1-3
薄い床を踏むと、頼りなく軋む。
本当に数センチに満たないであろうそれは、うっすら錆び付いていた。
「少し待っててください」
リタは構わず部屋の奥の暗がりの方へ消えてしまう。
材質が材質ではあるが構造上はしっかりと住居のそれではあるようで、どうも複数の部屋があるらしい。
立っているのも落ち着かないので、部屋の隅の壁に直接取り付けられた長椅子に腰掛ける。
椅子も同じく味気ない金属製。
体重をかければ少したわむ感じがした。
椅子の正面にはテーブルがあるのだが、しかしこの小さなテーブルは少し高級そうな雰囲気。
古びた木製の品で、表面を撫でると滑らかな感触がした。
リタの纏うローブといい、このテーブルといい、やはり不釣り合いに質のいいものがいくつか存在する。
これら以外にも、小さな棚やそこに置かれてる薬瓶や奇妙な道具など、値打ちものって感じのものは少なくないようだ。
しばらくして、リタが戻ってくる。
その手には、小さなナイフと付箋みたいな小さな紙切れが握られていた。
また、リタに関する新たな発見も得られる。
ローブの下に隠れていて見えなかったが、リタの右腕は包帯でぐるぐる巻きにされていた。
さっきみたいにある種地雷のようなものかもしれないので口はつぐむが、しかし気になりはする。
視線に気づいたリタは「気にしないでください」とだけ言った。
リタがテーブルの上の、俺の正面に紙切れを置く。
そのまま何も言わずに俺の手を取り、そして・・・・・・。
「・・・・・・んなっ、っつぁ!?」
俺の指にナイフの先端を突き刺した。
特別深く刺されたわけでもないが、いきなりのことに思わずオーバーなリアクションをしてしまう。
その驚きの後に、じくじくと鋭い痛みがやって来た。
「すみません」
「あ、いや・・・・・・まぁ血液検査って言ってたしね・・・・・・」
予測出来ない展開ではなかった。
まぁ何か一言欲しかったが。
ナイフが手から離されると、傷口から血液が溢れる。
表面張力で玉のようになったそれを、リタは紙切れの上に落とした。
白色だった紙の繊維に、赤色が滲んでいく。
リタはその染みに、左手の人差し指を置いた。
「・・・・・・」
黙って見ていると、その指先と紙の接点が輝き出す。
水中から見上げた日の光のような、柔らかな光。
それはリタの指を中心に紙全体に広がり・・・・・・。
「うっ・・・・・・!」
瞬間、小さな紙切れにびっしりと細かな赤い文字が浮かび上がった。
その様がまるで呪いの札みたいな姿で、なかなかにショッキング。
だがそれも一瞬の出来事で、すぐに乾くように文字は消えてしまった。
「えっと・・・・・・あの、何が書いてあった、んすか?」
「これは読んで内容を見るものじゃないですよ。というかあんな一瞬じゃ読めないでしょ」
「えっと、じゃあ・・・・・・?」
リタが目を瞑って頷く。
「大丈夫です。問題なく調べられました。これはこの指で読み取るんですよ」
紙から離した指を宙でくるくる。
役目を終えた紙はあの文字どころか俺の血液の染みすらなくなって、今は灰色に染まっている。
リタを真似るように紙を指でつついてみるが、もはやそれはただの紙切れに過ぎなかった。
「あ、消耗品なのでもう何もありませんよ。結構貴重なので、あげられもしません」
「あ、いや・・・・・・はは。そ、それで・・・・・・結果は?」
物を知らぬ子供のような振る舞いを恥じつつも、重要なことは忘れてはならない。
「それが・・・・・・なんですけどね・・・・・・」
「そ、それが・・・・・・?」
「・・・・・・」
「・・・・・・え?」
リタが何か考え込むように俯く。
何かまずいことがあったのだろうか。
ごくり、と生唾を飲む。
試験の合否を待っているような気持ちだ。
そして、リタがその小さな口を開く。
「この魔道具は、血液から人の肉体の記憶を見るものです。いつ生まれたとか、どんな環境で生きてきたとか、性交経験とか・・・・・・大雑把なことは大体分かります」
「え、えぇ・・・・・・」
「ま、まぁ・・・・・・個人的なことに関してとやかく言うつもりはないですよ。それに・・・・・・マナトの場合は、かなり特殊でしたから」
「特殊・・・・・・って言うと?」
いやまぁ異世界出身だから特殊には違いないのだが・・・・・・。
「最初はマナトの生きてきた環境がこの世界の状況と重なるかどうかで、召喚の真偽を確かめるつもりでした。あるいは肉体が召喚を記録しているかな、とも思ったんですけど・・・・・・」
「はぁ・・・・・・」
「そしてマナトの状態なんですけど・・・・・・あなたの肉体は、この世界で新造されたものでした。空から落ちてくる、あの以前の記録がありません。マナトは今日、その姿のまま、この世界で新しく生を受けたというわけです」
リタの言葉に唖然とする。
しつつも、そういや死んだって言われてたしなと納得。
「な、なるほど・・・・・・?」
まぁつまりこれで・・・・・・。
「俺の疑い・・・・・・っていうか、俺の言ったことが本当だって分かったってことだよな?」
「それは・・・・・・はい。魔法の道を進む者としては悔しいですが」
リタはどこの誰とも知らない召喚者に対抗心を燃やしているようだったが、俺はひとまず安堵する。
「よかったぁ・・・・・・」
「よかないですよ。肉体を生成して魂を移すなんて、禁術もいいとこですよ? おまけにそんな魔法使ったら・・・・・・。いや、マナトに言っても仕方ないことですね・・・・・・」
リタは大きなため息を吐く。
大して無知な俺は気楽なものだ。
「とにかく・・・・・・この事はあまり人に言わないでくださいね。わたしだから良かったですけど、あまりにも軽率です」
「うっ」
それはそう。
丁度ピンチなタイミングでリタが駆けつけてくれたもんだからてっきり召喚者だと思ってしまったが、流石にもう少し考えておくべきだった。
「それは・・・・・・すんません。気をつけます」
「まぁ大丈夫ですよ。なんであれ、マナトが悪い人じゃなくてよかったです。こんなに人と話したの、久しぶりでしたから」
リタがどこか遠い目をする。
幾度となく見てきた、過去を懐かしむ目。
どこの世界でも、こういう表情は同じなのだろう。
「それで・・・・・・これからどうするんですか?」
リタが瞬きで懐古を終わらせて、こちらを向く。
それに俺は少し考え込んだ。
これは重要な問題だ。
これから自由を謳歌していくわけだが、そのために最低限身につけなければならない知識はあるだろうし。
うっかり召喚者の目的を達成してしまう可能性もなきにしもあらず。
それだけ強大な力を授かっているのだ。
ならば、召喚者に会ってその目的を知り、そしてその要望を上手いこと躱して生きる。
こういうのも一つの手ではないだろうか。
こうすればうっかり魔王討伐も、怒った召喚者に強制送還もあり得ない。
完璧までいかないにしろ、現実的ではあるはずだ。
「俺は・・・・・・俺を召喚した人を探そうと思う」
戦わないために。
俺自身の自由のために。
「で、そのために知っておかなきゃいけないことも多いだろうから・・・・・・」
だから。
「この街を・・・・・・俺の出発点にする。リタに会ったのも何かの縁だ。だから、この世界について教えてくれないか?」
いくらでも時間はかかってもいい。
別に先を急いでいるわけじゃないのだから。
だからこの街から、俺の新生活を始めよう。
俺の言葉を受け止めたリタは、何かを言おうとして、けど口をつぐむ。
そして。
「分かりました。本当に何も知らないみたいですからね・・・・・・。わたしが教えられることなら、教えますよ」
紆余曲折はあったが、この世界で最初に出くわしたのがリタでよかったように思う。
異界からやって来たという怪しい男なのに、リタの態度は公平というか・・・・・・親切だ。
そんなリタに、地味にずっと気になっていたことを質問する。
それはあまりにも下らなくて、しょうもないこと。
「リタって・・・・・・何歳?」
「え、なんですか突然・・・・・・」
「いや、普通に気になって。教えてくれるんでしょ、なんでも」
「なんでもとは言ってないですけど・・・・・・いや、まぁ12歳です」
そう言って少し気恥ずかしそうにするリタの姿は、今までの真面目そうな態度とは少し違い、いかにも年相応の少女らしいものだった。