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ソフィアの朝は空気の入れ換えから始まる。
小さい頃からずっと過ごしてきたワンルームの窓を開けると、その外には見渡す限りの緑が広がる。
ソフィアの成長に合わせて少しずつ物の増減や入れ替えが行われてきた部屋は、大きいサイズに変わったベッドや勉強机を置いても十分なスペースが余る程だ。
それ以外に部屋の大部分を占めるのは本棚。
地理や地学、数学といった基礎的な勉学の教科書から、経済や政治、社会、心理学のような発展した分野の書籍まで多岐に渡っていて、その上で小説やエッセイのような娯楽としての本もたくさん詰まっているので本棚はいくら増やしてもすぐに埋まっていった。
そしてその本棚の中でも一番端― 机に最も近い場所に位置する部分を埋めていたのは数多の魔法にまつわる研究書だった。
勉強を教えてくれた母は魔法も得意で、ソフィアにいくつもの魔法を教えてくれた。
初めは物体を宙に浮かせる浮遊魔法に憧れてその術を学び、それが出来たら物体を自在に動かせるようになりたいと思って浮動魔法を勉強した。それも会得したら次は自分自身も宙に浮いて移動できたらいいなと思ったので飛行魔法を学んだ。そんな風にソフィアが願う「なりたい」は積み重なっていき、日々の勉強は続いた。
そして、ソフィアの憧れた魔法は一つ残さず母が教えてくれた。
ソフィアの思う「こんな魔法を使ってみたい」は全て母が知っていて、その姿にソフィアはより一層の憧れを抱いた。
家の地下にはとても広い空間があって、ソフィアはその場所で夢中になって魔法の練習を続けた。
大きな魔法に失敗して怪我をしそうになった時もあったけど、その時は母が助けてくれたし、ソフィアの憧れはその程度でめげるようなものではなかった。
ソフィアが学んだのは魔法だけではなくて、本棚を埋め尽くす様々な分野の本の数だけの知識を脳みその中に吸収した。
それを外に出て試してみたいと思ったことはないわけではないが、その欲を掻き消してしまうくらいには刺激的で楽しい学びがソフィアの周りにあった。
小さい頃一度だけ、外に出てみたいと母に頼んだことがあった。
だけど、その時母はこう諭してソフィアの頼みを断った。
「ソフィア、外の世界はとても厳しいの。今のあなたが出ていったら危ない場所だわ。
だからいつかあなたが外に出ていけるほど強くなったら、その時に外の世界を見せてあげるわ」
幼いソフィアはその言葉に頷いた。
だってたくさんのことを知っていて、勉強を教えてくれて、魔法も得意なすごい母が言っているのだから、きっと本当のことに違いないと。
そうして勉強に励んで、魔法の練習を続ける日々が一年、二年と過ぎていき、やがてソフィアは15歳になる。
物心ついた頃からずっと学ぶことが好きで、ずっと学ぶことを続けてきて、その期間は10年以上にも及んだ。
誕生日の夜は母だけでなく、病気がちで普段は床に臥せっている父も出てきてくれて、お祝いのケーキを食べた。
ごちそうも出て、とても楽しくて、そんな満足の中でベッドに入って―
そこでソフィアの記憶は途切れている。
次に目が覚めた時はどこか暗くて狭い場所に閉じ込められていて、必死に壁を叩いて脱出しようとしたら急に景色が開けた。それがミリナとの出会いだった。
初めて出た外の世界は確かに怖いと思うこともあって、母が言っていたことも間違いではないのかもしれない。
けれどそれ以上に初めて見る景色も、関わる人たちも、触れる文化も素敵なものだと思った。
小説やエッセイから外の世界の暮らしを想像したことはあったけど、自分の目で見る世界はとても新鮮で、刺激的だった。
そして、その中で一番輝いて見えるのはミリナだった。
ルミアやその両親、そしてプリドールに訪れる人たちからソフィアは色々な感情を受け取ってきて、感謝されたり、笑顔を向けられたりすることもある。
けれど、ミリナが自分に向けてくれる笑顔や、語り掛けてくれる言葉が一番心にすっと染み込んできて、それをもっと受け取りたいと思う。
楽しそうに喋っていたミリナとルミアの姿に抱いた気持ちが嫉妬だと気付いたのは、そういう自己分析をした結果だ。
小説の中で読んだことのある感情。それを実際に自分が抱くことになって、本当に外の世界に出てきたんだなと感慨深くなると同時に、この気持ちを持て余してしまってどうすればいいかわからない。
(どうやったら、もっとミリナさんと親しくなれるんだろう……)
けれど、外の世界を経験し始めたばかりの自分にはやっぱりわからないし、教えてくれる本もない。
ミリナが自分にもっと興味を持ってくれるには、関心を向けてくれるにはどうすればいいか、考える。
それからベッドの上を30分ほどゴロゴロと転がり続け、やっと思い付いたアイディアにばっと起き上がる。
「魔法の話、してみようかな」
ミリナは魔法が大好きだ。魔法の話ならいくらでも喋り続ける。
好きなことなら人は興味を抱くはず。
自分の今持っている魔法の技術がミリナのお眼鏡にかなうかどうかはわからないけど、それが一番いいように思えた。
夜になったら自分の部屋にこもりっきりのソフィアにしては珍しく、部屋を出てミリナの元へ向かう。
住み始めてから1週間が経って少しだけ慣れたこの家の空気。最初は戸惑ってばかりで息苦しさすら感じていたけれど、ミリナに対する親愛の気持ちが深まっていくのと同じように、この家にも少しずつ愛着のようなものを覚え始めていた。
ミリナの居室の前に立つと、少しだけ勇気を出す時間を置いてから扉を叩く。
「どうぞ」と声がしたので中に入れば、机に向かって本を広げたままのミリナがこちらを見やった。
「遅い時間に珍しいですね。なにかご用ですか?」
「え、っと。ミリナさんに、相談したいことが、あって……」
「ご両親のことですか……? 今日は特に成果がなくて……」
「あっ、えっと、それとは別、です」
促されるままにベッドに座る。
こんな時間でも勉強をしていたのか、普段着のままペンを握るミリナを見つめる。
水色の綺麗な瞳に射抜かれたような気がして少し縮こまる。
「あのっ、わたし、魔法のことで相談があって」
「魔法ですか……はい。というか私も聞いてみたかったんです。ソフィアさん、前から何度か魔法の話をされていたので気になってました」
「そのっ、実は、自分の魔法がどれくらい使えるのか、よくわからなくて。それで、何か調べる方法はないかな、って」
するとミリナが少し考え込むような仕草をして、それからはっと何かを思いついたように顔を上げた。
「あっ、ちょうどいいです。できますよ、魔法技術の計測」
「ほ、ほんとですか?」
「ええ、明日って休みじゃないですか。だからこの街の案内をしようと思ってて……それで、私の母校へも行こうかなと」
「? えっと、『ぼこう』っていうのは、ミリナさんが通っていた学校のこと、ですか?」
「そうです。もう1年前に卒業したんですが、ソフィアさんも入れるので一緒に行って、設備を使わせてもらいましょう」
勇気を出して良かった、とソフィアは思う。
ちょっとした一歩でこうやってミリナに近付けたと思うと嬉しい。
「あと、ソフィアさんから話しかけてもらえて嬉しいです。多分外の世界に出たばかりで大変かなと思って、あまり声を掛け過ぎないようにしていたんですが」
「そ、そうなんですか……? 気を遣わせてしまって、すいません」
そう語るミリナの瞳が優しくて、ソフィアはちょっとだけ申し訳ない気持ちになる。
だけどそれ以上に嬉しかった。
「でも、わたしも嬉しいです。ミリナさんと、もっとお話してみたいって、思ってました」
「本当ですか! じゃあ明日は色々お話ししましょうね。母校に行くのも楽しみです」
「はい。わたしも、です」
それからもう少しだけ話をして、部屋に戻ってベッドへ飛び込む。
枕をぎゅっと抱きしめて顔を埋めながら頬ずり。
「うぅぅ~っ! ミリナさんとお出かけっ、一緒にっ!」
嬉しくて、思わず頬が緩んで、自分でもびっくりするくらい明るい声が出た。
魔法の練習や普段の勉強とは少し違う、嬉しいという気持ちを抱いていることが不思議だ。
初めて知る高揚感で胸が高鳴ってドキドキして今晩は眠れそうもない。
けど早く寝ないと明日の朝起きられないかもしれない。
そんな気持ちを抱きながら、はしゃぎ疲れて数十分ほどしてソフィアは眠りについた。




