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続きです。
時間の経過と共に、淀んだ瘴気は霧散していく。
風に吹かれて、少なくとも肉眼で捉えられる程の濃度ではなくなった。
気がつけば日は落ち、今では慌ただしさも落ち着きただ静かに時間が滑り落ちていく。
涼しげな風が頬を撫でる、心地良い夜。
にも関わらず、眠らずに無機的に輝く照明が点いたままの部屋があった。
リタの家。
あの後、すぐにリタは彼女自身の部屋まで担ぎ込まれた。
リコの手によって。
しかし、そんな専門家と言っても差し支えない人物からしても、今出来ることはほとんど無いようだった。
既に多くの人が、胸に多少のざわつきを残しつつも体を休めているなか、この家に集まっている俺らだけは未だ夕方の緊張感から抜け出さないままでいた。
ここに居るのは俺を含めて四人。
リタは今、自室のベッドに寝かされている。
もちろん眠りにつくことなんて出来ないようで、額に汗を浮かべて浅い呼吸を繰り返していた。
散らかったリタの部屋、しかしその中になんとか足の踏み場を見つけてリタの容態を眺めるのが、俺とリコ。
間にある関係性上、少し気まずい空気感だ。
後はリサが、家の外で壁に寄りかかっている。
何かあったら呼んでくれと言っていたが、実際は出来ることはないに等しいと理解しているのだろう。
何故ならこの家に集まる全員がそうだからだ。
どうにも手のつけようがないのは分かっていながら、どうすることも出来ないのに目を離すのが心配で、この場を離れられないでいる。
「本当に・・・・・・だから・・・・・・」
リコがリタの状況を見て「だからあれほど言ったのに」と表情を歪める。
そうやって腹を立ててはいるが、その表情は今にも泣き出しそうなものだった。
リコは、ゆっくり手を伸ばしてリタの汗を拭う。
リタはもはや自分が何をされているかに気を回す余裕がないようで、そもそもリコに触れられていることに気づいているかすら怪しかった。
「あの・・・・・・これって、もうずっと・・・・・・?」
もうずっとリタはこのままなのか?
その答えを知るのが恐ろしいし、ましてやその聞く相手がリコだ。
二重の意味で尋ねづらい質問を、しかしやっと投げかける。
無視されるかもしれないと思ったが、意外にもリコはすんなり答えてくれた。
「いいや。少なくとも・・・・・・この状態はそう長く続かない。今はナインの体内で急速な変異が起こってるから、苦しいのはその所為。苦痛自体は数日で終わるわ。けど、その頃にはナインの体がどうなっているか分からない」
「・・・・・・。この・・・・・・腕の光、は・・・・・・?」
「それも、体の反応が終われば落ち着くと思うわ。あくまで一時的な症状・・・・・・汚れが定着すればその忌々しい光はそのままだけど、少なくともまだそれほどではないと、首輪が教えてくれているわ。この首輪は、人間でいられなくなる程汚れれば燃え尽きるから」
リタに、先生の生徒に課された首輪。
王都に装着者の位置情報を送信し続け、同時に汚染の程度を計測する。
そしてその時が来れば・・・・・・王都の兵士たちが命を奪いに来る。
これを身につけているわけはそんな理由だが、しかし今は少し気持ちを安心させてくれるのだった。
「ほんと、バカよね・・・・・・」
リコはリタの様を鼻で笑う。
ざまぁみろと、清清したとでも言いたげな態度だが、明らかに強がりだった。
だとしても。
「バカなんかじゃないよ。リコだって、リタがどう考えてるかは知ってるでしょ? いや、俺よりずっと分かってるはず。信念に従い続けることは難しい。それでもリタは立派にやってるんだ。そりゃ、俺だってもっと自分を大切にしてほしいと思ってるけど・・・・・・ね」
「・・・・・・分かってるわよ。けど、だからバカなのよ。どうなるか分かってるはずなのに、それでもその結末に向かい続けるなんて・・・・・・。ナインだけじゃない。みんなバカよ。シックスだって、ナインと同じようにあちこち駆け回って・・・・・・その結果、この街の多くの命を奪った。彼女がもたらしたもので今残っているのは、私たちと街の人の溝だけよ。セブンだって、活気に憧れて街を出て、案の定色々なことに首を突っ込んで・・・・・・その結果新聞の一面を飾っただけ。打ち倒された邪龍として・・・・・・」
リタの額に当てた布巾を、リコはぎゅっと握りしめる。
「私たちに何か一つでもいいことがあった? 何が残った?」
声が震える。
リコの熱が高まる。
「みんなを助けたい、そんなの分かってる! でもあなたはそれでどうなるのよ! 私は・・・・・・どうすればいいのよ・・・・・・」
リコが最も恐れる喪失。
結局のところ、本質はリタもリコもそう変わらないのだ。
ただ、リコは目の前の、世界にただ一人の自分の妹を失いたくないだけ。
リコは、リタの額に垂れた水滴を拭い去る。
そして鼻を啜って、俺に背を向けた。
「ごめんなさい。本当は・・・・・・あなたにも感謝しているの。ナインが嬉しそうにあなたの話をするから、あなたが私たちの運命を知りつつその壁を越えてきてくれていること、本当は分かってる。だけど、結局そういう誰かとの強固な繋がりも・・・・・・私たちには毒なのよ。あなたにとってもね」
少し落ち着きを取り戻したリコによる忠告。
その言葉は、俺の心に深く沈み込んだ。
実際、今のリタの状態を目の当たりにして、既に目撃する苦しみを味わっている。
リタの苦痛に歪む表情を見て湧き上がる複雑な、名前を知らない重たい感情。
それが重りとなって、息苦しい水底に引っ張られるようだった。
「せめて、痛みだけでも和らげてあげたいけど・・・・・・」
苦痛や悲しみに満ちた道を歩むと決めたのはリタ自身かもしれないけど、だったらせめて少しでも楽にしてやりたい。
術がないと分かっていても、そう考えずにはいられないのだ。
俺の言葉を聞いて、一拍遅れてリコが反応する。
「・・・・・・そういえば、私は専門じゃないから分からないのだけど・・・・・・確か前にナインの腕が変形を始めたとき、リサが鎮痛作用のある薬草を採ってきていたわね・・・・・・」
「え・・・・・・」
方法、あるの?
「いや・・・・・・なら、それを早く・・・・・・!」
外で待つリサの元へ、急いで向かおうとする。
しかし、それをリコが制止した。
「待ちなさい。夜はあなたが考える以上に危険よ。ましてや瘴病の具現が現れた今、外の状況もどれほど悪化しているか分からないわ。私はあなたがどんな目に遭おうが構わないけど、もし何かあったらナインは今のこの状態でもきっと飛び出して行くわよ」
「流石にそれは・・・・・・」
と否定しきれないのがリタの恐ろしいところだ。
そうでなくても、その薬草とやらを持ち帰れないのであれば意味がない。
「大人しく朝を待ちなさい。リサだって・・・・・・きっとそのつもりで待っているのよ。今夜中はここに居るのを許すから・・・・・・リサも呼んで来なさい。どうせリタも体力が限界になれば気絶するから、そうしたらあなたたちも休めばいいわ」
初対面こそアレだったが・・・・・・いや、真の初対面はもっとアレか・・・・・・。
ともかく、そんな出会いを経たけれど、リコの本当の姿というか、気持ちの在り方を知ることができてよかった。
「ごめん、ありがとう」
その言葉に甘えて、一晩中リタを見守ることに決める。
リタが苦痛にうめくなか、言われた通りにリサも呼びに行った。
続きます。