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あたしの絶対





胡椒、塩、油、卵黄、片栗粉・・・


大きなボウルに入れたお肉に卵黄を吸わせて馴染ませ、塩、胡椒、さらに油を加えて分離をよくして手でこねて混ぜ合わせる。

上漿シャンジャンと呼ばれる下拵えだ。


もう片方の手では、コンロでは豆板醤、ケチャップに油を加え、エビチリ用のソースを作り、その隣のコンロではペースト状にした胡麻に油を加えて火をかけ、芝麻醤を・・・その隣のコンロでは唐辛子にホワジャオ、それにドライみかんを加えたラー油を作っている。



夜鈴(いーりん)は下拵えの終わったボウルを抱え、冷蔵庫を開ける。

そこにはすでに、ボウルに入った肉や魚。エビなどを下拵えしたものがたくさん並べてあった。


それからまた1時間ほど、メインの料理と調味料油を作り、空いたコンロで最後は甘味として、黒砂糖の飴に下準備したピーカンナッツを加え煮立て、油で揚げる。


「うん」

最後にピーカンナッツの飴炊きを味見して、料理の仕込みは終了した。



コップに汲んだ水を一息で飲み、椅子に腰掛け深く息を吐く。



キッチンの流しには使用済みの調理器具が積まれ悲惨なことになっていたが、今は腕を顔の上に置き、何も見えないふりをしておく。


照明は必要最小限にしてカーテンも閉め切っているのでキッチンは少し暗い。

フロアは相変わらず、全てのテーブルは椅子を上げた状態で、お客さんが来ている気配はない。



『おはようございます! 本日も気になるニュースやトレンドなど、最新の情報をお届けいたします。こちら、全国ネット<神酒@Channel.radio局>よりお送りしております』



ラジオから小さく流れる音声。

目を閉じても現実は進んでやってくる。夜鈴は目の上に置いていた腕をどけ、だるそうに立ち上がった。



「シャワーは、浴びなきゃ・・・」








せーの!





「「シャオリンちゃーん!!」」



ボワ〜〜ン!!!!



銅鑼どらが鳴り、建物に設置された阿頼耶亭のアイコン(パンダのお顔)が描かれた垂れ幕をバックに、シャオリンはプールの飛び込み台から回転しながら落下する。


「きゃー!」

観客たちの黄色い声。



しゅたっ!


ふとましい体型ながら、見事に床に着地。

緑のハッピを着たパンダは観衆のわー!という拍手に迎えられながら、両手をYの字にあげて応える。




青空の壁紙には、たくさんの光の長方形の穴が空いている。

その穴の先からはエスカレーターがみょーんと伸びて阿頼耶亭の床に設置し、そのエスカレーターに乗ってお客さんは次々と来場する。




シャオリンの仕事は主に、館内を巡回し来場するお客さんを接待するスタッフ業務だ。

シャオリンの場合はさらに、そのフィジカルを活かしパフォーマンスとして踊って見せて場を盛り上げるのも仕事。



「わー! シャオリンちゃんだ〜!」

「シャオリンちゃんミョンミョンダンスおどって〜」

「やーだーおしゃしんとるの〜」

と、特に若い子向けの人気が高く、道中歩いているとよく手を引っ張られたりお腹あたりに抱きつかれたりもする。


シャオリンはいつも無口で喋ることはない。

感情を全て”動き”として伝える。遠くから見てもわかるように大胆にコミカルに、スケジューリングもタイトに詰まっていて、時に昼食も取れない時がある。なかなかハードな仕事だ。




歓迎光臨ホァンイェングァンイン! 蘭チェロだよ〜! 最近はすっかり肌寒くなって、もう朝起きるのが辛くてね〜、目覚ましの数がどんどん増えて、今はもう4つもセットし始めました。みんなはどう?』




本日は広告の甲斐あって麻婆豆腐を求めるお客さんが多く、シャオリンもそのエリアを周辺に回る。

阿頼耶亭で最も大きな建物。天守閣に設置されるディスプレイには大人気料理番組<アラヤ飯店 蘭チェロ>が放送されていた。

ちょうど、料理人服を着た阿頼耶亭の魔女・蘭チェロが、大きな四角形の包丁で青ネギをみじん切りにして麻婆豆腐を作っている回だ。



『ふふ! じゃあ早速、本日の菜単メニューの麻婆豆腐を作っていくよ〜!! 今回は阿頼耶亭より新発売されたこちらの高級ラー油! 材料に特別なスパイスを使っているとのこと、舌が少しピリピリする辛さだけど、その刺激がクセになるっということで、いただきましたが。

ーーーさて料理には本当に使えるのか?! というみんなの疑問を検証するべく、やってくよ〜』



 遊牧型店舗(ノマドショップ)である豊饒市・阿頼耶亭は、ショッピングモールのイベントスペースを転々と渡り歩く旅団として、非常に大きな人気を誇っている。青空の元で碁盤の目状に張り巡らされる市場型の飲食店舗という無二性。子会社の<茄子鹿運輸>による配送サービスと連携、お土産を持って帰るのが大変だわ、というニーズにもしっかり応えている。


プロモーションにも力を入れ、やたらと広告が目に入る企業ではあるが、ここまで成長できた背景にはやはり、企業の顔である魔女の存在が大きかった。



『完成です。いぇいぇい!!(ピースV V)』













「ぷはー」


建物の裏路地に引っ込んだシャオリンは頭の首を両手で持ち上げる。

その着ぐるみの中からはもう一人の阿頼耶亭の魔女、お団子頭の女子、夜鈴いーりんが現れた。



辛苦了おつかれー」「辛苦了〜、今日寒くない?」「理解それなー


通路の向こうではスタッフの談笑している声。

ちなみに阿頼耶亭スタッフの衣装は、帽子から垂らしたお札で顔を隠しているキョンシースタイルがスタンダード。


夜鈴は着ぐるみを隣の席に脱ぎ捨て、2Lペットボトルの水を直飲みしながら神妙な表情で配給された弁当の麻婆豆腐丼を食べる。



『昨日討伐されたエイカシアは1件。活躍したのは<W/COLORの魔女>ルゥファラフトです。この様子の放送予定日はーーー』


夜鈴の所持品の持ち運び用のラジオからは、時事ニュースが流れる。



「シャオリンちゃーん、出番まであと10分ー」

ふと、上の階からスタッフの子が阿頼耶亭のパンフレットを丸めてメガホンにして呼びかける。



「・・・はーい」


弁当を食べ終わり、目を閉じて半分寝かかっていた夜鈴は瞼をうすらうすら開けて答える。


のそのそ立ち上がり、お手洗いを済ませたあと、チェアに置いていたパンダの着ぐるみにテキパキと着替える。


マスコットキャラクター・シャオリンは再び光に照らされる表舞台へ出向くーーー











「遅くなっちゃった・・・明日も早いのに」

パーカーに着替えた夜鈴は、青空の下をキックボードを走らせる。



「あれ・・・?」


「閉店」と書かれた標識のかかったお店の前で止まる。

いつもは閉まっているはずの、厳かで上等な瓦屋根の建物。

今日は何故か開いていた。


その近くにはバイク(サイドカー付き)が止まっている。




「・・・何してんの?」



ハッハッハッハッ・・・!


首にスカーフを巻いた犬たち(八匹いる)が店内を歩き回っている。

夜鈴は玄関で立ち尽くしたまま、中にいる人物を見て眉根を顰めた。



「蘭チェロ・・・」




「あ、シャオリンちゃんおかえり〜! 勝手に上がっちゃっててごめんね〜、外寒くて」



店内にいたのは、阿頼耶亭では知らない人はいないほどの有名人。阿頼耶亭の魔女、蘭チェロだった。

黒髪をポニーテールでまとめ、ジャケットを羽織り動きやすいラフな格好をしていて、窓際の席に腰掛けている。


無言で立ち尽くす夜鈴。蘭チェロは店内を見回しながら楽しそうに言った。



「<片喰餐館かたばみさんかん>、懐かしいね。昔よくこっそり焼肉食べたに来たっけ」


「・・・。」


「ちょうどこの席で、シャオリンちゃんが注文取りに来て・・・ふふっ! あの頃のシャオリンちゃんはほっぺがお餅みたいでかわいかったな〜!」


「・・・。」


無言で動かない夜鈴。

蘭チェロは観念したように言う。


「えと・・・お腹空いちゃったの。シャオリンちゃんが作ったご飯、久しぶりに食べてみたいな、って」



「・・・出てって」

冷たい声。


「ここはもうお店じゃない。<阿頼耶亭の魔女>なら、よく知ってるでしょ?」


努めて落ち着いて話す夜鈴だが、言葉の端は怒りを隠すように震えていた。


「・・・シャオリンちゃんの夢、奪っちゃったのはあたしだもんね」


申し訳なさそうに顔を伏せる蘭チェロ。



沈黙。



・・・しつこい。




「いいから出てって! 勝手に入ってこないでよ!!!」


ドンッ、と開けたドアを背に、道を開ける。

店内を探索していた犬たちも驚いたように顔を夜鈴に向ける。


これ以上話すことはない。

夜鈴の頑なな姿勢に、蘭チェロは諦めて席を立つ。



「じゃあね、シャオリンちゃん。またね!」


名残惜しそうに手を振る蘭チェロ。

その後を犬たち(八匹いる)も順番に続き、振った尻尾が夜鈴の足にちょくちょく当たる。




バタン・・・ッ!



閉めた扉に背を預ける。

外からはバイクのエンジンのかかる音。

ライトの光がカーテンの隙間から漏れる。バイクは空を飛び上がり、飛び去っていった。


夜鈴は床にお尻をつき、膝を抱えて俯く。



「・・・。」



朝残していたキッチンの洗い物が綺麗に洗ってあった。




「バカにして・・・」



全ての照明が落ちる。

店内は光のない暗闇に満ちた。













ーーーーーーーーー











カシャン、カシャン!

ブオオオオオ!



ハサミの刃が交差し、長い髪の毛が床に落ちる。

濡れた髪にドライヤーが当たる。






 植物の蔦が縁を飾った鏡に映る、黒髪のショートヘアの女子。


花子の座る椅子の後ろでは、大きなオレンジ色のクチバシを持ったオニオオハシ(鳥)の美容師がハサミを持って自慢げに鋏をチョキチョキしていた。



髪色は以前の使い魔との戦闘で、変身しようとした時から黒くなってしまって戻らない。

カットしてもらって見た目は軽くなったが表情は晴れず、目元にはクマもできていた。



「ありがとうございました!!!!!」とけたたましく叫ぶ美容師の声を後にし、花子は俯きながら歩く。






世界が眩しい。

白昼夢の中を進むように、ぼんやりとショッピングモールの中を歩く。



今日は久しぶりに外出だった。

冷蔵庫の中で紫色の光に照らされて過ごし、気づいたら外の世界の気温が低くなっている。


アパレルショップでは寒空のコーデに身を纏ったマネキンたちが並び、その間を半袖の花子は寒そうに歩く。



髪を切ったのは、お風呂から上がって乾かすのにも寝るのにも、整えるのも邪魔でたまらなかったから。


歯ブラシと歯磨き粉も買わないといけないし、この感じだと服も必要だ。


生活の負担を一つづつ片付けていく・・・



久しぶりの外出で、気分が変わると期待していた。

前は楽しかったショッピングも今は全然ワクワクしない。


髪を切ったって変わらない。



「わっ!」


花子は何もないところでつまづき、地面に膝をつく。

靴のバンドが切れた。


新しく靴も必要になってしまった。



ーーー息、苦しい・・・足痛い。帰りたい



花子はカバンからこぼれ落ちた財布やハンカチ、さっき買った歯ブラシなどを拾い集めていく。


あまりにも惨めで泣きそうになる。

他のお客さんたちはなんでもないように花子の横を通り過ぎていく。


ふと、財布にしまってあった映画のチケットが目に入る。

ルゥからもらった映画のチケット。


「・・・。」


花子が歩いていた遊歩道の向かい側には、<プライマル・シネマ>の怪しい雰囲気の映画館が見えた。



こんなものに縋っても何にもならないのは、分かっているのに・・・。



「弱いな。私」











ーーーーーーー











ぽつ、ぽつぽつ・・・・





ザーーーーー





地下のダクトに設置されたカラクリ時計の針が15時を指す。

銀色パイプより流れ出すホログラムチックな水がマンホールから吹き上がり、何本もの円柱の水柱が阿頼耶亭の空へと立ち上る。


虹色の雨が降る阿頼耶亭。

水路に流れ込んだ雨が水車へ流れ込むと、それはもくもくと大量の泡(bubble)を生産する。


まるで雲のような泡が水路を溢れあまり、豊饒市を包み込んでいく。



今日は阿頼耶亭の移転日。

店内を浄化して、ホログラムの觔斗雲きんとうんでお店を運ぶ。


青空の壁紙も、ホログラムの雨色に合わせたパステルカラーのかわいらしいピンク色に変わっている。



「「「好吃(ハオチ〜)」」」



ちょうど今は3人連れのお客さんがお店に来ていた。


ここは夜鈴が過ごしているいつもの料理店ではなく、活気のある通りの出店。

魔女の仕事と被らない日程にはこうやってたまに、お店をレンタルして出店を出すようにしていた。


出店で働いているのは夜鈴一人だけ。


こじんまりした場所でキャパも広くない、景観も一等地の屋台たちに比べると寂しい。

それでも、一人でこうしてお店を回せている。

最近はお客さんも少しだけ増えてきた(今来てるのはキョンシースタイルの同じ同僚だが・・・)


それでも今だけは”シャオリン”ではなく、”夜鈴”として、働いていた。




謝謝ありがとう


お客さんからお金を受け取り、手を合わせてお礼を言う夜鈴。


ガチャガチャと洗い物をしながら、そろそろ店仕舞いを始める時間になってきた。



『<阿頼耶亭は>近いうちに魔女を一人に削減すると発表しました』


ラジオから流れる音声。



『高級料理店・旧<片喰餐館かたばみさんかん>が<豊饒市・阿頼耶亭>に吸収合併されてしばらく経ちますが、阿頼耶亭は引き継いだ魔女のライセンス料をmagia&co.に支払い続けています。魔女のライセンスは非常に高額で、一つの企業に二つもアルカナがあるのは、収支の面ではあまり良くないように思われますが、いかがでしょうか?』


『詳しいことはまだ・・・しかし、年々エイカシアが減少傾向に向かっている状況を鑑みれば、可能性として十分考えられるかと思われます』


『長年<阿頼耶亭の魔女>を務めてきた蘭チェロがポストに残るだろう、と意見も多いですね』


『まだ結果が出たわけではありません。今後、夜鈴が巻き返してくる可能性も十分考えられます』



『今後の動向に注目ですね。それでは、次のニュースですーーー』




「・・・魔女に向いてないなんて、どの口が言うんだか」



営業が終わり、店の外の看板を片付ける夜鈴。


ふと、足を止める。

雨が降った後の水たまりに反射した自分の姿が一瞬、昔のあの頃の幼く無邪気な自分が笑いかけているように見えた。


夜鈴は困ったように肩をすくめる。



「あんまり見ないでよ。恥ずかしい・・・」



別に夢なんて呼べるような大層なことじゃない。

あたしにはこれしかなかった。それだけ。




片喰餐館かたばみさんかん

今では存在しない高級料理店。


最初の夢。あの料理店で他のみんなと一緒に働いていた。見習いだからって可愛がられてたけど、あの頃も毎日がむしゃらだった。


ずっと、みんなに認められたかった。

きっといつかはって・・・そんな毎日に疑いなんか持っていなかった。



あの日、あたしは恐ろしい魔女に呪いをかけられた。

恐ろしく甘美な魅力。運命を変える強い重力。それがやっと解ける。


後悔はない。

魔女じゃなくなったって、明日は来るんだから。



ーー後悔はない。






『ーーー臨時ニュースです』



ラジオの音が急にひりついた冷たさを帯びる。

夜鈴は特に気にせず、閉店の片付けをしながらいつもと同じようにラジオの情報に耳を傾ける。





『阿頼耶亭の魔女、蘭チェロが、魔女を引退することを発表しました』





「は・・・?」



ガラガラ・・・!



夜鈴は抱えていたのぼり旗を落とした。
















ーーーー3ーーーー





ーーーー2ーーーー





ーーーー1ーーーー









砂浜へ波が到達する。







<プライマル・シネマ>


ーーー上映中:『怪盗キャットSHINEs”Q”』



世界的な怪盗キャット、SHINEs”Q”。ブリリアント、プリンセス、オーバル、ブリオレットの4姉妹は、宇宙からやってきた奇跡のダイヤモンド、<スペースラヴァー>を手に入れるべく、サーチライトがにらみを効かせ警官の足音が響く摩天楼の街を駆ける。


そのダイヤモンドには不思議なパワーが宿っていた。

手を触れずとも物を引き寄せたり、空を飛んだりといった超常パワーに目覚めることができるのだ。

スペースラヴァーを手にし、世界を制服しようと企む悪の組織グモウスキー。組織はその超常パワーを使い、次第にSHINEs”Q”を追い詰めていく。


一体どうなる!? SHINEs”Q”!!!



・・・という内容のシリーズの劇場版だが、一度も作品を見たことがない人でもわかりやすい。

ポップで可愛らしい絵柄、ギャグ要素が強いカートゥーンアニメーション。



場面は、遂にグモウスキーに捕えられる4匹。圧倒的超常パワーを前に、得意の察知能力や変装技術、パワーもメカもどれもが敗れてしまう。


自信を失ってしまう4人。

しかしそれでも諦めない。一度狙った獲物は絶対に盗み出す。

それが私たち、<SHINEs”Q”>よ(バーン)!!



という、展開的には挫折からの立ち上がりのシーンだった。






花子はここ最近毎日、ほとんどの時間をこの映画館で過ごしていた。


人は誰も来ないし、寝てても誰からも何も言われない。

受付の隣でポップコーンやチュロス、ドリンクも売っているので、お腹が空いてもなんとかなってしまう。



「・・・。」



花子はその光景を見ているようで見ていない。

意識はスクリーンの向こう側、黒い星の瞬く空に想いをはせる。



カラーボールがふよふよするプールの中。

息ができない水の中。


花子の体はどんどん水中深くまで沈んでいき、底に溜まった泥みたいなところに足が嵌ってしまう。

もがいてももがいても、体はどんどん泥へと沈んでいき。

やがて、頭のてっぺんまですっぽり沈んでしまった。



暗闇。


目を閉じるーーー



そう、ここが現実。



あの世界はスクリーンの中の夢。ドーナッツの穴から覗いて見えた映像の宇宙ゾートロープ

そんなものに心を囚われて、物思いに耽り、現実が立ち行かなくなるのなら、そんなもの見ない方がいい。


結局、ここで生きているのが辛くなるだけだ。



「みんな、嫌い・・・嫌い」


無意識に出る言葉。

体に蓄積された不快感が破裂して、今にも気が変になってしまいそうだった。





「え、ひどいよ〜」




映画の爆音に混じった、微かな声。

花子は最初聞き間違いかと思ったが、よくよく気になって周りを見渡す。



右後ろの列の、少し離れた席に誰かが座っていた。


いつもいないからって油断していた。



映画のスクリーンのわずかな光に照らされるシルエット。ショルダーレスのベージュのトップスにパンツスタイル。前髪を上げて大人な印象がある。

しかし今は左右が赤と青のヘンテコの四角いフレームのメガネをかけていた。



花子たちの背ろの席には、『映画館内はお静かに!』と吹き出しに書かれた泣き顔のドリンク容器のキャラの立て看板が立っていたが、二人は軽くスルーする。



何故か花子の隣に引っ越してきた女子は質問する。



「映画、楽しくないの?」


「・・・。」



「みんな、自分のことばかり」


悪の親玉ミラは、スペースラヴァーを手にロケットで逃げ宇宙に渡り、暴走した強大な超常パワーを使って小惑星を落とす。


小惑星が地上に降ってくる。主人公SHINEs”Q”のメンバーたちは同じく宇宙に上がり、隕石を押し返そうと躍起になっている。



「誰かのことを嫌いになったりしたくないです。役を奪ってまで、魔女になりたくもないです」



こんなの、初対面の人に言うことじゃない。

けれど、久しぶりに喋ったせいか、あるいは女子が醸し出す雰囲気のせいか、花子の胸にたまった思いが言葉としてするする出てくる。



映像が暗転し、映画館が闇に包まれる。

静まり返った館内で花子の声が小さく響く。


「何かするのが怖い。私が変わっちゃうから。変わっちゃったら忘れられて、無視されて・・・だからせめてみんなと一緒に」




グーーーー〜〜・・・



奇妙な音に花子の言葉が止まる。



「あらやだ、恥ずかしいわ〜!! えへえへ」


隣の人物のものお腹の音らしかった。



小惑星は押し返された。

無事、星の平和は守られたのだ。


スペースラヴァーはSHINEs”Q”のメカのパワー源となり、砕けて粉になった。4人は落ち込むが、また新たな宝の情報を得ていつもの日常へと戻っていく。



バイオリン主体の少しノイズ混じりなミュージカル音楽。

エンドロールが開始される。



真っ暗な空・・・しかし寂しくはない。

あちこちで白や青、黄色や赤といった様々な色の星が輝き、手前には丸く大きな星の影がカットイン。

映像は、その影に隠れていた巨大な赤い星が姿を現す。




「ーーー1万年」




「1万年。それだけ月日が経ってもね、案外変わんないもんだよ。見た目も、性格も。

人って、生き物なの。星が作った水とか金属とかでできてる」



光を放つ球体が二つ、まるで渦に聞き込まれるように回りあう。

最後には衝突し、明転。


その光は遥か遠く、宇宙の果てからやってくる。

作中に登場したスペースラヴァーは、その星の衝突によって弾けた破片だったとわかる描写だった。

最後は主人公によって燃え尽きてしまったダイヤモンドは、とても遠くから長い年月をかけてやってきた。


きっと、生き物が今とは違う形だった時から。

なんだか壮大な物語を感じた。



「すごいね〜。観に来てよかった」



グーーーー〜〜・・・


再び腹の音も繰り返す。


花子は少し居た堪れなくなって、困ったような感じになった。



「あの・・・食べますか?」


「ありがと〜! でも今ダイエット中で、何も食べちゃダメなの。悲しい〜ぴえんぴえん」


目元に手を当てて泣く真似をする。



愛嬌がある人。

姿は暗くて少ししか見えないが、きっと魔女さんなんだろうな、と花子は思った。



「大丈夫。花子ちゃんは一人じゃないよ。自分のこと、大事にね」




背伸びをしながら席から立ち上がる女子。

高い身長。スラリとしたボディ。その一挙一動に、途方もない努力を感じさせたのは、きっと花子も魔女だから。


その世界を見た人にしか分からない、この世界に確かに存在するモノ。



「そろそろ行かなきゃ。超超楽しかったね〜!」




< STADIO App都ゥ U


    ーーーENDーーー    











 向かい合わせの鏡。

その無限に続く鏡の中に、花子の姿が果てしなく映る。



「全然想像つかないや。一万年なんて」



花子は、明るいライトに照らされた眩しいトイレルームで、水に手を浸しながら、鏡の前で小さく笑った。


その笑顔は、昔からあまり変わっていなかった。














******************
















ゴゴゴゴゴゴゴーーーーー






壁同士がトランスフォームを開始する。

離れていく壁の隙間からは赤色の空が覗き、水面のキラキラとしたプールが目の前にひらけた。




コツ、コツ、コツ、

静寂の暗闇の中に響くハイヒールの音。



『アンコールありがとう。次で最後の曲になっちゃったけど、あたしはまだ満足できない。

次でラスト・ソング!!! みんなで最高の思い出にしよう!!!』



ガシャンッ! と複数のスポットライトが頭上から蘭チェロを照らす。


短めのタンクトップとデニムパンツの活動的な装い。

モコモコ付きのヘッドフォンマイクを耳から装着し、ライトに照らされたネックレスがキラキラと光る。


蘭チェロは長いふわふわカールさせた髪を両手でふぁさ〜と払い、腕を翼のように広げた。



ゴオン、ゴオン、ゴオン・・・



見上げるほどの巨大な換気扇が回り始め、奥から赤い怪しい光が差し込む。

その風を受け、客席のたくさんの赤い小さなかざぐるまが回り始める。


ミュージックがスタート。

イントロが巨大スピーカーから流れ出す。



『・・・よかった。来てくれないかと思っちゃった』



何かに気づいた蘭チェロは観客席に問いかける。



観客席にスポットライトが落ちる。


かざぐるまの客席から姿を表すもう一人の阿頼耶亭の魔女。

小夜鈴シャオイーリンだった。



「思い出なんかいらない・・・」



観客席の赤い風車が回転を早め、巨大換気扇と空気の衝突を起こす。

空間に魔力が満ちる。




「辞めるなら、殺す!」



風ぐるまの花畑の中。夜鈴はアイラッシュ・カーラーを手に構え、唱えた。




「ターンプリモルファアテンション」


夜鈴のシルエットが真の黒へと染まる。

ガラスのひび割れが空間へとエクステンションし、それは夜鈴を繭のように包み込む。




「おいでよシャオリン。踊ってあげる。

ーーーターンプリモルファアクティベーション!!!!」



蘭チェロのシルエットが虹色の光に包まれる。

取り出したアイカラー・パレットを開く。

4色のパレットが並ぶうち、発光する真っ赤なパレットを指でなぞると、空間に丸いドリーミンな泡が広がる。





「「メイクアップ」」



ステージ上の巨大スピーカーからは、蘭チェロ・プロデュース楽曲。軽快なフューチャーファンクミュージックが流れる。



蘭チェロの衣装は以前の赤色の阿頼耶ドレスから更新された。肩出しブラウスにかぼちゃパンツ。赤色を基調とし、以前の阿頼耶ドレスの風味を残しながらもステージの世界観にマッチした特設の魔女衣装に変身する。



『万象を照らす赤き巨星。豊饒市・阿頼耶亭の魔女、蘭チェロスター。参上っ!!!』



指を客席に向かって指すと、花火クラッカーと共に銀テープが客席に向かって発射される。

熱狂する赤い風ぐるまたち。その自身の高速回転のせいで、風車はどんどん空に向かって浮上していく。



夜鈴はステージから放たれた銀テープを避け、ステージへ突撃。



召喚した鉄扇を、蘭チェロに向かって叩きつける。




ーーパキンッ!!!!!



魔法同士の衝突。空間がガラスのようにヒビ割れ、空間の破片が光を放ちキラキラ輝く。




「思い出も過去も邪魔だ!!! 消えてよ、全部!!!!」



蘭チェロは竹製トンファーで夜鈴の猛攻を受ける。

その度に空間がガラスのように割れては再生する。


夜鈴は獲得したエネルギー量を使い、すかさず2本目の鉄扇を召喚。

自動追尾する鉄扇が背後から蘭チェロに切り掛かる。



しかし、攻撃は蘭チェロには届かない。


ーー圧縮の魔法。

不可視の空気の塊が蘭チェロを中心に解放され、夜鈴は場外へ吹き飛ばされた。



「くっ!! どこっ!!」


「まだ舞えるでしょ? その扇子でさあ!!」


ステージ上にはすでにいない蘭チェロ。

姿を見失った夜鈴は、慌ててその声に振り向く。


蘭チェロの手で顎を掴まれる。



「いつ見てもかわいい、シャオリンちゃん」


「ーーーッ!!!」




蘭チェロは鉄扇を避けるとそのまま軽やかに宙をかけ、天井の黒い鉄格子へと逃げた。

夜鈴は我を忘れたように怒り、その姿を追う。



天井のまばゆい白熱電球を通り過ぎ、天井にはぐり巡らされた黒い鉄のパイプやダクトの網目をかいくぐりながら、両者は打ち合う。



「光魔法と闇魔法」


夜鈴の攻撃を受け止めながら蘭チェロは言った。



「設計者は二人の兄弟。兄弟はついに仲違いしたまま、残された呪いだけが今も深く、その奥に残されている」



対消滅する魔法は、その一部を空間(dimention)へと変換する。

ガラスのように割れる空間の破片は空気へと溶け、やがてはこの宇宙全体を拡張する。



「こうなるのは運命だったのかもね」


「鬱陶しい!! 嫌い!! もう話しかけないで!!!」



弾き返される両者ーー



演奏されるバックミュージックは亜空間に突入したせいか、くぐもり奇妙な不協和音や音飛びによるフレーズの繰り返しを作り出す。



夜鈴は葉を食いしばる。

視界が狭い。闇が深くなる。それでも、光は見える。



「あたしの心、振り回さないで!!」


夜鈴は手を宙に横凪に払う。



「来てよ!! ”三体シャンティ”」



三つ葉の鉄扇が高速回転しながら蘭チェロへと迫る。


3次元で張り巡らされる鉄パイプやら孔子、骨組み群の間を華麗に駆け回る鉄扇は蘭チェロへと直撃した。


それでもーーー



回転を止められ、三つに分解する三つ葉の鉄扇。



吸収の魔法は外部のエネルギーを利用する。

吸収したエネルギー量が低いと、回転力は持続せず、トルクも弱い。



つまり、最初から蘭チェロは本気じゃないのだ。

それを見破れなかったのは、夜鈴の頭に血が昇っていたから。



体にかぶさる、柔らかい布の感触。

暗すぎて見えなかった。鉄格子を抜けた先の一番奥の天井の幕。

幕は夜鈴を包み込み、動きを完全に阻んだ。




ーー勝てない。


怖い。

きっとあたしには、あの人の気持ちは分からない。







暗い、もやがかかる暗闇ーー


今は営業していない料理店。


膝を抱えて無重力を漂う夜鈴の背中に、ふと暖かな光が当たったのに気づく。

眠たい目を擦り、振り返る。



闇の世界を照らす光。


超巨大な、真っ赤に輝く星が燦燦と輝いていた。

星は緩やかに自転して、時折巨大な磁力ループの炎を吹き上げる。


空間はシアンのグリッド線が引かれ、オレンジ色の灯籠が星までの道筋を示している。



ーーカンッ!!



闇の世界を燦然と照らす、星の煌めきに映し出されるランウェイを歩いていく人物のポニーテールが揺れる。


その大きな重力(attention)は時空を歪め、世界をスローモーションにした。



ーーーはじめて会った時からそうだった。



赤い星へ一人、歩いていく人物。

その後ろ姿はどんどん小さく、遠くなっていく。



「顔だって、見たことない・・・」







一面の草原。

亜空間の先の阿頼耶亭の宇宙。



真っ黒に塗りつぶされた空には星すらない。

光源が不在の、明るい草原に夜鈴はいた。



なだらかに勾配が続く草原の向こうに誰かの影。


それは、蘭チェロだった。

顔は歪なグリッチノイズで塗りつぶされており、表情は読み取れない。

蘭チェロは夜鈴に向かって手を振っていた。




「影、もう見えないの」


丘を登る二人。

草が風にゆれ、波のようにさざなみを作る。


「・・・。」



「だからもう、魔女は卒業」

左手前を先行する蘭チェロの後ろを夜鈴はついていく。


「・・・。」


夜鈴は蘭チェロの手を引く。



「いい加減にしてよ!! そんなの、あたしが気づかないわけないでしょ?! いつまでも子供扱いしないでよ!!」




夜鈴は目で見るだけでその人のことを大体理解できた。性格、仕事とか、今考えてることや嘘だって・・・繊細に。嫌と言うほど。


だから顔のない人間を、生まれてはじめて見た。


蘭チェロのことが、ずっと分からなかった。ーー怖かった。





「あたしが蘭チェロの”目”になる」



草原の丘の上。



[ Departures 出发

0815 月 ]



そこには案内看板(information)が一つ立っていた。



「こんな訳わかんない世界でもさ、一つくらい信じたっていいじゃん。そしたらさ、もう怖いことなんかないんだから! ーーー信じてよ・・・」



ーーーー



「魔女、辞めないでよ・・・」

絞り出すように言った。




闇が明けていく。

黒から青竹の肌の色へ。

逆光の黒い雲が空を漂っている。



「大きくなったね。シャオリン」



光がさせば影が生まれる。

空の端に追いやられ、凝縮された闇。巨大な星が空に大きな穴を開けた。







黄昏時トワイライト・モードーー




青竹の肌の空。

草原の波が止まる。



風は消えた。しんと静まり返る空を見上げる二人。




水平線の上にぽっかりと浮かぶ黒い巨大な黒い星。


その星の方向から、何やら、にぎやかなものが近づいてくる。




[ 纏?めんそ〜れ?纏 ]






それは秘密の園に咲くダイヤモンドで飾られた、眩く白銀にライトアップされたエスカレーターだった。



接近につれ、あたりには陽気で軽やかなアンビエントミュージックが聞こえ始める。


動物たちの声が鳴き響き、軽やかでポップな電子音が奏でられる。

しかしどこか息苦しくなるような、影のない音楽。


エスカレーターの白い光は、二人をサーチライトのように照らし出した。



「あ」




空から振ってきたのは、一枚の羽衣。

煌びやかで透き通った、水素でできた衣はゆっくりと、風にはためきながら降りてくる。



蘭チェロはそれを手に取り、背に纏う。



蘭チェロのシルエットがホログラムチックに白く塗りつぶされ、体が浮き上がる。

銀色のミラーボールが空中へ展開し、それが緩やかに回転を始める。



[ uninstaling …]



蘭チェロの体の周りを、光の粒子が円盤状に回転。


ホログラムに光を反射する、<クリスタル・ディスク>が手に収められた。






夜鈴の瞳の中で、<片喰餐館かたばみさんかん>の扉が開く。


その日は一緒に働いているみんなは忙しく、急遽見習いの夜鈴がオーダーを取りに行くことになってしまった。

そこで偶然対応したお客さんが、お忍びでやってきていた蘭チェロだった。



ーーー「シャオリンちゃん、魔女に興味ある?」


サングラスを下げて夜鈴に話しかける蘭チェロ。

人見知りの夜鈴は結局、蘭チェロの顔を見れないまま、緊張で終始ずっと目を伏せてもじもじしていただけ。会話の内容もよく覚えていなかった。


でも、夜鈴の運命の軌道が変わったのは、間違いなくその時だった。







「良かれと思ってやっとことが全部裏目に出ちゃう。あまり人の気持ち、分からなくて・・・シャオリンちゃんにもどう接していいか、ずっと悩んでた」


「いや」


「引き継ぎだってちゃんとしたかった。阿頼耶亭のこと、まだ許せないと思うけど・・・仕事、押し付けることになっちゃった。ごめんね」


「いや。そんなことどうでもいい! あたしはただ・・・!」




光のエスカレーターが草原へと緩やかに着地する。

輝く雲、花壇に並ぶハイビスカスとヤシの木で彩られ、楽しげな雰囲気だが、今の夜鈴は何も楽しくなんかない。



言いたいことは山ほどある。

怒りたい事、不満なこと、あの時の行動の意味。蘭チェロについて、夜鈴はほとんど何も知らない。

今まで向き合わないようにしてきた。

蘭チェロは自分のことを話してくれないから。


ーーーバカにされてるんだと思っていた。


同じ<阿頼耶亭の魔女>で、絶対に勝てない存在。

優しくしてくるのは同情されてるから。会社の都合であっけなく辞めさせられるような、魔女として弱いあたしをこの世界に誘った張本人。




ーーーそう。これで最期おわり



ふっと胸の奥に溜まっていた想い。夜鈴は一番大切なことをそっと言葉に掬った。



「蘭チェロみたいになりたかったの。ーーー今だってずっと・・・。後悔なんかない。今の自分だって好きなの!」


夜鈴ははじめて笑顔を見せる。

空にはかわいらしい、小さな白い花の君影草が舞う。



「あの時、声をかけてくれてありがとう。蘭チェロのおかげであたし、生まれてこれたよ」




『您乘坐的航班现在开始登机。请带好您的随身物品、由4号登口登机』

エスカレーターから搭乗アナウンス。



カチカチカチッ!


キャリーケースの取手を伸ばし、キャスターが床を転がっていく。

キャリーケースと一緒にエスカレーターに上がった蘭チェロは、夜鈴に向き直り、大手を振って叫んだ。




「「我愛称(ウォーーアイニ〜)!!! シャオリ〜ン!!」」




「・・・恥ずかしいって」

顔を赤くし、小さく手を振りかえす夜鈴。



二人の距離は離れていく。

夜鈴の両手に収まる、蘭チェロのクリスタルディスク。



阿頼耶亭の聯星(連星)と形容された二人。

そのうちの大きな赤い主星が沈んでいく。



この時、夜鈴は蘭チェロの顔を、はじめてちゃんと見れた気がした。





ーーー拜拜バイバイ。あたしの絶対
























「・・・。」



風ぐるまの頭のお客さんで満席の映画館。

映画館のスクリーンには、鳳仙花の入った花瓶がたくさんの教室机に置かれている映像が写っている。


その教室机と鳳仙花を照らす照明。あの大きな黒い星の方角からやってくるキラキラ光るエスカレーターが中央上方の一番目立つ位置に写っていた。




ーーー懐かしい感じ・・・



「なんだっけ・・・」



『お迎えだ』


花子の言葉に誰かが答える。

その声もなんだか久しぶりだ。



『月に還るには、道が必要だろ?』


花子の後ろの席、一席だけ背中合わせになって配置される席の人物は答える。



とても、果てしなく長く、はるか遠くまでのびるエスカレーター。

その先には光すらも吸い込む巨大な重力の黒い星が、空にできた穴みたいに静かに浮いている。


あの黒い穴に落ちたら2度と帰って来れない、そんな気がした。



「なんで? おかしいよ。・・・」



『何が・・・?』



「なんでみんな止めないの?! そこにいるのに。今ならまだ、あの距離ならーーー」



『それが蘭チェロスターの望んだ願いだからだ』


「・・・。」


『優しいだろう? 世界は』



ーーー『魔法で世界は変わらない。ならお前は、どうやって世界を変える?』



かつてその声に言われた言葉が頭に響く。

花子はハッとして顔を上げた。




「ーーー私が、変える・・・」



ゴロゴロ、と花子の足元で何かが足に当たった。


それを手に取る。

黒いりんご、その表面には「 EAT ME! 」と刻まれていた。



『お前はなんにでもなれる』



嘲るような言葉。手のひらの上で転がされている感じがした。


でもこの”力”があれば、望みは叶う。

”私”を書き換えながらーーー確実に。



『魔法はお前自身の中に』



花子はりんごを口へ運ぶーーー



その時。

物陰から、さっと小さな影が飛び出す。



『なんだこいつ!!! やめろ!! 離れろ!!』



謎の人物の慌てふためいた声。

花子の瞳に正気が戻り始める。




『このっ!!!』



にゃ”っ!!!



小さな生き物の悲鳴。

花子のボヤけた視界の端を、何か黒くて小さなものが床を滑ってスライドしていった。


それは蹴り飛ばされた黒猫だった。

花子は我にかえる。



『獰悪な奴め!! 皮を剥いで煮て食ってやーーーぐえっ』


「ひどいっ!!! 最低!!」



花子はそいつを背後から突き飛ばして転ばせる。


見た目に反してかなり手応えがなく、その影は頭から通路に倒れて、崩れた。



花子は駆け寄って黒猫を抱える。

息はあるようだがぐったりしている。



崩れかけた黒い塊をボトボトと地面に落としながらよろよろと立ち上がる黒い影。

口が壊れたせいか、うまく喋れず奇妙な呻き声をあげる。



怖い。しかしそれ以上に、今はもっと重要なことがある。

花子は黒猫を両手で抱えると、早足で映画館の中を走った。



「・・・今ならまだ」



映画館のスクリーンへ飛び込む。



スクーリーンの幕を抜けると、そこは一面の草原ーーー



そこではすでに、カメラを背負ったカメや、単眼レフのカラス、もこもこのマイクを持ったマーモットがたくさん待ち構えていた。


花子はそれに一切構わず突き進み、エスカレーターの元までやってきた。


白い光がピカピカしてとても眩しい。花子は目を細める。

近づいたエスカレーターの手前。光に遮られる薄い影が一人分。


夜鈴が顔を背けて床にぺたんと座っていた。



「夜鈴さん・・・っ、私、!」




「何も知らないくせに、変なことしないでよ・・・お願いだから」


こちらを振り向かずにそれだけ言った。

途方に暮れていて、まるで覇気がない。




「・・・ここにいてね」


花子はぐったりする黒猫を草原の上に置くと、少しだけ夜鈴へ目をやって、何も言わずその脇を通り過ぎ、エスカレーターに乗った。








「はぁ、はぁ・・・」



昇っていくエスカレーターの階段を花子は駆ける。

本当に長く果てしない。空の真っ黒い穴に向かって一直線に伸び、果てが見えない。



でも果てになんか興味はない。


ーー見つけた!


透き通った水素の羽衣を纏う蘭チェロが振り向く。



「そっか。あなたが花子ちゃん・・・」



「蘭チェロ、さん・・・?」



「<始まりのアルカナ>。もう来てたんだね。もっと先の話かと思ってたのに・・・」



蘭チェロは少し難しい表情をして考え込む。


しかし花子には何も分からない。

花子にはあまりにもこの世界のことを知らない。

魔女のこと、エイカシアのことも。<始まりのアルカナ>がなんなのかも・・・




ーーー嗚呼。何をやってるんだろう。私。



心のどこかに、冷静な自分がいた。

蘭チェロとはただ少し映画館で話しただけ。


ただそれだけの関係性で引き止められるなんて、蘭チェロのことを本当に思っている人たちからすれば顰蹙(ひんしゅく)そのもの。


でも今は走るしかない。走って、その手を掴んで、引き留める。

後のことは、恥もプライドも、みんな置いていく・・・!



「魔法が生まれた場所、<neoサイバークラウド>。そこに行けばきっと、花子ちゃんの本当の願いが叶う、・・・もしも花子ちゃんがこの世界を好きでいるのなら、絶対」



花子と蘭チェロの距離が、みるみるうちに離れていく。

どんなに走っても、蘭チェロとの距離が広がる。


ついに花子は階段につまづき、転んでしまった。



「私、蘭チェロさんのことだっで大事です!!! みんな大好きです!! 近くにいなくても、話せなくてもいい。この世界のどこかで生きてるんだろうなって、感じられるだけでそれだけで、私。ーーーお願い、月になんて、行かないで!!」



花子は子供になっていた。

初めてこの世界に来た時みたいに。階段を登るごとに、どんどん背が縮んでしまっていたのだ。



「花子ちゃん・・・」


花子の悲痛な訴えに、蘭チェロは一段、エスカレーターを降りてしまう。


後悔。未練。断ち切った色々なものが再び、蘭チェロを地上に繋いでいく。

羽衣が輝きを失い始め、花子と蘭チェロの距離が3段に近づいた時だった。



その時、何かが蘭チェロの頬を掠める。



「睡蓮・・・?」



ピンク色の花びら。


しかし蘭チェロの目線はそこではなかった。

花子の方を向き、目を凝らし、何かを見つけ、微笑んだ。



「そっか・・・」





「花子ちゃん。あの子のことも、よろしくね」





「待って!」


手を伸ばす花子。

その手は空を切る。



エスカレーターは速度をあげ、どんどん上に登っていく。

蘭チェロの姿が遠く、小さくなっていく。



花子の足がエスカレーターの最後の段差を踏み外した。




ーーーあ。



体が宙に投げ出される。



エスカレータがみるみるうちに遠ざかっていく。

手を伸ばしても届かない。何も掴めない。何も変わらない。


結局私の力なんて、こんなもの。




「ごめんなさい・・・ごめんなさい!」



花子の涙が空に舞う。

その光景もすぐに途切れる。

立ち上る水飛沫。




プールに沈んでいく花子。



空気の泡。

そして、カラーボール。



カラーボールがふよふよ浮いたり沈んだりしている、水色の空間。




振り出しーーー



この世界で最初に見た光景。

この後、溺れかけている花子を助けるのが、フラミンゴバーガーのみんなだった。



嗚呼。

ずっと辛い。ずっと苦しい。もういいよ。全部




花子の口から泡が飛び出る。

そしてそのまま、ゆっくり目を閉じた。















 水のように掴みどころがなく、体の中に入っては出ていく。ホールに残響するアンビエントミュージック。



黄昏時は明ける。

今日も新しい一日が始まる。




『welcome 都ゥ ニューヴェイパーシティモール

蜃気楼フロアはあなたを待っています。No.4アセンションゲートより搭乗』













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