく。
その夜。
グレイド邸の客間で、ユウは机に頬杖をついていた。手元に置かれているのは、深紅の装丁をした一冊の日記帳。
ページをめくると、今夜も新しい文字が記されていた。
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なんか反応なくなったんだけど、
読んでるのかい?
こっちは
魔力の代わりにカフェインでごまかしているけど
頭は冴えるが胃が死ぬんだよねえ。
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皮肉っぽい調子に、会ったことも無い先代魔女の姿がなぜか思い浮かんだ。
きっと清廉で王の隣に立っていても、圧倒的な存在感を放つような。
強い意志をもった瞳をしている、美女。とか。
ユウはただ思った事を返す。
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ミルクと砂糖いれてみたらどうですか?
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その文字が紙に沈むと、しばらく間を置いて、また新しい文字が滲むように浮かび上がる。
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なるほど。
甘いものは割と好きだよ。
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胸の奥がざわつき、同時に少しだけ、孤独が薄れていくのを感じる。
見知らぬ世界に来てからずっと、心細さを抱えていた。
今、遠いどこかに確かに声がある――それだけで、不思議な安堵を覚えるのだった。
翌朝。
正式な王の会見の知らせはまだ届かず、日々は宙ぶらりんのまま過ぎていった。
そんなユウを見かねたのか、ある昼下がり、ロゼ夫人がひょいと部屋の扉を開けた。淡い黄色のドレスに身を包んだ夫人は、にこにこと笑っている。
「ねえユウさん。お顔がかたいわよ? ずっと真面目に考えてたら、心が疲れちゃうわ」
「はい……」
「だから今日も、お買い物に行きましょう」
返事をする前に、手を取られて引っ張られる。
温かくて柔らかい掌に包まれ、ユウはあたふたと立ち上がった。
無邪気な笑顔に圧倒され、抗う暇もなく外へ。ひんやりした空気の中に出ると、街の喧噪と、どこか懐かしい石畳の匂い。
通りを抜け、石造りのアーチをくぐると、華やかな市場が広がっている。
香辛料の匂い、果実の甘い香り、道端で弦楽器を奏でる若者の音色。
「ほら見て! このお店、新しくできたの」
ロゼ夫人は小鳥のようにあちらこちらへ跳ねる。
色とりどりのキャンディ、艶やかなカヌレ。
あれもこれもと店員に注文していく。
「あのね、明日、小さなお茶会を開くの。仲のいいご夫人方を何人か招くだけなんだけど……あなたも一緒に出てくださらない?」
「えっ、わ、私が……ですか?」
「もちろん! 甘いものも沢山買ったし、せっかく可愛い小物もそろえたんですもの。試す機会がなくちゃもったいないわ」
その勢いに押され、断る隙もなく頷かされてしまう。
◇◇◇
翌日。
ユウは自室で、屋敷の侍女に助けられながら盛装の準備をしていた。
深い紺のドレスは、動くたびに光沢を帯びて布の波を描く。肩口にかけられたレースがやわらかく揺れ、先日選んだリボンがハーフアップの髪に結ばれた。
「うわ……」
鏡に映る自分の姿に、ユウは小さく息を飲む。
会社員時代、冠婚葬祭で慌ただしく着飾ったことはあったけれど、こんなふうにゆっくりと自分の装いに時間をかけられるのは久しぶり過ぎる。
胸が少し高鳴る。
同時に、不思議な不安も押し寄せる。
「大丈夫。とってもお似合いですよ、ユウ様」
侍女の柔らかな声に、少しだけユウは肩の力を抜いた。
屋敷の庭園に白い天幕が張られ、花をかたどった砂糖菓子や香り高い紅茶が並んでいた。
ロゼ夫人が中心に座り、周りには三、四人の華やかな貴婦人たち。
ユウは夫人の隣に座らされ、視線を浴びながら慣れない笑みを浮かべた。
「まあまあ、ロゼ。貴女の新しいお友達、とっても可愛いわね」
「でしょう? 似合うと思って一緒に選んだのよ」
場は和やかに笑いが弾ける。
けれど、次第に話題は世間の噂へと移っていった。
「そういえば聞きました? ロシュディ殿下が……」
その名が出た瞬間、ユウの心臓が跳ねる。
「陛下の信頼厚い方だけれど、あの方のやり方は時に強引すぎるとか」
「でも、それだけ頼りにされている証でしょう?」
「ふふ、若いご婦人の間では人気もあるのよ。あの鋭い目元に、ね」
笑い交じりの声が続いていく。
ユウはカップを持つ指先に力を込め、視線を落とした。
紅茶の表面に揺れる自分の顔が、ぼやける。
――ロシュディ。
胸の奥に、言いようのないざわめきが広がっていった。
お茶会が終わった頃、ユウは疲れたように客間へ戻ってきた。
笑顔の花が咲き乱れる優雅な場に、終始落ち着かなかった。
なにより耳に残っているのは、婦人たちがひそひそと語った言葉だ。
「殿下は夜会を欠席なさったそうで……」
「まあ、やっぱりあのお方は気難しいわね」
断片的な噂。
耳を塞ぎたかったのに、まるで針のように心に突き刺さった。
お茶会が終わり、グレイド邸の客間にはまだ甘い焼き菓子の香りが漂っていた。
ロゼ夫人は華やかな盛装のまま、ゆったりとソファに腰掛け、微笑みながら紅茶のカップを揺らしている。
「ふふ、今日は楽しかったわねえ。ユウさん、緊張してたでしょう?」
「い、いえ……」
慌てて否定したが、視線が落ち着かず、手の上でハンカチをきゅっと握りしめてしまう。
夫人はころころと笑い、子どものように首を傾げた。
「でも、殿下のお話が出たとき、ちょっとだけ顔が曇っていらしたわ」
「っ……!」
胸の奥が跳ねる。
ユウは思わず紅茶に口をつけ、熱さにむせかえった。
「お知り合いだった?」
「ち、違います!」
必死に否定すればするほど、言葉が裏返ってしまう。
夫人は楽しそうに目を細めた。
「殿下の事、わたくしはあまり知らないんだけど、旦那様がよく言っていたわ。戦場でも背中を預けられる人だったって」
「……そうなんですか」
「ええ。きっと、強くて優しい方」
その言葉が胸に落ちて、熱くなる。
けれどユウは首を振り、ぎこちなく笑った。
「私……」
自分でも上手く、説明できない。
ロゼ夫人はグレイドの妻であるところからして、ユウとロシュディとの因縁について、知っているのかもしれない。が、迂闊に口を滑らせてもいいものなのだろうか。まして、王都で。
夫人はその曖昧さを咎めず、ただ「ふふ」と楽しげに笑った。
頬が熱くなり、ユウは思わず顔を伏せる。
ロゼ夫人は、軽く言葉を紡ぐ。
「もし、殿下にお会いできる機会があったら、先ずはお話してみることね」
ユウは慌てて首を振った。
思い出すだけで、胸の奥がひりつく。
庭園の月明かりの下、追い払うようなあの仕草が頭から離れなかった。
「……私が口を開いても、ただ場違いなだけかもしれませんよ」
気がつけば、声が小さくなっていた。
夫人は少し首をかしげ、それからおっとりと微笑んだ。
「政治のことは、難しいわよね。立場のせいで思うように動けないことが多いのだとは思うの」
「立場……」
「ええ。王位を巡るあれこれや、駆け引きもあるでしょうし」
ユウは黙り込む。
それは慰めの言葉だとわかっていても、胸の奥で小さな波が立つ。
ただの政争のため?
それとも、もっと別の理由が……?
夫人の柔らかな声だけが、ふわりと耳に残った。
自室へ駆け戻り、扉を閉めると、ベッドに倒れ込む。
胸の奥がきゅうっと締めつけられ、息が詰まる。
手探りで机の上の緋色の日記を取る。
震える指先でページをめくり、思わずペンを握った。




