死を見る
物心ついた時から、他人の頭の上に数字が見えた。
それは、大体五桁で、たまに四桁のこともあった。例えば、幼い頃に父に見た数字は8.238。母は21.155。それから、当時の僕の数字は56.351。
そうした数字は、全ての人の頭にあった。
ずっと見えていたから、僕にとってその数字は風景の一部だった。人間とは、頭に触ることのできない数字を持っている存在。僕の中では、人間はそういうふうに定義されていた。
それがおかしいと感じたのは、いつのことだっただろうか。
ある日、僕は頭の上の数字が小さくなっていることを発見した。特に、五桁だったはずの父の数字は、気づけば四桁になっていた。
一体何があったのかと、そう思いながら僕は父の頭に手を伸ばした。
当然、その手は数字には触れられない。そこに確かに見えるのに、それは実体を持っていないのだ。
イメージはホログラムだろうか。それはアニメに登場した魔法陣とかに似ていた。
ああ、そうだ。僕が数字が見える事実をいぶかしんだのはテレビが理由だった。
テレビに登場するニュースキャスターやリポーター、俳優もまた頭の上に数字があった。けれど、アニメの登場人物たちの頭には、その数字は見えなかった。
だから最初、僕はテレビの中で動いているその存在が、人間ではないように思えていた。
そうして違和感は日に日に大きくなった。頭の上にある数字のことを、誰も話さない。アニメはもちろん、絵本にだって小説にだって登場しない。それに触ることはできない。
気になりながらパシンパシンと父の頭を叩いていると、彼は野球のテレビ中継の視聴を止め、不思議そうに僕を見あげた。
『虫でもいたのか?』
『ううん。すうじが見えた……気がしたの』
気がした、と告げたのは直感的なものだった。ただ、なぜだかそうしなければならないと強く思った。僕は、言葉を濁した。
果たして、それは正しかった。
『数字、なぁ。髪の毛が数字に見えたのかな?』
父は首をひねりながら告げた。それは、決定的に僕という存在の異様さを突き付ける言葉だった。
父には、数字が見えていない。頭の上で存在を主張するこの六桁ほどの数字に、誰も気づいていない。母も、友人たちも、保育園の先生も、誰も、この数字を知らない。視線を向けていない。読めていない。
僕だけが、その数字を見ることができた。
その事実は、自分がみんなとは違うんだという事実を僕に突き付けた。
自分が、急に異物のように思えて来た。みんなに混じっている、物語のエイリアンみたいなやつだと思った。僕は人間なんだろうか。人間では、無いかもしれない。
不安で、怖くて、僕は父の胸に飛び込んで泣いた。
不思議そうにしながらも僕の背中を優しくたたいてくれた父の手は大きくて、そしてとても温かかった。
涙をぬぐいながら、僕は父を見上げた。その頭には、やっぱり数字が見えた。
――6.289。数字は、日に日に小さくなっていた。
僕は、自分にしか見えないその数字について調べ始めた。
まず、数字はみんなについていた。父にも母にも、僕にも、祖父母にも、いとこの赤ちゃんにも、保育園の先生にも、友人にも。例外はなかった。
そして、数字は人以外では見えなかった。人の頭だけに、それはあった。
その数字は、日を追うごとに小さくなっていた。僕はある日、偉大な発見をした。数字は、一日に一つ、小さくなっていた。父の数字が6.155から6.154に。母の数字が19.073から19.072へ。そして僕の数字は54.268から54.267になった。
誰もが一日で一つ数字が小さくなる。その発見は、少しだけ僕を不安にさせた。もし、この数字がゼロになってしまったらどうなるのだろう――
その疑問を解明する機会は、思っていたよりも早くやって来た。
小学一年生に上がったその日、僕は同じクラスの男子にその数字を見た。61。それは、これまで見た数の中で最も小さなものだった。僕が見て来た中で最低だったのは、道ですれ違ったおばあさんの2.014だった。それよりも小さなその数字は、僕の仮説が正しければ61日経つとゼロになる。その時、何が起きるのか。それを、僕は知らないといけなかった。
それを知ることこそが、僕に与えられた使命なんじゃないかと思った。誰にも見えない数字が僕にだけ見えることには何か意味があるはず――僕はそう考えるようになっていた。
僕はその男子、明神晃と仲良くなることにした。
どうでもいいことかもしれないけれど、彼の名前はすごく響きが格好良くて、僕は嫉妬した。
僕の名前は渡良瀬一歩。渡良瀬という名字はどこか女のような響きがあるように思えたし、一歩なんて名前としておかしいと思った。だから僕は保育園ではハジメと呼ぶように友人に頼んでいた。数字の一で、ハジメと読む名前の人がいることを僕は知っていた。
同じ保育園の人が教室にいたこともあって、僕は一年生のクラスでもハジメと呼ばれることになった。ただ、晃だけは僕のことを一歩と呼んだ。
『だって、名まえっておやからはじめてもらったモノだろ。ダイジにしなきゃいけないんだよ』
どこか誇らしげだったのは、彼が自分の名前を気に入っていたからだろう。明神晃なんて、名字も名前も格好いい晃が卑怯に思えてならなかった。
それでも、僕はぐっとこらえた。少なくともあと46日、僕は彼の友人でいないといけない。それが、僕の使命のために必要だった。
入学から61日経ったその日は遠足の日だった。バスで十五分ほど行ったところにある自然公園。そこで、僕は同じ班の晃に引っ付くようにして過ごした。
晃の頭の上の数字は、まだ1を指していた。理由は、晃の数字が変わるのが午後二時くらいだから。
そう、僕は数字の減少について新しい事実を発見していた。それは、数字が減るタイミングは、人によって異なるということ。僕はその事実に気づくまで、なんとなく日付が変わるタイミングでみんな一斉に数が減るものだと思っていたから、それはもう驚いた。
僕や両親の数字が変わるのが夜や夜明けの時間だったことが、その発見が遅れた理由だった。ちなみに、数字が変わるタイミングを見たのは、晃が初めてだった。どうして晃の数字だけ小さいのか、そんなことを思いながら晃の数字を見ていた時、突然、何の前触れもなく数字が一つ小さくなったのだ。
それは五時間目の時間の最中、二時十三分のことだった。
『なぁ、どうしてそんなにぴったりついてくるんだよ?』
どこか気持ち悪そうに晃が話した。時間はだいたい十二時半。いつも給食を食べるくらいだった。
あと一時間と少しで晃の数字がゼロになる。その瞬間を、見逃すわけにはいかなかった。
『んー、なんとなく?』
『いみわかんねー』
口の中のサンドイッチを飲み込んだ晃が、眉間にきゅっと力を入れながら言った。
午後になっても僕は晃の後をついて行っていた。どこへ行くのも一緒。芝が生えそろった丘も、菖蒲の青い葉っぱが伸びる湿地の前も、そこから続く水路と、いくつもある四角い石の道の上も。
僕は晃を――晃の頭の上にある数字を見続けていた。
そして、二時十三分がやって来た。
その瞬間、僕の視界から晃の姿が消えた。
あまりにも僕が晃を追い回すから隠れてしまったんだ。そう思いながら、僕は水でぬれて少し滑る大きな四角い石の上を順番に歩いて行った。
サラサラと透明な水が流れていた。石で舗装された水底は黄色っぽい苔が生えていて、せっかくの水が酷く汚く見えた。
水の深さは大体十センチほど。本当は川遊びをしたい気分だったけれど、先生から入ってはいけませんと言われていたからやめておいた。
そうして、僕は少し距離がある石の間を何とか跳びこえて、晃が消えた当たりへと来て。
「……え?」
すぐ下に、晃の姿があった。見えるのは後頭部と背中。水に顔をつけている晃は動かない。
「晃……?」
名前を呼ぶ。ひどく震えた声だったけれど、当時の僕はそんなことは意識していなかった。ただ、何かがおかしいと思った。気づいては行けない何かが、僕の背筋を這い進んで、寒気を覚えていた。
ぺたんと座り込んで、晃を見る。晃はまだ、水から顔を上げない。衣服が水でしみて行っていて、彼の青いTシャツは、とうとう全て水で色が濃くなってしまっていた。しおりが入っているはずの肩掛け鞄もまた、水でぬれてしまっていた。口から飛び出したポケットティッシュの袋が水底に沈んでいた。
「あ、ぁ、ああああああああああっ!?」
どうなっているのか、何が起こっているのか。何もわからず、僕はただ悲鳴を上げた。言葉は出せなかった。
僕の悲鳴に気づいた先生が血相を変えてやってきた。そうして、震えながら僕が指さした先、四角い石の影にいる晃の姿を見て、先生は膝から力が抜けて水の中に倒れこんだ。
四つん這いで這うように進んで、先生は晃を水から引き上げた。
呼吸をしてない――絶望の声が、ひどく遠くから聞こえた。
集まって来た先生の一人が人工呼吸を始めた。晃の体を押しつぶすように胸を両手でぎゅうぎゅうと抑える。
晃が、苦しそうだと思った。でも、晃が声を出すことはなかった。ぴくりとも動かず、ただ、胸を押されるのに合わせて体が小さく揺れていた。
けたたましいサイレンを鳴らす救急車が公園の中を通る道路を使ってすぐ側までやって来た。救急隊員の人達が、晃を運んでいった。
晃は、動いていなかった。担架から垂れ下がって彼の腕はやけに白く見えた。
その日、晃は死んだ。優し気な声で聴いて来る先生と警察の人に、僕は晃が姿を消したところへと進んだこと、そこで水に顔をつけて動かない晃を見つけたことを話した。
数字のことは、話せなかった。
けれど、その悪夢は絶望となって僕にのしかかる。
学校まで迎えに来てくれた父の頭の上。そこには5.365という数字があった。昨日は6.000だったはずの数字は、確実に小さくなっていた。
その時、僕は自分の脳に電撃のようなものが走った気がした。
気づいてはいけない気づきを得てしまった。
6.001から5.365への変化。365という、きりの悪そうな数字。それは、一年間の日数だった。6が5になって、三桁の001が365になった。一日が経って、数字が一つ減った。
つまり、父の5は、5年という意味5年と365日――つまり丸6年。
その時間が経ったら、どうなるのか。答えはもう分かってしまっていた。
水に顔をつけまま動かない晃の背中を思い出した。
晃のように、父も死ぬ。後、たった6年で。
迎えに来てくれた父にしがみついて、僕は幼子のように泣きじゃくった。嫌だ、死なないで。そんな言葉を聞きながら、父は僕のことを優しく抱きしめてくれた。
けれど、父はきっとわかっていなかった。僕が泣いていたのは、死なないでと言っていた相手は、晃じゃない。僕は晃の死に動揺する以上に、父がたった6年で死ぬかもしれないという事実に怯えていた。
死なないでと、涙やら鼻水やらで顔をぐちゃぐちゃにしながら僕は叫び続けた。
その思いは、誰にも正しく受け取ってもらえなかった。