1-8
ミリナ=リエステラは後悔していた。
ソフィアを自宅に招き、一室だけ用意しておいたゲストルームに通した翌朝。
ベッドの中でうぐぐぐ……と唸って枕にしがみ付きながら昨日の自分を思い返していた。
女の子とはいえ初対面の人間を自宅に上げるなんて。
あまりのイレギュラーな事態に脳がおかしくなっていたのかもしれないし、ルミアが縋ってきた手前断りづらかったのかもしれないし、ともかく何らかの理由があって普段の自分ではありえない行為をしてしまった。
「うう、どうしよう……人と一緒に暮らすとか、緊張しすぎて無理だって……」
今日は休みなので長めに睡眠も取れたし、カーテンの隙間から差し込んでくる朝の日差しは心地良いものだったが、ミリナの心は一向に晴れる気配がなかった。
ミリナにとって自宅は唯一本当の意味で心が安らぐ空間である。
人付き合いが苦手な自分にとって外面を気にしなくていい自宅での時間は貴重で、そこに他者が介在するというのは正直ピンチだった。
「家の中でも敬語使わなきゃいけないなんて……心が休まらない……」
やだやだと手足をバタつかせて幼児退行しながらシーツの海で暴れるミリナ。見事なまでのイヤイヤ期だった。
しかしソフィアと約束した朝の待ち合わせ時刻が近付いてくるとやむなくベッドを這い出て、着替えと洗顔を済ませる。やはり根は真面目なミリナだった。
朝起こしに行くと約束した8時まであと10分。
リビングの窓を開けて空気を入れ換え、朝食のトーストの準備をしながらテーブルの上を整理する。
何の気なしに買った二人用のテーブルがこんな形で役に立つとは思っていなかった。
そうこうしているうちに時間が過ぎて、ゲストルームの扉をノックしに行くとすぐに返事が返ってきた。
入りますね、と声を掛けて中に入れば昨晩と同じ様子のソフィアが立って待っていた。
「ミリナさん、おはようございます。泊めていただいて、ありがとうございます」
「おはようございます。いえいえ、よく眠れましたか?」
「はい。おかげさまで」
そう言いながら小さく微笑むソフィアの姿を見ていると、ベッドの中で感じていた後悔が何故かすーっと消えていくような感じがした。
その理屈も仕組みもミリナにはまだ理解できないが、今日のやるべきことへの活力を取り戻したという意味では今のところ十分だった。
「とりあえずご飯にしましょうか、リビングに案内しますね」
初めて過ごす自宅以外の場所に慣れないと同時に、やはり興味を抑え切れないのかくるくると周りを見渡しながら後ろを付いてくるソフィア。
その反応にちょっとした庇護欲を掻き立てられたミリナは自然と優しい気持ちになる。
それからリビングの中と、あと一応お風呂や洗面所といった生活に必要な場所を案内して、自由に使っていいことを告げる。
その後に続けて出されたできたての朝食もあって、ソフィアはすっかり恐縮してしまったようだった。
「あの……わたし、こんなによくしていただいて、いいんでしょうか」
「ええ、仕事の手伝いをしてもらう報酬ですから。……あ、そうだ。今日の予定をお伝えしますね」
そう言ってミリナは懐に仕舞っていた紙を一枚取り出し、それを浮遊魔法で食卓の上に浮かべてみせる。
「わっ……これ、浮遊魔法ですか?」
「そうです。ソフィアさんって魔法も勉強されてたんですか?」
「はい、ちょっとだけ。……あ、お話の邪魔しちゃって、すいません」
一般の人々だと魔法に名前があること自体知らないという場合も多いのだが、ソフィアは案外詳しいらしい。
魔法が好きな身としては話が合うかもしれないし、機会があったら聞いてみようと思った。
「予定はここに書いておきました。午前中は仕事場を案内して、やってもらう仕事の説明をします。そんなに難しくないので心配しないでくださいね。
午後は街に出て買い物です。ソフィアさんの服とか日用品とか、必要な物を買い揃えたいと思います」
こくこく頷いて相槌を打ちながら話を聞くソフィア。
その反応が小動物みたいで、ほっこりとしたミリナはすっかり朝の後悔の気持ちを忘れたようだった。
「ミリナさんの仕事場、早く見てみたいです」
「ふふっ、そんなに焦らなくて大丈夫ですよ。仕事場は逃げませんから」
「そ、そうですね……では、ご飯を最後までいただきます」
それからはお互いに喋らず朝食を食べ進める。
トーストを小さくちぎってもぐもぐと食べるソフィアの様子はリスかなにかのようで、ミリナの中でソフィア=小動物という図式が出来上がりつつあった。
朝食を終えて少しの休憩を取った後、二人は1階に降りてミリナの仕事場に来ていた。
個人経営にしては十分広さのあるオフィスは、2階の居住スペースとは違って深い茶色の木材を使った落ち着きのある空間で、机や椅子といった家具からは上品な雰囲気が感じられ、その周りには金庫や書類棚などの各種設備が並んでいる。大きめの観葉植物が隅っこに置かれていたり、簡単な調理場もあったりしてこの空間だけでも十分暮らせそうな様子だった。
「わぁっ……とっても素敵です! ここで毎日お仕事、してるんですか?」
「ええ。まあ主に夜帰ってきてからですけどね」
「大変です…………あっ、あの不思議な機械はなんでしょうか」
そう言ってソフィアが指差したのは金庫の横に置かれた印刷機のような機械。
だけど印刷機とは違う複雑な魔法機構が組み込まれていて、興味を引かれたソフィアが尋ねてくる。
「あれは遠隔印刷機です。ただの印刷機じゃなくて、遠くの場所で送ったものを受信して印刷できます」
「遠くの場所って、どれくらいですか?」
「世界どこからでも、です。この国の外でももちろん…………って、そうだ。ソフィアさんは地理は詳しくないんでしたっけ」
「いえ、母が教えてくれたので知っています。自分がどこにいるのかは、教えてもらえませんでしたが……」
そう前置きしてからソフィアが喋り出す。
「この世界は全部で6つの大陸に分かれていて、それぞれが海で分断されながらも航路で互いに繋がっています。
ミリナさん、わたしたちが今いる国の名前を教えてください」
「ここですか? ここはフォルシア王国です」
「はい、ありがとうございます。フォルシア王国が位置するリニス大陸は6つの中で最も大きい大陸です。
他のどの大陸にも比較的距離が近く、交易の拠点としても重要視されています。フォルシア王国はその中でも比較的商業寄りで、国家事業として交易を盛んに支援している国です」
驚いた。その流暢な喋りと豊富な知識はこれまでゆっくりとした口調だったソフィアからは想像できないものだった。
「ソフィアさん、すごく詳しいですね! その通りです。私がこの運送業をしているのも少なからず交易と関わりがあったりするからなんですが……まあその話は後でします」
「ちなみに、今いるのはフォルシア王国の王都で合ってますか?」
「はい、そうですよ」
「王都はフォルシア王国の南端に位置していて、そしてリニス大陸の中でも南方の海に近い都市です。
温暖な気候の海では漁業が盛んで多くの魚が日々漁獲されており、フォルシア王国の貴重な交易資材のひとつになっています。
また、メインの漁港からそう遠くない場所にこの国の中心港であるフィリス港があります。一日に500隻以上の船が発着する世界でも最大級の港で、フォルシア王国を交易国家たらしめている大きな存在です」
ぽかんと口を開けたまま静止するミリナ。
まさかこの国の詳細な情報まで知っているとは。しかもそれをタイムラグなくすらすらと言葉に出来るほど頭の回転が速い。
ミリナがこれまで出会ってきたどんな人よりも頭が良いと言っても過言ではなかった。
「ソフィアさん……すごいです! どこでそんなに覚えたんですか? 本当に学校に行ってなかったんですか?」
「え、えっと……全部母から、教わりました。勉強するの、好きで……」
話が終わった途端に前と同じゆっくりとした口調に戻るソフィア。
そのギャップが更にミリナの脳を刺激して、混乱と興奮が同時に襲ってくる感じだ。
「私、すごく優秀な人を雇ってしまったのかもしれません……」
「ふぇっ、そ、そんなこと、ないです……」
畏れ多いといった風に照れてみせるソフィア。
その頬は赤く染まっているのも内気な少女っぽい雰囲気を醸し出していて、ますますギャップが加速していく。
完全にペースが乱れてしまったので、一旦立て直すべくミリナは仕事の説明に移ることにする。
「えっとですね、それじゃあ仕事の説明をしますね。
大きく分けて2つ、依頼書の受領と運送コースの選定、そして収入に関する経理業務です」
こちらが先導すべき側なのに、ソフィアにペースを持っていかれたままでは事業主の名がすたる。
ちょっとお姉さんぶるような感じでミリナは仕事机をぽんぽんと叩く。
「1つ目ですが、さっき見てもらった遠隔印刷機に運送の依頼が届きます。
勝手に紙で印刷されるので、それを見て内容を確認してください」
「はい、ちなみにこの機械って各家庭に必ずあるものなんでしょうか」
高価そうで皆が持ってるようには見えません……と付け足すソフィア。
さっきから驚くばかりだが本当に彼女は鋭い。
「はい、その通りで一般家庭にはそうそう置いてありません。
ですが各地の役所などに設置されていて、必要な人はそこから送ることが出来ます」
「なるほど、そうやって全国からの依頼を受け取るんですね」
「ええ。そしてソフィアさんにお願いしたいのは運送ルートの選定が主です。
受け取った依頼をまとめて、私の一日の動き方を決めてもらいます。出来るだけ効率よく、たくさんの荷物を運べるようにしてもらえると収入が増えますし、私の仕事時間も短くなります」
「……それは大事です。でも地理なら詳しい自信があります。任せてください」
仕事モード(仮称、命名ミリナ)に入ったのか、てきぱきと返事をするソフィア。
任せてくださいという在り来たりな台詞も、仕事モードの彼女が言うと不思議と安心感がある。
「そしてもう一つが経理業務です。私は依頼費を現金で受け取って来ますので、その管理をお願いします。
管理費の処理とかもありますが、それは追々で大丈夫です」
「はい、数学も好きなので仕事をするのが楽しみです。経理も初歩的な知識ならあります」
本当に彼女はなんなのだろうか。仕事が楽しみと言えるその心持ち。そもそも娘に経理を教える母親というのが謎すぎる。
とはいえ話を聞く限り、今求めている仕事は十分にこなしてくれそうで、ミリナにとってはありがたい話だった。
というわけで優秀なお手伝いを雇うことに成功したミリナは早速ソフィアの席を用意する。
時刻はまだ9時。これから仕事を教え始めてもお昼には十分間に合うだろう。
朝の憂鬱を完全に忘れ去ったミリナは、わくわくした瞳でこちらを見つめ返すソフィアと共に新たな一歩を踏み出した。