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魔法、それは光。正しき心に依れば人の世に光明をもたらせり。
魔法、それは影。悪しき心に依れば人の世に混沌をもたらせり。
フォルシア王国は勿論のこと、全世界の国々で広く知られている魔法書のバイブル ― 全聖魔法書記の冒頭に書かれている文章だ。
数百ページにも及ぶそのバイブルを読破する者はさほど多くはないのだが、書記の中でも特に重要とされている部分は抜粋され、初等教育の段階からありとあらゆる国民に等しく教えられる。
魔法に関する技量や身に宿した魔力量などは個人差が大きいが、ごく初歩的な物であればこの世界のほとんどの人々が扱うことができるゆえに、人々の暮らしを豊かにする存在として生活の中に組み込まれている。
そして魔法技術が政治や軍備といった多方面に影響を及ぼしていることも事実。
そのように人々の日常にとって重要な存在であるからこそ、魔法を使うにあたっての心構え・基礎的な魔法知識などは必然的に教育の枠組みの中に組み込まれているわけだ。
故意であるか否かを問わず、扱いを一歩間違えれば誰かを傷つけるだけでなく、自分自身の人生にも大きな傷を残しかねない。
仕事が休みになったのでゆっくり眠っていられるはずの土曜日から早起きし、本棚に仕舞われたその一冊を読み返していたミリナは朝から気持ちを新たにする。
初めて魔法を使った幼い頃から度々読み返してきたこの本には親しみを感じると同時に、人生のここぞという場面で気を引き締めるための存在としても大事にしていた。
魔法科の受験に臨む前日の夜も、学院を卒業して運送屋の仕事を始めたその日も読み返した一冊。
そして今日はミリナ自身……ではなくソフィアの人生の転換点になりうる日になるかもしれない。そんな訳でわざわざ日が昇る前から起きて読んでいたというわけだ。
とはいえ読破するのは難しいので序盤までで済ませ、ソフィアが起きてくる時間に合わせてリビングへ出る。
「ん……ミリナ、おはよう」
「おはよう、ソフィア」
寝間着のまま出てきたソフィアはまだ眠たげな表情をしていたが、しばらくしていればいつも通りになるだろう。
ここに住み始めた頃はまだ家主に対する遠慮があったようでいつでも気を抜かぬように振舞っていたが、最近はすっかり慣れてくれたようでこうして自然体で過ごしている。
ミリナにとっては嬉しいことだった。
「えっと……今日は10時に出発、だっけ」
「うん、5分前くらいにリビングに集合して一緒に屋上まで行こうか」
「了解。じゃあもうちょっとしたら朝ご飯作るね……ふぁぁ」
外から見ていて思うよりも眠気は強かったのか、ダイニングの椅子に腰掛け、そのままテーブルに突っ伏して二度寝を始めるソフィア。
ミリナは先に少しでも食事の準備を進めておこうかと思ったのだが、ソフィアを見ているとふと思うことがあって―
(そういえば、ソフィアの寝顔って初めて見たかも)
普段は別の部屋で寝ているし、こうやってリビングで二度寝をするのは初めてだ。
ソフィアの横顔は普段の表情よりもいくぶんか幼い感じがして、出会った頃から思っていた小動物っぽい印象そのままだった。
(頭、撫でてみたいなあ……)
ソフィアの綺麗な茶色の髪はさらさらして触り心地も良さそう。
でも、そういうのは恋仲の人たちがやることだし私はいいか、と思ってやめてみたり。
だけど今のソフィアを堪能したいという気持ちはあったので、向かいの椅子に座ってしばらく寝顔を眺めさせてもらうことにした。
音を立てないように椅子を引いてそろりそろりと座れば、頬杖をついてソフィアの正面に。
そうして小さく呼吸を繰り返す姿を見つめながら今日のことを考える。
ソフィアの人生をよりよくするにはどうしたらいいか。
この世界では保護者代わりになっているミリナなりに色々と考えていた。
プリドールでの仕事、運送屋の手伝い、それを繰り返しているだけでは次のステップへのきっかけが見つかりづらいだろうし、何よりソフィアには魔法の才能と技術がある。
これまでの17年間の人生の大半を魔法に費やしてきた自分に匹敵するほどの実力、これを活かさない手はない。
もちろん、今のまま自分の近くにいてほしいというのを大前提としてだが― そういった魔法方面でソフィアの潜在能力を開花させることができればいいなと思う。
そして今日はその考えをソフィアと共有し、信頼できる第三者に相談するため、とある人物に約束を取り付けておいた。
そういったわけで9時過ぎには朝食を済ませ、10時には自宅屋上の発着場へ集まった二人だった。
「ミリナ、今日は結構遠くまで行くの?」
「ううん。スカイレイクなら5分で着く」
「えっ、それなら歩いて行ってもいいんだけど……」
「まあまあ。今日はこの子自体の用事もあるから」
「……?」
銀色にきらめく機体を撫でながらそう語ったミリナに、ソフィアは頭の中でクエスチョンマークを浮かべる。
とはいえミリナがわざわざそう言うなら反対する理由もあるまい。
いつも通りコックピットに飛び乗ると、定位置になった毛布の上にちょこんと座って待機。
ミリナの操縦であっという間に空へ浮かび上がった機体は王都の城壁を超え、西の森の方へ向かっていく。
今日は天気も良く眩しいくらいの日射しがスカイレイク前面の窓から差し込み、コックピット内も柔らかな温かさに包まれる。
そんな気候と雰囲気に乗せられて二人の会話もそれなりに弾んだ。
「ソフィア、今日はなんの話をするかって軽く伝えておいたよね」
「うん。わたしの今後の暮らしをよくする方法について考えるって」
「そうそう。今の仕事だけだと将来的にどうなんだろうって思って、いろいろ考えてたんだよね」
「ミリナは私の親代わりなの?」
「いや、従業員の未来を深く考える経営者だけど」
「……そういうところ、やっぱりドライだよね」
ドライと言われると確かにそう思わなくはない。
しかしそれだと不愛想な人間という感じがするので代わりに―
「そこは現実的って言ってほしいね。で、それの相談に乗ってくれる人に会いに行く」
「……魔法科の先生とかじゃなくて?」
「まあコロルド先生には事前に話を通してあるけど。会うのは別に先生じゃない」
「じゃあ誰なの……?」
「私の友達」
ソフィアが一瞬ぽかんと口を開けて動きを止める。
「えっ……ミリナ、友達いたの?」
「ソフィア、大分言うようになったね。直接的な言葉で殴ってくるなんて」
「それだけミリナを信頼してるってことだよ」
「物は言いようだね。それはさておき私にも友達はいるって前にも話したはずだけど」
今朝は出会った頃の物静かなソフィアのことを思い出してほんわかした気持ちになっていたはずが、いつの間にか前言撤回する羽目になっている。
ソフィア、言う時は言う。
そんな風に以前より一歩も二歩も進んだ関係性の会話を繰り広げている間に、スカイレイクはいつの間にか目的地の上空で低下を始めていた。
背の高い木々の上に王都の城壁が少し見えるくらいの森の中。
そこには広く開けた空き地と、その端にぽつんと佇む倉庫付きの一軒家があった。
一軒家のすぐ近くにスカイレイクを着陸させたミリナは家主に何の遠慮もなく駆動を止める。
「はい着いたよ。じゃあソフィアから降りて」
「う、うん」
手早く降りるとすぐ目の前にガレージのような大きい倉庫。
その横には店の入り口にも見えるお洒落なドアが鎮座して来客を待ち受けているようだった。
近付くほどその精巧さに気付くシックな木彫りの扉は鍵が掛かっておらず、先を行くミリナが手を掛けるとすんなりと開いた。
「アリルー? 来たよー!」
扉の先はまるでカフェに来たのかと錯覚するような落ち着いたラウンジスペースで、ソフィアはその意外さに目を見張った。
まるで今から給仕が出てきてテーブルへ案内してくれるのかとすら思ってしまった。
そして、この空間には慣れっこと言うように軽い口調で家主を呼んだミリナの声がラウンジの奥へと響く。
やがて数秒経つと奥から足音が聞こえてきて、おもむろに現れた人影にミリナは珍しく頬を緩めた。
「いらっしゃいミリナ、待ってたわよ」
「久し振り、アリル。2ヶ月振りくらい?」
「そうね。前回の整備からそれくらい経った気がするわ」
ミリナと対照的な金色の髪― それでいてけばけばしさはなく優雅さすら感じさせるその色を纏っているのは、ミリナとそう歳の変わらないように見える少女だった。
どこか深窓の令嬢を思わせるような神秘的な雰囲気。だが近寄りがたさはなく逆に親しみすら持てそうな口調。
そんな彼女に背を向けてソフィアの方へ振り返ったミリナ。
「ソフィア、紹介するよ。私の魔法科時代からの友達、アリル=シグネート」
「貴女がソフィアさんね。ミリナから話は聞いてたわ、よろしく」
「えっと……はい、よろしくお願いします。えっと、ア、アリ……」
「アリルで良いわよ」
「え、っと……アリルさん」
ミリナやルミアとの関わりで少しだけ人間関係に慣れたソフィアだったが、初対面はやはり緊張するらしい。
そんな様子を気遣って気さくに接してくれるアリルに感謝を覚えつつ、「とりあえず座りましょうか」と案内された窓際のテーブルに腰掛ける二人。
席に着いてもそわそわしてラウンジのあちこちに目線を動かしながら興味津々のソフィア。
一度席を離れたアリルが運んできたカフェオレを目の前に、やっぱりここはカフェなのかも……と思ったりした。




