㊙︎俺の彼女の詩乃さんは、ケーキ屋でバイトを始めた
「いらっしゃいま……せ……」
店内に入った途端元気よく発された声が、尻すぼみになっていく。
宝石のようなケーキが並べられたショーケースの向こう側。そこには、よく見慣れた人物――けれどバイトを始めたなんて一言も言っていなかった人物が立っていた。
「……詩乃さん?」
二ヶ月前に付き合い始めた可愛い彼女、早川詩乃さんは、みるみるうちに顔面蒼白になった。
* * *
「あっ、あれには事情がありまして……!」
翌日の昼休み、詩乃さんはかわいそうなくらいに縮こまりながら、そう切り出した。弁当箱を開けるより先に、勢いよく。
ほとんど毎日、俺たちは中庭で一緒に弁当を食べている。
とりあえずよかった、とちょっとほっとする。俺が聞いていい話なんだ。
スルーしたほうがいいのかとここまで完全にノータッチで来たが、当然気になりはする。
詩乃さんはぎゅうっと手を握りしめて、重大な罪を告白するような雰囲気で続けた。
「隠そうとしてたわけでは……あるんだけど、悪意はなくて!」
「隠そうとはしてたんだ……」
「ごめん!! あの、でも、もうちょっとしたら言うつもりだったの。ほんとにもうちょっとしたら……」
しゅん、と落ち込む詩乃さん。
彼女の気持ちを考えれば、これ以上は何も訊かずに話題を変えるのが正解なんだろう。
実際、俺もそうしようとした。あたふたする詩乃さんは正直非常に可愛いのだが、困らせたくはないから。
が、しかし。
――『もうちょっと』が示す意味に気づいてしまって、「あー……」と中途半端な相槌を打ってしまった。
もうちょっと。
たぶんそれは、俺の誕生日まで。
俺に内緒でバイトをして、自分のお金でプレゼントを買ってくれるつもりだったのだと思う。
付き合ってすぐに詩乃さんの誕生日があったから、俺は散々悩んだ挙句に可愛いクッキー缶を贈った。
詩乃さんはとても喜んでくれたが、その後はっと何かを考え込んでいた。
俺はバイトをしているけど、詩乃さんはしていない。だからきっと、そのときに思いついたんだろう。
「……わ、わかっちゃった?」
俺の変な相槌に、詩乃さんの眉が不安そうに下がる。
まずい。せっかく俺のために頑張ってくれていたのに、こんなことでサプライズを台無しにさせるわけにはいかない。
「うん? 何が?」
わざとらしく聞こえないように努めながら、にこっと微笑む。
「そうだよね、学くんならわかっちゃうよね……」
我ながら上出来だと思ったのに、詩乃さんには通じなかった。
「ご、ごめん」
「ううん、隠し事した私が悪いから! 私のほうこそごめんね!」
「詩乃さんが悪いわけないよ。自分で言うのもちょっと恥ずいけど……俺を喜ばせるために、秘密にしてくれてたわけでしょ。自分のお金で俺にプレゼントしたかった、ってことで合ってる?」
「そうなんだけど、そうやってはっきり言葉にされちゃうと私も恥ずかしい……!」
詩乃さんは赤くなった頬を手で押さえた。やっぱり俺の予想は大当たりだったらしい。
……可愛いなぁ、とにやけそうになった。
気持ちの悪い顔をしないよう、必死にただの微笑みをキープする。
たぶん詩乃さんは俺のそういう顔を見たって、俺の知らない一面を見ることができて嬉しい、という反応をするだけだろう。
わかっていても見せたくないのは、ただの見栄だ。好きな子の前では、できる限りかっこよくありたいという見栄。
「悪いって言うなら、俺のタイミングの悪さだよ。家にも学校にも近いわけじゃないケーキ屋に、詩乃さんがシフト入ってるときに行っちゃうなんて」
万が一これが原因で嫌われたり避けられたりするようなことがあったら、俺におつかいを頼んだ妹を少し恨みたくなってしまう。
「はは……でもむしろ、タイミングがいい、とも言えるのかな」
苦笑いしてから、詩乃さんはゆっくりと口を動かした。
「私も学くんがバイトしてるのを偶然知っちゃって、それでこういうことになったわけだし……おそろい、みたいな感じがして、ちょっと嬉しくなってきた」
「……確かにそうだね」
俺には以前、とある秘密があった。いや、今だって詩乃さん以外……あと学校の先生以外には秘密なのだが。
その秘密というのが、ファミレスでバイトをしているというもの。
秘密にしていた理由は、大したものではない。知り合いにバレるのがなんとなく気恥ずかしいとか、“真面目なクラス委員長”である俺がバイトなんてらしくないとか。そういう、くだらない理由。
しかし、近くに住んでいた詩乃さんが俺のバイト先にたまたまやってきて――それをきっかけに仲良くなり、恋をして、付き合うことになった。
単純な言葉にしてしまえばたったそれだけで説明が終わる。
実際には壮大な紆余曲折があり――なんてこともない。……まあ、少し拗れた思考をした詩乃さんに数週間避けられたのは、俺にとっては大事件だったけど。
もともと同じクラスだったとはいえ、関わりはほとんどなかった。あの出来事がなければ詩乃さんのことを好きになれていなかったのだと思うとぞっとする。
「知られちゃったからにはもうどうにもならないし……プレゼントで挽回します!」
「ありがとう、楽しみにしてる」
詩乃さんのこういうポジティブなところも、好きだなと思う。
何か落ち込むことがあったって、自分に自信がなくたって、ネガティブになるのではなく、頑張ろうと奮起する。詩乃さんはそういう子だ。
彼女はよく、俺のことを頑張り屋だと言ってくれるけど、詩乃さんのほうがよっぽどそうだと思うのだ。俺の頑張りは……純粋な気持ちでやってるものじゃないし。
ただ、頑張らないと必要とされなかったから。
頑張らないなんて、俺『らしくない』から。
俺が頑張ってきた理由はそれだけだった。
興味を失った目で見られるのが嫌で、『らしくない』と失望されるのが怖かった。
――最近はそれが『詩乃さんにすごいと思われたい』という理由に変わったので、以前よりも健全な思考になってきたと思う。
以前の思考が不健全極まりないことは自覚していたが……なんというか、家庭環境というものは根強いもので。頑張れば頑張るだけ人生が楽になるのは確かだし、別にいいか、と諦めてしまっていたのだ。
結局詩乃さんみたいな子の傍を居心地よく感じるのだから、心の底では諦められていなかったのかもしれない。
詩乃さんは、人のことを『らしい』とか『らしくない』とか勝手に判断しない。
それは他人が判断すべきことではなく、その人がやりたくてやっていることなら、すべてその人らしいんじゃないかと――そう、当たり前のように言ってくれた。
本当に心から思っているんだろうな、と感じる表情と口ぶりだった。真剣だったというわけではなく、むしろたぶん、他のことを考えながらの言葉だった。
だからこそ、本心なのだと信じられた。
なんにしても、詩乃さんの傍は息がしやすい。気を抜けば、ずぶずぶと沼にでも沈むように感情が育っていく。
これはちょっとまずいな、と思うことが増えた。自分で自分にびびる。
だって俺がこんな人間だったとか思わないじゃん。こんなの、知らない。
この重い感情を詩乃さんにぶつけるわけにはいかないので、必死に日々ひた隠しにしているのだった。
「……あと詩乃さん、ケーキ屋めっちゃ似合うね」
「えっ、ありがとう……!?」
驚きながらも、詩乃さんは嬉しそうに微笑んでくれた。
ケーキ屋……と言うより、ケーキ屋さん、と言ったほうが彼女の雰囲気にはぴったりだろう。
制服のデザインがもっと可愛かったら、詩乃さん目当ての客が山ほど押し寄せても不思議じゃない。もともと可愛いのに、ケーキ屋という空間での詩乃さんはいっそ異様なまでの可愛さがあった。
シンプルなコックシャツでよかった……。
とはいえ、それも非常に似合っているから心配だ。
「最初は接客じゃないバイトにしようと思ってたんだけど……その、やっぱり学くんが頑張ってる姿をいつも見てるから、私も挑戦してみようと思って」
照れくさそうな詩乃さんに、俺も照れてしまう。
こうやって褒めてくれる詩乃さんだが、俺が頑張ることをやめたって、絶対にがっかりしたりしないだろう。
それは人に期待していないというわけではなく、その人の選んだ道をそのまま受け止めてくれるというだけなのだ。
……なんて、出会って一年も経っていない俺が語れることではないのだろうけど。
「でもバイト先としては不便な場所だよね。あそこのケーキ自体が好きだったり?」
詩乃さんの家からは二回電車を乗り継ぐ必要があるし、駅からも徒歩二十弱かかる。バイトとして通うには少しためらわれる距離だ。
俺だって、妹からねだられなければわざわざ買いにいかなかっただろう。
俺の問いに、詩乃さんはきらきらした顔でうなずいた。
「そう! チーズケーキが美味しいって聞いたから買ってみたら、ほんとにめちゃくちゃ美味しくて……。ここでバイトできたら素敵だなって。ちょうどバイト募集してたから、勢いで応募しちゃった」
「あはは、詩乃さんチーズケーキ好きだもんね」
「……言ったことあったっけ?」
「よく食べてるから、そうなのかなって」
俺のバイト先で初めて遭遇したときも、頼んだものはチーズケーキだった。あれ以降頻繁に来てくれるようになったけど、一番注文するのはチーズケーキだ。
「やっぱり学くん、記憶力いい……。いや、常連さんの注文くらい、私も覚えられるようにならなきゃだよね」
そう気合いを入れる詩乃さん。
確かに接客業なら、常連に対しては覚えたうえでの対応をしたほうがいいことが多いのだろうが――
「変な客もいるし、常連だからって対応変えるのは危ないこともあるよ。自然体でいいと思う」
「え、そうかな……?」
「絶対そうだよ」
力強く肯定すれば、詩乃さんはそっか、とあっさりと納得してくれた。
騙すようで気が引けるが、これでほんの少しは安心できる。俺ですら今まで二回、バイト中にアプローチをかけられたことがあるんだから、詩乃さんだったらそれ以上になるだろう。
……いや、まあ。正直詩乃さんに関しては客観的判断ができていない自覚があるので、そんなことはないのかもしれないけど。
心配しすぎて悪いことはないはずだ。
内心でそんなふうに一人言い訳をしていると、詩乃さんがはっとした顔になった。
「あっ、ごめん、お弁当食べ忘れてた! 待たせちゃったね!? お腹空いちゃったよね……!?」
「ううん、全然平気。でもそろそろ食べ始めないと、詩乃さんは急いで食べなきゃいけないことになるか……」
詩乃さんが弁当のことをすっかり忘れているのはわかっていた。まだ時間に余裕があるからと、指摘しなかった俺が悪い。
とはいえここで謝ると、詩乃さんを恐縮させるだけというのは最近わかってきた。
だからぐっと堪えて、「食べよっか」と笑みを浮かべる。「だね!」と笑って、詩乃さんは弁当を開いた。
それから詩乃さんは、俺に控えめな視線を向けてきた。
「……今日の卵焼き、私が作ったやつなんだけど、」
「食べたい」
「えあっ、う、うん、はい!」
俺の即答で、詩乃さんは反射のように弁当を差し出してくれた。綺麗な色形をした卵焼きは美味そうだった。
……にしても、食い気味に返しすぎたな。
ちょっと反省していると、詩乃さんが遅れて笑い声を上げた。
「っふふ、ふ、あははっ! そんなに食べたかったの? ふふふ……っ」
聞いていても見ていてもくすぐったくなるような、そんな素敵な笑い方だった。
なんだか何も言えなくなって、俺は無言でうんうんうなずいた。詩乃さんはおかしそうに笑いながら、俺が卵焼きを取るのを待ってくれている。
詩乃さんの弁当は、基本的にはお母さんが作っているそうなのだが、時間があるときには一、二品自分で作っているらしい。
そう聞いた俺がよっぽど物欲しげな顔をしていたのか、詩乃さん作のおかずがあるときには「よかったら食べる?」と聞いてくれるようになった。今日はそのセリフを聞く間もなく答えてしまったわけだが。
「いただきます。…………あー、今日も美味い。ありがとう」
「よかったぁ……」
詩乃さんの作る卵焼きは、うちのと違って砂糖入りで甘い。慣れない味ではあったが、それでも優しい味がしてすごく好きだった。
いずれこれが『うちの』味になってくれれば嬉しいんだけど。……冗談でも言えないので、今は胸に秘めておく。
「今日俺も卵焼き作ってきたんだけど――」
「食べたい!」
詩乃さんも食い気味だった。可愛い。
もらってばかりも申し訳ないので、俺も作れるときには簡単なものを作って、詩乃さんにお返しするようにしているのだった。
……少し迷って、結局弁当をそのまま詩乃さんに向ける。あーんの難易度は高い。
「いただきます!」
もぐもぐとよく噛んだ詩乃さんは、「おいしい」と顔を綻ばせた。
「ありがとう、学くん」
こっちこそありがとう、と言うのも変に思われるかもしれないので、「どういたしまして」と微笑んでおいた。
* * *
俺について新しいことを知ったり発見したりするたびに、詩乃さんはとても嬉しそうにしてくれる。
付き合う前から、いつも幸せそうな顔してるなぁ、と思ってはいたが、なんのことはない。付き合う前から俺のことを好きでいてくれたから、ほんの少しでも俺を知るたびににこにこしてくれていたのだ。
それを理解してから、詩乃さんに新しく知ってもらえることはないかな、と俺も探すようになった。
だって本当に、ちょっとしたことでも詩乃さんは喜んでくれるのだ。最近ハマっている曲とか、面白かった本の話とか、はたまた使っているシャンプーとかの話まで。
――そんな中でも、家族の話をしたことはなかった。
完璧主義な親と、それに完璧に応えることのできた兄と、そこそこ応えられる俺。あとはまだすれていない、歳の離れた可愛い妹。
親も兄も別に悪い人たちではないのだけど、どう話したって楽しくはならない。わざわざ詩乃さんに聞かせる話でもないと思っていたのだが、そういえば妹の話はしていいんじゃないかとふと気づいた。
「――えっ!? 学くん妹さんいるの!?」
詩乃さんはこぼれそうなくらいに目を見開いて驚いてくれた。
「うん。今年小学生になったばっかりで、すごい可愛いよ」
妹のことは好きだから、語ると自然に頬が緩む。そんな俺に、詩乃さんは「……っ」と何かを耐えるようにぷるぷる震えた。
たまに……というか結構よくある反応なのだが、なんなのかわからない。瞳は輝いているから、悪い反応ではないのだろう。
とりあえず可愛いからいいか、と思って理由も訊かずにいる。
「実は詩乃さんのとこのケーキも、妹が食べたいって言い出したんだよね。お友達が食べてすごい美味しかったらしくて」
「おともだち……」
「うん? うん。さすがにちっちゃいから店名とか聞き出すの難しくて、結局そのおともだちのママさんに聞きにいったんだ」
「ママさん」
「?」
さっきからなんかオウム返しされるな。よくわからないが、意図していない部分でも幸せを感じてもらえているようで嬉しい。
「い、妹さんは喜んでくれてた?」
「うん! すっごいにっこにこで食べてくれた。ちょっと遠いけど買いにいった甲斐あったよ」
勝手にそんなものを食べさせると親がうるさいので、証拠隠滅が少しめんどくさいのだが。お腹がいっぱいになって夕飯が入らなくなってもいけないので、食べさせられたのは一口二口程度。
とはいえ妹には健やかに育ってほしいので、できる限りのことはしたかった。したいことをして、食べたいものを食べて、楽しい経験をたくさん積んでほしい。
――ところで今日は、俺の誕生日である。
日曜日なので、もしかしたら詩乃さんには会えないかもなぁ、なんて思っていたのだが、詩乃さんからデートに誘ってくれた。それだけでもう、今までの人生で一番素敵な誕生日である。
今はカフェでお茶をしているところ。詩乃さんはまたチーズケーキを頼んでいたから、ちょっとだけ笑ってしまった。
今日一日中、詩乃さんはなんだかそわそわしていた。会って一番に「誕生日おめでとう!」とお祝いしてくれたが、プレゼントはまだなので、それを渡すタイミングを伺っているのだろう。
帰り際に渡してくれるのかな。できれば詩乃さんの目の前ですぐ開けてしまいたいけど、許してくれるだろうか。
そんなふうに俺もずっとそわそわしている。
会話に一段落ついたところで、詩乃さんが緊張の面持ちで黙り込んだ。それから、上目遣いでおずおずと口を開く。
「……あ、あの、学くん」
「うん、どうしたの、詩乃さん」
プレゼント? と訊くのはなんとか我慢した。俺が楽しみにしていた、ということが伝わるのはいいけど、詩乃さんのペースを崩したくはない。
えっと、と口籠る詩乃さんは、やがて鞄の中からラッピングされた箱を取り出した――プレゼントだ!
「改めて、誕生日おめでとう……! よければこれ使ってください!」
「ありがとう! 開けていい!?」
「今!?」
受け取って即座に開ける許可を求めた俺に、詩乃さんは悲鳴のような声を上げた。
「あっ、いや、ごめん、やっぱ嫌だよな……。ちゃんと家で開けるよ」
「い……いや、大丈夫。開けてください!」
覚悟を決めた顔で促されて、本当に大丈夫かな……と思いつつも遠慮なく開けてしまう。
リボンを解いて丁寧にしまい、包装紙も破らないように慎重に取る。現れた白い箱をそっと開けると――中に入っていたのは、革の眼鏡ケースだった。
「ネットで調べたら、眼鏡ケースってプレゼントとしてはいらないって意見も多かったんだけど……! 学くんのケース、ネジの部分? が変になってるのか、閉めづらそうだったから」
言い訳のように、詩乃さんは選んだ理由を言ってくれる。
バイトのときにはコンタクトをしているが、俺は基本眼鏡をかけている。ケースを詩乃さんの前で使ったことは……あったかな。あったとしても一、二回程度だろう。
壊れてるわけじゃないし、まだ買い替えなくていいかと放っておいていたのだが――そんなところまで見てくれてたんだ。
嬉しすぎて言葉が出てこない。
そんな俺に何か誤解したのか、詩乃さんは慌てて補足する。
「でもあれが逆に使いやすいとか、思い出がいっぱい詰まってるとか、そういう感じだったらこっちは全然使わなくていいからね! 予備のケースはないって言ってたし、予備として置いといてもらえればいいなーって……」
「うれしい」
何か言わなきゃ詩乃さんがますます誤解してしまう。そう焦って口を開いたら、出てきたのはそんな拙い言葉だった。
いや、もっとあるだろう。お礼とか、すぐ使わせてもらうね、とか。
「……嬉しい」
だけど続いた言葉も、まったく同じもので。
目をぱちぱちと瞬いた詩乃さんは、それからほっとしたように、ふわりと笑ってくれた。
「……うん、よかった」
詩乃さんを好きになれてよかった、と心から思う。大げさかもしれないけど、もっと思うにふさわしいタイミングがあるのかもしれないけど、だけど今、俺はそう思った。
詩乃さんの笑顔をじいっと見つめていると、徐々にその顔が赤くなっていく。見られすぎて恥ずかしくなってきたらしい。
名残惜しいが視線を少しずらして、はっとする。
「ご、ごめん、お礼言うのが先だったよな。ありがとう、詩乃さん。大切にする」
革の手入れってどうしたらいいんだろう。帰ったらすぐに調べなきゃ。
「喜んでくれたならほんとによかった……」
「すごい悩んでくれた?」
「めちゃくちゃ悩んだよ……! 学くん、欲しいものないって言うし……あっ、それが悪いって言ってるんじゃなくて! 喜んでもらえるもの何かなって考えるの楽しかったし!」
慌てる詩乃さんに、「大丈夫、わかってるよ」とちょっと笑ってしまう。
詩乃さんの誕生日が過ぎてすぐくらいに、詩乃さんは俺の欲しいものを訊いてくれていた。しかしまったく思いつくものがなかったのだ。
そういえばシャーペンの芯そろそろ新しいの買わなきゃな、とか、せいぜいその程度。あとは妹の洋服とか、靴とか……。
そのせいで詩乃さんを悩ませてしまったけど、考えるのも楽しかったと言ってもらえると救われた気持ちになる。慰めじゃなく、本心で言ってくれているのがわかった。
詩乃さんがくれるものならなんだって嬉しいと思っていた。
……だけどまさかこんなに嬉しいなんて、すごいな。妹が初めて口にした言葉が「にーに」だったこと以上に嬉しい。
「そうだ、学くん。今更なんだけど、私がバイトしてること、学校のみんなには言わないでもらえる……?」
「もともと言うつもりはなかったけど……俺みたいに隠す必要ある?」
詩乃さんって、友達にそういう隠し事をするタイプじゃないと思ってたんだけど。
首を傾げる俺に、詩乃さんはちょっと目をさまよわせた。
「……なんていうか、その……私は学くんの秘密を一人だけ知ってるわけだし……。学くんだけが知ってる私の秘密、何か作りたいなって。ちょうど対照的だし、ぴったりの秘密だと思うんだけど……どう、でしょうか」
自信なさげにそう訊かれて、また上手く言葉が出てこなかった。動きそうになる両手を、ぐうっと力を込めて固定する。
……でもこんなの、抱きしめたくなる。どうしよう。
詩乃さんは人のいるところでそんなことされたくないだろうし、そもそも俺たちはまだ手をつなぐくらいしかしていないのだ。たぶん詩乃さん的に、抱きしめるのはもう少し後がいいだろう。
いや、でも。
……俺が多少強引に行っても許してくれるだろうし、キスはさすがに駄目だろうけど抱きしめるくらいならまだ、まだ……いけるんじゃないか? いけるよな? いやいけないか。落ち着け俺、相手は詩乃さんだ。
「…………今ここでぎゅってしても許される?」
「ぎゅっ!? ぎゅ、ぎゅ? え!?」
「いや大丈夫しないです、ごめん、違う場所でする」
「違う場所でするの!? 確定ですか!?」
「ごめん、間違えた……どこでもまだしない……」
だめだ、完璧に脳がアホになってる。口から出る言葉をコントロールできないなんて、詩乃さんに出会うまではなかったことだ。
真っ赤な顔ではわはわと口を動かしていた詩乃さんは、辺りをさっと見回した。賑やかな雰囲気のカフェなので、俺たちが少し大きめの声で話しても、特に誰もこちらを注目しない。
そして詩乃さんは、なぜか静かに立ち上がった。
向かい側に座る俺のもとまで歩いてきて、息を整えた後――一瞬だけ、ぎゅっと。俺の体を抱きしめてくれた。
「さ、されるのはまだ恥ずかしいから……! これで! ごめんね!」
すぐに離れていった体を無理やり抱きしめなかったことを誰かに褒めてほしい。いや詩乃さんに褒めてほしい。言ったらかわいそうだから言わないけど。
……けど、今でさえ、これ以上なく赤い顔をしているのだ。ここで俺から抱きしめたらいったいどうなってしまうんだろう、と考えるのは自然な思考だろう。やらないけど。やりたいけど。
「……………………ありがとう」
なんとか一言、お礼を絞り出すことには成功した。
えへへ、と照れた笑みを浮かべた詩乃さんは、自分の席に戻って、思い切り机に突っ伏した。
「っごめんなさい調子に乗ったかもしれません」
「いやそれは俺のほうじゃない……!?」
「なんで!? いや、だってなんか……ぎゅってしたいって言ってくれたのに、無理だから真逆のことしちゃったし……! よく考えたら抱きしめるのと抱きしめられるのって全然違うし、学くんが求めてたことじゃなかったかもって、あの、その、ね。い、――嫌じゃなかった?」
顔を上げた詩乃さんは、ちょっと涙目だった。
「嫌なわけないじゃん……」
俺のほうが机に突っ伏したい。だめだろ、なんかこれ。……詩乃さんが可愛すぎる。
とりあえず詩乃さんの代わりに、眼鏡ケースの箱を抱きしめておいた。代わりになんてなるわけないけど、手を空けておくとやばい気がした。
……俺が詩乃さんのことをちゃんと認識したのは、バイト先に詩乃さんが来てからだ。それまでは顔と名前が一致してるだけのクラスメイトだった。
だけどそれより前から、詩乃さんは俺のことを好きでいてくれた。俺が詩乃さんのことを好きになる、ずっと前から。
――俺が先に詩乃さんのことを好きになりたかった。
悔しい。なんでこんな素敵な子をもっと早く好きになれなかったんだろう。
幸せなのに、めちゃくちゃ悔しかった。最初のころはちょっと悔しい、程度だったのに、いつのまにこんなに悔しさが膨れ上がっていたんだ。
「いつになったら、俺から抱きしめてもいい?」
好きになるのも、告白も、抱きしめることすら先を越されてしまった。
手をつないだのは俺からだったけど、そんなの全然足りない。もっといろんなことを詩乃さんとしたいし、俺からできることはなんだってしたい。
小さく悲鳴のような声を上げた詩乃さんは、うろたえながらもか細い声で答えてくれた。
「……あ、あし、た?」
言質を取った、と思ってしまう俺は、性格が悪いのだろう。まあ、きっと詩乃さんならそういうところも好きでいてくれるから、別にどうだっていい。
今日がずっと終わってほしくないくらいには幸せなのに、今すぐにでも明日が来てほしいと思う。
贅沢すぎる自分に苦笑いが漏れそうになった。
今日が終わってほしくないという気持ちも、明日が来てほしいという気持ちも、詩乃さんを好きになって初めて知った。
「それじゃあ、明日」
「……は、はい」
「……今日はなんにもしないから、そんなに身構えないで」
「はい!」
そう言っても緊張でがちがちになっている詩乃さん。その様子がなんだかツボに入ってしまって、だけど大声で笑う場面でもないので、小さく笑う。
俺がそんなだから、詩乃さんも少しは緊張が解けたようだった。見るからに強張りが取れたが、それでも俺の笑いは止まらなかった。
「……学くん」
くすくす笑いながら、「なに?」と問う。
「……明日、私からも抱きしめていい?」
一瞬で笑いが止まった。
いや、だって。そんなの。
「駄目なわけないだろ……」
もうだめだ。駄目だ。
今日がずっと続いてほしいし、今すぐにでも明日が来てほしい。
今日の俺も明日の俺も、幸せすぎるから。