002 TRANSPORT 〈人・物を〉(…へ)運ぶ,移す,輸送する
遠く、鳥の鳴き声がする。緑の匂いの風。
優しい微睡の中、まだ眠りを手放したくない。
そう考え、腕の中に布団をぎゅっと抱える。
と、地鳴りのような音に、瞬時に地震!?と、ユウは瞳を開けた。
高い場所に蒼が見える。蒼空だ、と思った。
その一刹那後、部屋を遮蔽していた四方の壁がバターンバターンとまるでコントの様に倒れる。
向こう側に広がるのは鮮やかな緑。視界いっぱいに繁る緑の森。
「なっ――――」
あまりな状況に、流石に跳ね起きる。引っ越してきたばかりの部屋の壁がすべて倒れ、四方に残骸をまき散らしている。その衝撃のせいか、片隅に積み上げていた段ボールの山が倒壊した。目覚めてまだ五分も経っていない。もちろん体内時計的な話である。
マットレスの上で布団を抱きしめ、左右前後を見渡しても、悲惨な光景には一ミリの変化も見られなかった。が、木々から降り注ぐ陽光は優しく、どこまで穏やかなのが、何となくユウを落ち着かせる。
恐る恐る足を下ろすと、確かにそこには自分の部屋のフローリング。
しかし数歩歩みを進ませると、短い草がぎっしりと生えていた。フローリングと草の絨毯の境界には、壁が倒壊した衝撃からか、大地が抉られ剥き出しの箇所がある。踏みしだかれた黄色い花が、花弁を散らしていた。
周辺を伺っても、どことなく長閑で、まだ夢の続きを見ているようだ、と現実逃避をするかごとく、ベッドに戻り横たわる。しかし一向に再度の眠りには落ちる事が出来ない。仕方なしに起き上がって、壁と共に倒壊している備え付けのクローゼットから着替えを取り出した。盛夏にも関わらず、涼しい空気は肌寒い。ノースリーブのワンピースを選んだことを若干後悔しつつも、夏物以外は未だ段ボール箱の中である。
「どこかの、森」
声に出して言ってみる。寝起きのせいか若干声が掠れがちだったが、自分が言葉を音にして発生しているという感覚がある。既に残骸と化した窓から見えていた向かいのマンションの存在は、欠片も無い。とても、静かな森の中。
「スマホ! 圏外……だよね!」
自分への突っ込みも虚しく響く。
項垂れつつも、ずっとここで呆然としていて良いような気もしない。ユウは、なけなしの勇気を振り絞って、見知らぬ世界への第一歩を踏み出した。
道を見失わないように、何度も背後を振り返りながら、道の無い道を少しずつ進んでみた。あくまでもユウの印象だが、深い森という訳では無さそうだった。空が見えない程の高さのある木に囲まれている訳でもなく、木の根が道を這うような悪路でもない。振り返ると森の中にベッドマットレスが白く浮かんでいるように見える。現実離れした光景。
最初に歩き始めた方向は進んでも森の光景にあまり変化は無い。背後に見えるマットレスが見えなくなった時点で引き返し、今度は正反対側に歩く。こちらもあまり変化は無い。そうやって四角い部屋の壁が在ったはずの四方を進んで周囲を確認する。そしてついに、玄関側からまっすぐ歩いてきた場所に乾いた土の小路を見つけたのだ。明らかに人の手の入った道だ。
ユウは咄嗟に何か目印になるもの、と思ったのだが、無防備な事に完全に手ぶら状態だったため、再度自分の部屋のあった場所まで戻る。床に倒れた窓にかかっているカーテンが目に付き、それを取り外すともう一度、小路のあった方角へと歩き始めた。
日頃、外回りが多いとはいえ、こんなに朝っぱらから歩くのは初めてである。そして渇きを覚え始めた喉に、水を持ってきていない事に気が付き、心底がっかりする。
しかし、こんな場所を一人で歩いたことも無いのだから、仕方ない。トレッキンングとでもいえばいいのだろうか。そういったアウトドア的な趣味も持っていなかったし、当然、基本的な装備も知らない。
森の中でカーテンを引き摺って歩く女というのは、異常である。
誰かに出会ってここが一体どこなのか尋ねたくもあり、この姿を見られたくもないというジレンマ。
小路に到着し、カーテンを目印代わりとして、近くにあった木の幹に巻き付ける。薄桃色は森の光景に合っても違和感のない色合いだった。
そして道に出てほんの少し歩いただけで、ぽつんと一軒の建物が見えた。
赤いとんがり屋根の石造りの壁、どこかでみたような光景だ。
中央に立派な扉。ウッドデッキは無いが、建物の全面にひさしが伸びている。おそるおそる窓から中を覗き込む。が室内には人の気配が感じられない。
先程、ユウがこの小路に出た時に建物を確認できなかったのは、建物の右手にある大きな太い木が視覚的に遮っていた所為だ。家の左手にはちょっとした空間が開けている。敷地全体は木製の柵で囲まれている。
少しだけ悩んで、ノックをしてみた。が、応答はない。
空き家なのかもしれない。
と、思いつつドアノブに手を掛けた刹那、
【住居所有者登録を完了】
「ひっ――――」
無機質な声が響くと同時に、扉が自動的に開いた。
「だ、誰か、いませんか?」
歓迎するかのように開け放たれた扉から中に向かって呼びかける。しかし期待虚しく反応は無い。
玄関を入ってすぐは板張りの床で、壁は積み石。右奥の方に厨房らしき空間。そして左奥には別の部屋へと続くであろう扉が二つ。
左手に見えるダイニング兼リビングテーブルの様な大きな机は深い飴色をしており、同色の長椅子が二つL字に配置されてある。と、そのテーブルの上に一冊の黒いファイルが置かれてあった。吸い寄せられるようにユウの視線がその表紙を捉える。
――移住パッケージ プランT。
凄く記憶にある文字列だ。昨晩その文字を見たばかりなのだから。
飛びつくようにしてそのファイルを手に取った。
【移住者登録を完了】
「っ――――」
再び耳に割り込む無機質な声に驚かされ、ファイルを取り落す。
その弾みで頁が捲れる。
精緻なイラストに描かれているのは、まさにこの家だった。
【日比野ユウさま。異世界移住パッケージプラン
Tへのお申込み有難うございます。建物キットは最低限の備品、家具付でご自由に改装する事も可能です。期間中どう生活するかはすべて貴女次第。おすすめは建物左手にある庭園での家庭菜園や50バレル程先にある小川での遊泳や釣り等。また、この建物は登録者の命を脅かす危険を伴う生物には不可視となっております。安心してスローライフをお楽しみ下さい】
昨晩、冷やかしで見たサイト広告のテンションとは真逆の棒読みの声の後に、膨大な情報が一気に流れ込み、有り体に云うと、ユウは意識を手放した。
◇◇◇
気が付いた時、世界には黄昏が訪れようとしていた。
テーブルに突っ伏していたユウは顔をのろのろと上げる。すぐ視界に入るのは黒い分厚いファイル。玄関のドアは開けっ放しで、不用心な事この上ない。
何時間も経ったというのに、ユウをとりまく謎の環境に変化は訪れていなかった。
がっかりした気持ちで立ち上がる。せめて今できる事は、あの森の中にある荷物をここまで運び込む事だろうか。
幸いにして建物はある。しかも所有者として登録してくれているらしいので、お言葉に甘えて此処で夜を過ごさせてもらう事にした。流石に見知らぬ森で、自分の部屋だったものの残骸があるとはいえ、野宿する自信は無かった。
引っ越し間もなく、荷解きを半分しかしてなかったのは行幸だった。
スーツケースにクローゼット内の衣類や目に付く室内の小物を詰め込み、柔らかな土の上を移動する。それが第一弾。
未開封の八個もある段ボールをどうやって運ぼうかと考え、脚付きのベッドマットレスが目に入る。夜露に濡らすのも忍びない。無謀な行動かも、と考えつつも段ボールをすべてその上に置いて、脚付きベッドマットレスを引っ張り始めた。
「ううう、当たり前だけど重いよ……」
じりじりと前には進んでいる。目測で自分の身長分位。下がつるつるとした床なら、女性の力でも間に毛布などを挟めば、大型家具でさえ簡単に動かすことができる。しかし今、ユウがマットレスを押したり引っ張ったりしている所は、やわらかな土の上だった。それでも確実に動かしてきた軌跡として大地には二本の溝が刻まれている。
黄昏から漆黒へ世界が塗り替えられるのには、然程時間がかからなかった。先の見えない闇の中ついに、ひさしの下までマットレスを運ぶことに成功し、完全に握力を失った。
「腕ぷるぷるしてる」
玄関扉は大きく開け放たれたままだ。
足で押し込むようにドアからマットレスを室内に入れ、そのまま倒れこむ。
猛禽類か何かのホウホウとう鳴き声。涼しく緩い風が、汗した肌を掠め心地よい。
元々今日は部屋の片づけをする予定だったのだから、似たようなものか。頭だけ持ち上げて薄暗い室内を眺め、明りを探すが見つからない。扉を閉めると月明りさえ遮断され、何も見えなかった。
もう今日は無理だ。これ以上何かできる気がしない。
ユウは段ボール箱を床に蹴落とし、マットレスに寝っ転がる。疲労から空腹も覚えない。そして、名も知らぬ地で、夢も見ない深い眠りに落ちた。




