死を避ける
父を救おう――一週間後、僕はそう決意した。
この数字は、僕にだけ見える。誰もの頭の上に存在するこの数字は、僕たちの残りの人生を表している。つまり、余命というやつだ。僕は、余命を見ることができる力を――異能を持っていた。
幸い、この世界にはそうしたオカルトじみた話はたくさん存在した。中には、僕と全く同じ「余命を見る力」を持つ主人公の話もあった。死の数日前になるとその人の死の瞬間は一分一秒までわかる人、僕と同じように死亡までの日数が見える人。
そうした物語に登場する人達には実はモデルがいるのではないだろうか。あるいは、その物語を書いた人が、余命を見る力を持っているのではないか――僕のように。
それらの物語は、僕にとっての希望だった。
ファンレターを模して手紙を出した。
『先生は余命が見えますか?』
手紙は帰ってこなかった。もし作家や漫画家の人が余命を見る力を持っていたら、何かの反応があるだろうと思っていた。けれど、反応はなかった。
それでもよかった。僕が足掻くための手本は、そこに物語の形で存在していたから。
とある漫画を、僕は読みふけった。人の死を見ることができる主人公が、余命がわずかになったクラスメイトを救うために、余命の数字を変えようとする話だ。
その主人公は、ある意味では余命を変えることに成功した。
死の瞬間、友人を突き飛ばした主人公が代わりに事故に巻き込まれて死んで、生き残った人の余命が伸びた。つまり、死の原因が別の人にのしかかったおかげで、原因が変化した。
それは、僕にとって希望に他ならなかった。
父を救えるかもしれない。父を救うことこそが、僕がこの能力を得た理由なんじゃないだろうか。
そう思いながら、僕は父を救うために試してみることにした。
トライアンドエラー。あるいはPDCA。
余命を救うチャンスは、きっと死の間際の一瞬。それをものにしないといけない。
一発で成功させられると鼻息を荒くできるほど、僕はもう夢見がちな子どもではなかった。晃の死は、僕にこの数字の絶対性を突き付けた。
数字がゼロになったら死ぬ――呪いのように僕に染みついたこの常識を変えるのが簡単なはずがなかった。
僕の孤独な戦いが始まった。
まずは、長く対象を観察できて、その上で父より余命が短い人を見つける必要があった。その人達を救うことで、確実に父を救えるようになる必要がある。
幸い、僕はまるで運命に導かれるように出逢いを果たした。
小学校三年生になった始業式の日、他校からやって来た僕の担任の先生は、余命半年の女の人だった。
僕はまず、その服部先生を救うことに決めた。
と言っても、死が近づくまで僕にできることはない。だから、僕はどうすれば先生を救うことができるのか、先生が死んでしまうとしたらどんな風かを考え続けた。
まずは、先生が死ぬ日を確認した。10月のその日は、運動会の二日前だった。平日。そして服部先生の数字が変わる時間は、午前7時25分。それは、先生の死ぬ時間。
その時間に、僕は頭を抱えることになった。僕が学校に登校するのは大体8時。7時25分となると、先生もまだ学校に来ていないんじゃないかと思う。つまり、先生は学校に来る途中で事故に遭うんじゃないかと思う。
その事故が起きないようにすればいい……でも、どうやって?
まず必要なのは、7時25分に先生の側にいること。余命が見える僕がいないと、先生の余命は変えられないんじゃないかと思う。僕が誰かに先生を守るように動いてもらうことで先生を救える可能性がないわけじゃない。余命を知っていることで、僕は余命が見えない場合とは違う動きをするはずだから。
でも、もし僕が余命を見えることまでが、運命のような何かで決定づけられていたとしたら?先生を救うための行為だって、最初から想定されたもので、僕が何かをしても何も変わらないとしたら?
疑念を、首を振って追い払う。今、そんな仮説をこねくり回すことに意味はなかった。僕はただ、できることを模索し続けるしかなかった。それだけが、父を救うために僕がすべきことだった。
当時、僕は少しクラスで浮いた存在となっていた。それは晃の死に端を発する。
僕が晃を殺したんじゃないか――誰かが、そんなことをささやいた。
それを真に受ける者はいなかったと思う。ただ、もしかしたら、晃が死んでしまった原因が、ほんの少しでも僕にあるんじゃないか――そう思う人がいた。
恐怖に、憎悪に揺れる瞳に射すくめられてから、僕はクラスメイトが怖くなった。
そうして、僕は学校に通っても、一言も口をきかない日があるような、そんな生徒になった。
クラスで浮いている僕を、服部先生はすごく気遣ってくれた。僕が友人の死を目の前で見たという話をすれば、先生はそっと僕のことを抱きしめてくれた。
渡良瀬くんのせいじゃありませんよ。そう、言い聞かせるように繰り返した。
僕のせいじゃないかなんて、誰にも分らない。ひょっとしたら、晃は僕が引っ付き虫のように一緒にいるのが嫌で走って逃げようとして足を滑らせてしまったのかもしれない。だとしたら、晃が死んでしまったのは僕のせいだ。
答えはわからない。死人は答えを教えてくれない。
ただわかるのは、服部先生も父も、まだ生きているということだけだった。
つまらない日々は、けれどあっという間に過ぎていった。どうすれば先生を助けられるか、僕は必死に考え続けた。
そうして、僕は不登校になることにした。
両親に休むと告げて、仮病を始めた。なまじ両親は僕が目の前で友人を失ったことを知っていて、当時の憔悴する様を見ていたから、その記憶がぶり返したんじゃないかと話していて、無理に学校に行かせることはなかった。
そうしてサボりが三日目になったその日の夕方、服部先生が僕の家にやって来た。
僕は自室の扉ごしに先生と話した。
たまに、晃の死の瞬間を思い出すこと。そうしたら僕の中がぐるぐるし始めて、苦しくて、逃げ出したくなって、怖くて、学校にいるのが辛くなったということ。
それは、確かに僕の本心だった。僕は怖かった。晃が死んで、僕が人の余命を見ているのだと知って、怖くて仕方がなかった。
余命が見えるとは、つまり死が見えるということだ。そんなの、死に神のようなものだ。僕は、自分が人間ではないのだと、そう思えてならなかった。
それでも、僕は学校に行った。家を出なければ、動かなければ、父を救えないから。その義務感だけが僕を突き動かしていた。
死は、みんなに待っている。余命は、日々刻々と迫っていて、みんなはそれを知らずに日々を生きている。そんな中、僕だけが死を見える。余命を見える。ならば、動かないといけない。少しでも多くの大事な人を救うために、僕は死という運命と戦わないといけなかった。
不登校が続き、けれど先生が朝に迎えに来てくれた日には、僕はたまに学校に行くことにした。大体三十分ほど先生と話して、学校に行く覚悟ができたら部屋を出る。
そうして、僕は平日の朝7時25分に先生と一緒に居られる状況を創り上げた。準備は万全だった。
その日、僕は6時に目を覚ました。既に両親は起きていて、特に父は慌ただしく仕事に行く準備をしていた。母が家を出るのは僕の後。共働きだったけれど、僕が引きこもるようになってから、母はそれまでの仕事を止めて、パートで働くようになった。なんでもそれなりに融通の利く職場で、月に数回程度なら当日に休む連絡をしても代わりの人が入れるのだという。
それはともかく、もう一度寝る気になれなかった僕は学校に行く準備を始めることにした。
「……あら、今日は早いのね?」
「うん。もう目が覚めちゃったんだ」
早くに目が覚めた――僕の言葉に、母は一瞬悲しそうに目を伏せた。その目は、僕の目を、目尻を見て、パジャマを見た。
多分、悪夢を見たんじゃないかと思ったのだろう。それは、ある意味で正しく、そして少し間違っていた。
僕が今日見た夢は晃の死の記憶ではなく、今日に余命の迫った服部先生を助けることができずに死なせてしまう未来だった。
大丈夫、僕ならできる。洗面所で顔を洗いながら、僕は決意に心を燃やしていた。
運命は絶対だ――死が見える漫画の主人公は、そう結論を下した。死の運命は、そう簡単には変えられない。例えば本来の死の原因を取り除いたとしても、運命の修正力とでも呼べる力が働いて、その人は死んでしまう。例えば、7時25分に先生に僕の部屋の前に居てもらえることで死を防ぐという方法は有効ではない。
絶対である余命、それを変える例外が、本来はその人にもたらされるはずだった運命を、別の人が背負うことだった。
運命には絶対量が決まっていて、その運命が達成された時点で死という収束から逃れることができる。
同じ方法で、僕は今日、服部先生を助ける。
気づけば、時計の針は朝7時10分を指していた。玄関で車が止まる音がする。僕は決意をみなぎらせながら靴を履き、背後にいる母に力強くあいさつした。
「行ってきます」
涙ぐむ母に背中を向けて、僕は一人、先生という心の支えなしに外に出た。
驚きすぎて目が落ちてしまうんじゃないか。そう心配になるほどの顔をした先生が僕を助手席に乗せてくれる。
「今日はとっても早いね」
「うん。早くに目が覚めちゃったから」
服部先生は、僕が悪夢を見た可能性に思い至った様子はなかった。ただ、「そっかあ。先生、実は低血圧で朝に弱いんだよね」なんて言いながら車を発進させる。
十分ほどかけて学校にたどり着く。時間は、7時20分。
正門を入って脇にある教員用の駐車場に車を止める予定だった服部先生だけれど、校内にそのまま入ることはできなかった。
門は、まだ閉まっていた。
歩道と門の間にあるスペースに車を横に入れて一時的に駐車する。その後ろで大きなトラックが走り抜けていった。
「あっちゃあ。いつもより早いから、教頭先生が門を開けるよりも早く着いちゃったみたいだね」
「……先生は鍵を開けれないの?」
「うーん、確かここの鍵って南京錠だったよね……」
言いながら先生は車から降りる。僕もまた、先生を追うようにして車から降りた。助手席から下りた目の前にある正門は近くで見ると錆が目立つ。残念ながらしっかり南京錠がかかっていた。
おはようございます、と先生が挨拶を交わす声が聞こえる。見れば、犬の散歩をしていた五十代くらいの女の人と話をしている。余命1日の三十代ほどの先生と、余命20年の壮年の人の並びは、僕の目にはひどくおかしなものに見えた。
まだ門が開いていないんですね、そうなんですしばらく待つしかありませんね、生徒さんが来るより早く開くといいですね、ああ歩行者が通れる脇の門は南京錠などでしっかり鍵がかかっているわけではないので生徒は入れますよ――
二人の間で、大きな白い長毛種の犬がお利口にお座りしていた。鼻がツンと尖っていて、頭は細い円錐形。先ほど歩いていた姿は、一瞬アリクイのように見えた。
そんなアリクイモドキの犬がピクリと耳を震わせて顔を上げる。視線は、僕がいる門の反対側に向く。
その先を目で追って、息を飲んだ。
車が、こちらに向かって来ていた。この学校は交通量の多い道の横にある。ガードレールはあったけれど、大きいなトラックはまるで紙を引きちぎるようにガードレールを吹き飛ばして進む。
「先生!」
僕が声を出せたのはきっと、先生の死を、この事故を予感していたから。
けれど、タイミングが悪かった。場所が悪かった。動き出した僕がどれだけ早く足を動かしたところで、先生をトラックの進路から突き飛ばすことは難しそうだった。それどこか、このまま駆けよれば僕もトラックの進路に入ってしまいかねなかった。
居眠り運転手がトラックをとめることはない。僕の視界の先、先生はただただ立ち尽くしていて――
くるりと振り返ったアリクイ犬が、その真っ黒な目で僕を見る。僕は、心の中で彼に頼んだ。先生を、救って――。
その思いが伝わったのは、あるいは魂かDNAに刻み込まれた野生の本能のせいか、そのアリクイ犬は目を瞠るほどの俊足で動き出した。
たわませた足で地面を蹴って、
トラックから少しでも遠ざかるように走る。その先に、先生がいて。
服部先生の体が、アリクイ犬の頭突きによって吹き飛ばされる。きれいにみぞおちあたりに頭突きを受けた先生は体をくの字に折り曲げて、勢いよく背後に転がって。
先生の姿が、トラックの向こうに消える。
そして、アリクイ犬の全身全霊の行動によってリードを引っ張られた飼い主の女性はバランスを崩し、そこにトラックが飛び込んだ。
女性が、犬が、トラックに押され、そして、先生の車との間に消える瞬間を、僕は瞬きせずに見ていた。
車が大破する音。門に突撃したトラックが響かせる甲高い音。門が、内側に倒れこむ。トラックの後輪が一瞬だけ浮いた気がした。
鼓膜が破れそうな音による耳鳴りが収まった頃、僕は腰が抜けて座り込んだ。
果たして、先生は無事だった間一髪トラックの進路からはじき出された先生は、青白い顔で大破したトラックを眺めていた。
わずかな血の香りがした。赤い液体が、トラックと車の間あたりから一筋、灰色のコンクリートを伝わって流れていた。
先生の無事を喜ぶことも、余命という運命は帰られるのだと希望を抱くこともできなかった。
こみ上げる吐き気のまま、僕は地面に両手をついて口の中の物を吐き出した。
酸が喉を蹂躙する。苦しくて、気持ち悪くて、怖くて、涙がにじんだ。
僕は、先生を助けるということの意味を、全然理解していなかった。
先生を救うということは、先生の死を誰かに押し付けるということ。それはもはや、僕がその人を殺すようなものだった。
死なないはずの、まだあと20年は生きる人と、犬はきっともう助からない。
涙でにじむ顔を上げれば、震えながらも救急車を呼ぶために電話をする先生の姿が見える。その、頭上。
僕にだけ見える寿命の数字は、42.317を示していた。
50代ほどの人の20年と、30代かそこらの服部先生の40年とを比較することなんてできない。ただ僕は絶対に踏み込んではならない禁忌に足を入れてしまったことを理解した。