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[読み切り版]30歳まで童貞だと魔法使いになる世界

作者: 与野半

 二〇〇一年、世界は突如として異界と繋がった。

 異界の門を通って現れる異形の怪物たちは、人類に対して破壊と混乱をもたらした。

 抵抗むなしく蹂躙される人類。

 世界は絶望に包まれた。

 そんな時、怪物たちに対抗する人間たちが現れる。

 彼らはファンタジーに出てくる魔法のような特別な力を使いこなし、再び人類へ平穏をもたらした。

 多くの人間が彼らのような英雄に憧れたが、誰でもその『力』を手にすることができるわけではない。

 条件はふたつ。

 男性であること。

 そして、齢三十を超えて性交経験がない、つまり童貞であることだ。




 コンビニでのバイトを終えた俺は制服から私服へ着替えてバックヤードを出た。

 冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出してレジへ向かう。

「おつかれさま」

「瀬戸さんもう上がっちゃうんですかぁ?」

 若い女の子が俺の置いたお茶のバーコードをリーダーで読み込みながら不満げな声を上げる。

「もう上がる時間だからな」

 彼女のシフトはあと何時間後かに来る夜勤の人間と交代するまで続く。

「残業していってもいいんですよ」

 慣れた手付きでペットボトルのバーコードへ店のロゴが入ったテープを貼り付けた。

「今日は友だちと飲みの約束だから。悪いね」

 財布から小銭をちょうど取り出してレジの上へ置くと代わりにペットボトルを拾い上げてボディバッグへしまう。

「それじゃお先に」

「おつかれさまでーす」

 俺はコンビニの裏手に停めてある自転車にまたがると友人と落ち合う予定の居酒屋へと向かった。


 赤ちょうちんを掲げた安い大衆居酒屋へ入るとすぐに友人の姿を見つけた。

 片手にはジョッキが握られており、中にはいった黄金色の液体はすでに半分ほどの量しかない。

「おう、敦史。こっちこっち!」

 そのジョッキを持ち上げながら俺の姿を認めて大声で呼ぶ。

 店の中は客の声ですでに騒がしいため、気にするものはいない。

「悪い、遅くなった」

「こっちこそ、先に始めてた」

 俺が席に着くと店員がおしぼりを持ってすぐにやってきたので、俺もビールを注文した。

 なにか特別な話があるわけではないが、こうしてたまに会っては仕事の愚痴だったり、昔話だったり他愛もない会話を肴に酒を飲むことを不定期に続けている。

 今日はふたりだが、メンツはそのときどきだ。

「んじゃ、乾杯」

 俺のビールが届くとジョッキをぶつけて乾杯する。

 仕事終わりのビールはなぜこんなに美味いのだろうか。

 俺たちはくだらない話をしながら一時間ほど飲食を続けていると、友人はジョッキを勢いよくテーブルへ置くと俺の方をじっと見つめてきた。

「……なんだよ」

「お前来週誕生だけど、またいつものメンツで飲みか」

「なにか不満か?」

「不満ではないけどよぉ……」

 それは不満のある人間の言い方だ。

「毎度毎度やろうばかりじゃなくて彼女と過ごすとかあるだろうがよ」

「彼女なんていないんだからしょうがないだろ」

 口を尖らせて文句を言う俺のことを気に留める様子はない。

「もう三十になるっていうのに恋愛経験ゼロっていうのはどうなのかね」

「いいだろ別に、ほっとけよ」

 大きなお世話、というやつだ。

「いい子いないのかぁ?」

「いい子……」

 頭の中にはさきほどまで一緒に仕事をしていた女の子の姿が思い浮かぶ。

 職場でしか会ったことはないが悪い子ではないし、今どきの女の子らしく見た目も可愛らしいと思う。

「おい、バイト先の女の子は辞めておけ」

 俺の考えを見透かしたのか釘を刺され、ギクリとする。

「な、なんでだよ」

「お前、コンビニバイトの女の子って大学生とかだろ? いくつ歳が離れてると思ってるんだよ」

「いやまあ、そうだけどそれくらい歳の離れた夫婦だって別に珍しいわけではないし……」

「そんなことよりさ」

 ブツブツと文句を言う俺のことは無視される。

「三十歳で童貞だったら魔法使いになるって言うだろ。お前どうするんだ?」

「どうって言われても」

 十年前にこの世は別の世界と繋がってしまったらしい。

 そのときに化け物たちと一緒に不思議な力を身につける人たちが現れ始めたそうだ。

 それが通称魔法使い。

 三十歳で童貞だと魔法使いになる、というのだ。

 そんな話は散々聞かされてきたが、いまいち実感というものがない。

 異界から来る怪物たち、魔獣をこの目で見たことはないし、魔法使いを名乗る人物と会ったことはあるが、魔法を体験したわけでもない。

 そんな俺が来週の誕生日で三十歳になる。

 その『法則』が俺にも当てはまるのなら恋愛経験のない俺は魔法使いになるということだが、体質の変化やそれこそ魔法的な体験はいまのところない。

「実感がないんだよなぁ」

「そんなんで大丈夫か? 魔法使いになったら危険な仕事をするかもしれないんだぞ?」

 魔法使いは超常的な力を身につける代わり、届け出が義務化されている。

 その上、いまのところ魔獣に対する有効な対抗手段は魔法使いしかおらず、魔獣が出現した際に近隣の魔法使いには報酬と引き替えに協力が求められる。

 得体の知れない存在と相対するため絶対に安全とは言えず、実際に魔獣との戦闘で命を落とした魔法使いは過去に存在するらしい。

「それはそうだけど……」

 煮え切らない態度の俺に友人は大きなため息をつく。

「来週の飲み会、みんなで金出し合って風俗連れて行ってやるよ」

「は、はぁ?!」

 突然の発言に驚きを隠せない。

「ふ、風俗って、お前結婚してるだろ!」

「俺たちのことはいいんだよ! お前の話だ、お前の!」

 いままで恋愛経験もないのに、急にそんなことを言われてもどうすればいいのかわからない。

「いや、でも、それに……、そういうことはやっぱりちゃんと恋人としたほうが……」

「はぁ、なにを乙女みたいなこと言ってんだよ」

 そんな俺に呆れ、ジョッキに残ったビールを飲み干して追加をさらに注文する。

 そういえば、と話は脱線し、またくだらない雑談を続けながら夜は更け、その日はそのまま解散したのだった。




「今日も上がるの早いんですね」

 一週間後、俺は再びバイト終わりにペットボトルのお茶をレジで会計してもらっている。

「今日も仲間内で飲みなんだ」

「ふーん、仲いいんですねー」

 俺は歩いてまたいつもの居酒屋へと向かった。


 いつもの古臭い赤ちょうちんでは地元の友だちが集まり、俺の誕生日を祝ってくれる。

 といっても、実際には口実を見つけて集まり飲み食いしたいだけなのだが。

 俺たちは酒を飲みながら、何度も聞いた昔話、仕事や家庭の愚痴をおのおの離しながら夜は更けていく。

 もうじき日付が変わる頃に飲み会はお開きになった。

 俺以外はみんな明日も朝から仕事のため、二次会も行くことなく解散となる。若い頃は朝まで飲んだものだが、俺たちも大人になったということだろうか。

「おい、敦史」

 店の外で会計が終わるのを待っていた俺は振り向いた。

「どした?」

「これ、持っていけ」

 そう言って差し出された封筒を受け取って中身を確認する。

「これ、まさか……」

 中には札束というほどではないが、何枚もお札が入っていた。

「そういうこと」

 茶化すように笑う連中の顔を見て、こいつらの意図はすぐにわかった。

「おい」

 俺が封筒を突き返そうとするが、封筒を持った手を押し止める。

「別に今日行かなくてもいいからさ、気が向いたときにでも行ってこいよ」

 その言葉を聞いて、ただふざけているわけではないと悟った。こいつらなりに俺のことを心配しての行動なのだろう。

 大きなお世話だと思いつつも、それを無下にすることはできない。

「わかったよ」

 俺はしぶしぶながら封筒をボディバッグへとしまった。


 三々五々、それぞれの家路につく。

 誕生日ということでいつもより多くの酒を飲まされた。

 普段であればそれほど酔っ払うということもないのだが、ふらつきながらひとり歩いている。

「はぁ、俺も三十かぁ」

 三十歳フリーター、恋愛経験ナシ。

 いままで世間体のような他人の目を気にしたことはなかった。

 仲のいい友人たちもいるし、いまの生活にも不満はない。

 けれど、子供の頃に考えていた三十とはだいぶ違った人生を歩んでいる。

「おっと」

 ぼうっと歩いていたらぶつかってしまった。

「すみません」

 目の前には二人組の若者。

 髪を明るい色に染めていかにも素行の悪そうな見た目をしている。

 男たちは俺の謝罪に対して反応する素振りはなく、ぶつかったことに怒りを露わにするわけでもなくニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべている。

「?」

 不審には思いつつ俺は男たちへ避けて先へ進もうとするが、進路をふさぎ立ちふさがる。

「ぶつかったのになにもなく行く気か?」

「いや、謝りましたけど」

「それじゃあ足りないって言ってるんだよ!」

 突然の怒号に驚く。

「ぶつかったところが痛いんだよなぁ、ちょっと病院で診てもらわないとだめかも」

 男は大げさに痛がるような仕草をみせる。

「……どうしろって?」

 勝ち誇ったような男の笑みが癪に障る。

「金、あるでしょ?」

 そのセリフを聞いて合点がいった。

 きっと俺たちが店の前でのやり取りを見ていて、少しちょっかいをかければその金が手に入ると思ったのだ。

「悪いけど他をあたってくれ」

 そう言って俺は男たちを大きく避けるようにして歩き出した。

「おい! どこいくんだよ、おっさん!」

 男が俺の肩を掴む。

「ツッ」

 乱暴に掴まれたため痛みが走った。

「あんまりなめてると痛い目見るよ」

 もうひとりの男がポケットから折りたたみ式のナイフを取り出して、その刃をこちらへ向ける。

 街灯の灯りが反射して、キラリと光った。

「怪我しないうちに金置いてけよ」

 とうとう本音が飛び出した。

 誰かに助けを求められないかと辺りを見回すが、平日の深夜では人通りはない。そもそも大通りからは離れていて利用する人物も少ない。

 男たちは最初からそれを狙っていたのだろう。

 頼れるものはいない。

 この夜は少し、飲みすぎていたのだと思う。

 凶器を持った男に抵抗するなど命を落としても文句は言えない、もちろん悪いのはこの男たちではあるが。

 さっさと金の入った封筒を渡して、自身の無事に安堵することが正しい選択だったはずだ。

 こんなことがあったんだ、と正直に打ち明ければあいつらも怒ることはしない。そんな連中ではないことを俺はよく知っている。

 むしろ無事でよかったとすら言ってくれる連中だ。

 だから、それがかえって、この男たちにみんなが用意してくれた金を渡してはいけないという感情を強いものにした。

「離せよ」

 肩を掴む男の手から逃れようと身動ぎする。

 恐怖は、感じていない。

「ああ?」

 俺のそんな態度が気に食わなかったのか、男は目を見開いて苛立たしそうに俺を睨みつけている。

「痛い目見ないとわからないみたいだな!」

 男は拳を振りかぶる。

 とっさに、自分の身を守ろうと目をつむり顔を背け、男を拒絶するように両手を体の前へ突き出した。

 なにか思惑があったわけではない、ただの条件反射だ。

 だから男も俺の行動を気にする様子はない。

 本当に無意識だった。

「うわっ、ぁちっ!」

 男が反射的に声を出した。

 驚きと悲鳴の入り混じったような声。

 目を開くと赤い炎が男へ向かって襲いかかり、男の茶髪が焦げている。

 予想だにしない出来事が起こり、男は手を離す。距離を取りながら体のあちこちを叩いて吹き付けた炎の残り火がないか、消してまわる。

「てめぇ、なにしやがった!」

 ナイフを持った男が叫ぶが、俺にも心当たりはない。

「え、あ、いや……。お、おれ……?」

 はっきりしない俺の態度にしびれを切らした男はナイフで切りつけようと上段に振りかぶり、切っ先がきらめく。

「や、やめろ!」

 俺はそれに対してナイフの間合いに入っては危ないと、腕を振って距離を作ろうとする。

 と、振った腕、正確には手のひらから赤い炎が現れ、振った腕の遠心力にしたがって男へ向かって飛んでいく。

「ひっ、うわぁ!」

 男は慌てて炎を避ける。

 男たちは顔を見合わせる。

「こ、こいつ、ま、魔法使いだ……!」

 ふたりは分が悪いと悟ったのか、俺を一瞥もすることなく慌てて踵を返し、夜の街中へと消えていった。

「魔法、使い……?」

——童貞で三十歳を迎えると魔法使いになる

 俺は呆然と手のひらを見つめたあと、星のない夜空を見上げた。

 酔いはすっかり冷めていた。




 俺はぼうっと天井のシミを数えながら名前が呼ばれるのを待っている。

 ここは全国にある『特殊事象対策局』の出張所のひとつで、『特殊能力者管理課』の待合スペースで長椅子に座り、時間を持て余していた。

 本来は、今日はシフトが入っていたのだが店長に事情を離して急遽休みにしてもらった。

 一昨日、魔法使いの能力に目覚めたことを悟った俺は早速その届け出にやってきたのだ。

 魔法使いの存在が認められてから法改正が行われ、魔法使いになったものは速やかに届け出をしなければならない。

 ちなみに、魔法使いは通称で法律上は特殊能力者と呼ばれているが、ほとんどの人間が魔法使いと呼んでいる。

 昨日はじめて、いままで縁のなかったこの場所を訪れて、午前中に書類を作成して提出、午後には数時間に及ぶ講習を受けることとなった。

 そして本日は午前中に能力の種類と魔法使いとしての等級試験を受けて、登録が終わるのを待っている。

 もう一時間以上待っているが、名前は呼ばれずに時刻は十二時をとうに過ぎてしまった。

「瀬戸さん、瀬戸敦史さーん」

 ようやく名前を呼ばれた。

「はい、はい」

 俺は呼ばれた窓口へ行き、安っぽい椅子に腰掛ける。

「まずこちらが認定証です。携帯を義務付けられていますので出歩く際は必ず持って出てください」

 そう言って女性の事務員さんは運転免許証と同じサイズのプラスチックでできたカード型の身分証を渡してくれた。

 そこには生年月日や性別、登録日のほかに『瀬戸敦史二級能力者』と記載されている。

「それとこちらは能力者として活動される際に提出の必要な書類が一式入っています。提出期限はありませんので、中身をよく確認されてから提出してください」

「はぁ」

 茶封筒の中には何枚もの書類が入れられていて厚みがあり、手に持つと重みを感じた。

 正直なところ、まだ実感というものがない。

 昨日の講習も、今日の実技も言われるがままにやったがなにをやっているのか自分でもよくわからなかった。

「以上ですが、なにか質問はありますか?」

「あの、魔法使い、えっと、能力者として活動するひとってどれくらいいるんですか?」

 昨日の講習を受けてはじめて知ったのだが、魔法使いになったからといって必ずしも魔法使いとして活動する必要はないということだった。

 中には魔法使いではあるが、能力値が低いためそれまでと変わらない生活を送っているひともいるし、強制ではないため強い能力を持っていても危険を顧みて断るひともいるそうだ。

「……そうですね、あくまで数字上の話ですが八割以上の方は活動をするために書類提出をするそうです」

 女性は俺の目を見ながら真摯に答えてくれる。

「その、私は能力者になれないので、皆さんの考えを想像することしかできませんが」

 そう前置きする。

「使命感に駆られて積極的に活動される方、それまでの生活に極力影響しないようされる方、生活を壊したくない方などさまざまです。ご家族含めご自身ともよく相談されて決めることが大切だと思います」

「——わかりました、ありがとうございます」

 書類を受け取って俺は建物を後にした。


 魔法使いになったら職場への届け出が必須らしいので、その足で俺の職場であるコンビニへ向かった。

「そっかぁ。瀬戸くん、魔法使いかぁ。うんうん、わかったわかった。うちは引き続き働いてもらって問題ないからこれまで通りよろしくね」

 気のいい店長は、休みを取る際に説明していたこともあって、気にすることもなく受け入れてくれたようだ。

「ありがとうございます」

 頭を下げてバックヤードから出ると、これから出勤なのだろう入れ違いでいつもの女子大学生がバックヤードへ入っていった。

「あ、おつかれさまでーす」

 彼女はいつもの調子で俺の横を通り抜けていった。

 魔法使いになったことで俺自身は劇的に生活が変化し、それ相応の覚悟が必要なのだと思っていた。

 そのため、今後の身の振り方というものを真剣に考えて決めなければならいと思いつめていたのだが、現実はこんなものなのかもしれない。

「店長、瀬戸さん魔法使いになったってホントですかぁ?」

 バックヤードから声が聞こえてくる。

「うん、そうらしいんだ。まぁ、そっとしておいてあげてよ」

「ふーん、三十で童貞ってキモいですね」

「ちょっとちょっと本人にそういうこと言ったらだめだよ」

「いや、さすがに言わないですよー」

 俺はふたりの会話を聞かなかったことにして、足早にコンビニを出ることにした。


 遅めの昼食を取ろうと街中をぶらつく。

「いい年してっていうのはその通りなんだけど、はっきり言われるとヘコむよなぁ」

 歩きながら食事を取れる店を探すが、飯時はとうに過ぎてしまったため開いている店があまりない。

 開いている店といえばファストフードのチェーン店ばかりだ。

 ただでさえ食欲があまりないというのに、味気ないものは食べたくない。

 このままではただの散歩になってしまう。どうしたものかとあちらこちらへ視線を向けて店を探していると、一軒の古臭い喫茶店が目に入った。

 いまどきのおしゃれなカフェとは違う昔ながらの喫茶店だ。

 営業中の札が出ている。

「たまにはこういうのもいいか」

 普段から喫茶店へ足を運ぶということはないのだが、こんな気分だ。たまにはいつもと違うことをしてみるのも一興だろう。

 ドアを手前へ引くと、ドアベルがチリンチリンと音を立てた。

 エプロンを身に着けた中年の女性が席へと案内してくれる。

「こちらの席どうぞ」

 店内は空いていて、四人がけの席へ案内される。

 テーブルは低く、膝の高さくらいしかない。

 アンティーク調の椅子は、座面がピンと張りベロアのような布を通してしっかりと体を支えてくれる。

 テーブルの上にあるメニューを手にとって食事はなにがあるのかと目を通す。

 カレーやピラフ、カツレツ、ナポリタンといった喫茶店らしいメニューが並んでいる。

 喫茶店好きからしたら魅力的なメニューかもしれないが、あまり食欲のないこの状況だともっと軽い食事が好ましい。

「ふむ」

 サンドイッチとコーヒーのセット、これにしよう。

 注文をしようとメニューから顔を上げる、さきほどの女性へお願いすればいいだろう。

「あっ」

 至近距離でさきほどの中年とは違う若い女性と目があった。

 エプロンを身に着け、片手には水の入ったグラス。それを俺が座っている席へ置こうとしている。

 メニューへ意識を集中していたからといってこの距離まで気づかないとはよほど食事が気になっていたか、間抜けかのいずれかだ。前者であることを祈りたいが、そこまで熱心に選んでいたわけではない。

「あ、ごめんなさい!」

 女性も驚きの表情を浮かべたが、すぐに慌てて謝罪する。

 いや、謝るようなことでもないのだが。

「いや、えっと、すみません。注文、いいですか?」

 俺は俺でこの状況に混乱してしまって、謝罪もそこそこに注文を押し通そうとしてしまった。

「は、はい、ど、どうぞ」

「ええと、サンドイッチとコーヒーのセットで」

「コーヒーは食後でよろしいですか?」

「はい」

 そのやり取りでお互い落ち着いたのか、ようやく自然な会話が成立した。

「では少々お待ちください」

 そう言って女性は席を後にする。

 入店時にはあの女性の存在は気が付かなかった。

 視線で女性のあとを追うと厨房へ俺の注文を通している。

 素朴で可愛らしい女性だと思う。俺なんかが見た目の評価をするなどおこがましいが。

 ドキドキと鼓動の音がうるさい。

 あんな至近距離で女性と見つめ合う経験などなかったためドギマギしてしまった。

 気持ちを落ち着けようとグラスに入った水を飲む。冷たい水が口内へ入って嚥下すると少し気持ちが落ち着いた。

 程なくしてサンドイッチがやってきた。

「ここ、はじめてですか?」

 女性が話しかけてくる。

「えっと、はい。近くで働いてるんですけどこんな喫茶店があることにはじめて気が付きました」

 あはは、と女性は困ったように笑う。

「こういうお店はあんまり人気がないんですよ」

 他の客が少ないのは飯時を過ぎたからだと思っていたが、どうやらもともと少ないようだ。

「だけどこうして新しく知ってくれたひとがいるのは嬉しいです」

 そう言って微笑む。

 その笑顔に見惚れて、

「明日から通いますよ」

 と、無謀な宣言をしてしまった。

「本当ですか、嬉しい!」

 女性の笑顔はいっそう華やぐ。

「それじゃあごゆっくり」

 女性が下がると、俺はサンドイッチを口に運ぶ。

 冷静になってみれば、俺のシフトはほとんどが遅番、夜勤で昼間は寝ていることが多い。

 つまりもともとこの喫茶店がやっている時間帯に出勤していること自体少ないのだ。

 今日はたまたまのイレギュラーだった。

 余計な期待を持たせてしまったな、と己の安請け合いに後悔した。


 サンドイッチを食べ終えてボケっとしていると女性が食後のコーヒーを持ってきてくれた。

「サンドイッチ、どうでした?」

「おいしかったです。ごちそうさまでした」

 この程度の会話でも心地よさを感じる。

 俺はコーヒーに口をつける。普段はあまりコーヒー自体飲まず、飲んだとしても缶コーヒー程度だったので喫茶店のちゃんとしたコーヒーというのははじめてかもしれない。

 芳醇な、というのだろうかチョコレートのような少し甘く重い香りが鼻孔をくすぐる。

 口に含むと酸味を感じたがすぐに苦味がやってきて、けれどそれは嫌なものでなく調和していて心地よい。

 後味にあの香りが残り、はっきり言ってかなりうまい。コーヒーは息抜き程度に缶コーヒーを飲んでいたがうまいと思ったことはなかった。

 ちゃんと淹れたコーヒーはこんなに美味なるものなのかと感動を覚える。

「今日はもう上がっちゃっていいよ」

 入り口付近から中年女性の声が聞こえてくる。

「まだ時間じゃないですよ」

「今日は暇だから早めに上がっちゃって。タイムカードはシフト通りでいいから」

「わかりました、ありがとうございます」

 どうやらあの若い女性はもう退勤してしまうようだ。

 少しの時間ではあるが会話できたことに感謝しよう。

「それじゃあ私ももう帰りますね」

 エプロンを外した女性が俺の前までやってきた。

「おつかれさま」

「また会えたら。不定期で働いてるので」

 女性は微笑み、会釈をしてドアベルを鳴らしながら店を出ていった。

 コーヒーに口をつける。酸味のある味が口いっぱいに広がる。

 なんだか精神的に疲れてしまって、やっと一息つけた気がする。

 コーヒーをゆっくりと飲み、根を張ったように動けずにいる。

 これまので人生、場当たり的に生きてきたが、ちゃんと自分の将来について考えるときがきたのかもしれない。

 喫茶店で考えごとをしていると、店の外がにわかにさわがしい。

 怒号や悲鳴のようなものが聞こえてくる。

「……なんだ?」

 気になって視線を店の外へ向ける。

 あいにくと、窓ガラスにステンドグラスのような柄が入っていて外の様子をうかがい知ることはできない。

 と、ひとりの男性が喫茶店へと駆け込んできた。その勢いはドアを壊さんばかりだ。

「ちょっと! なに? どうしたの?」

 中年の女性が入ってきた男性へ声をかける。

 男は床にへたり込み、全力で走ってきたのか背中は大きく動いて息が乱れている。

「ハァハァ……、た、助けてくれ!」

 その取り乱した様子は尋常でないことを喫茶店内の人間へ告げる。

「つ、つつ、通報、電話!」

「な、なに? ぜんぜん要領が」

「怪物が出たんだ! 通りで暴れてる!」

——怪物

 異界の門が開いて以降、世界各地では異界からやってきた異形の存在が目撃されている。

 彼らの目的は不明で、ただ人類に敵対する存在ということしかわかっていない。

 怪物、魔獣と呼ばれる存在はとにかく凶暴で見境なく人間を襲い、破壊活動に勤しんでいる。

 この地方ではあまり魔獣の出現事例はないのだが、とうとうこの地にも現れたのだ。

「だ、だだから! はやく! 電話、通報!」

 男は命からがら逃げてきたのだろう。

 そういうことであればこの尋常ならざる自体にも納得はいく。

「え、ええ、そうね」

 中年女性は店に備え付けの電話の受話器を持ち上げて電話をかけようとするが、なにかに気がついて顔を上げた。

「あの子の帰り道、あっちのほうじゃないかしら……」

 女性の顔はみるみるうちに恐怖と後悔で歪んでいく。

 外の騒ぎはさらに大きくなった気がする。

「こんなことなら残業させてれば……」

 いまや誰だって魔獣の存在は知っている。

 この十年で発生した出来事を、俺自身も学校で習った。だから知識として知っている。

 だが、現実として目の前で起こっている事件、逃げ惑う人々の悲鳴や怒号が遠くから聞こえてくる。

「——!」

 足が震えていることに気がついた。

 魔獣が目の前にいわるわけでもないのに。悲鳴を耳にしただけなのに。

 恐怖で身がすくむ。

——また会えたら

 女性の言葉が頭の中を残響する。

「——ッ」

 テーブルには書類の入った茶封筒。そこには『特殊事象対策局』と印字されている。

 どうするべきか、なにをすべきかは明白だ。

 それでも足の震えは一向に止まらない。

「クソッ!」

 こんなところでビビって震えている自分に腹が立つ。

 いつもいつも悩んでいるフリをして、自分ではなにも考えず、周りの顔色ばかりうかがってきた。

 そんなだから就職も失敗していまだフリーターで、魔法使いなんかになってしまった。

 だけど、もしかしたら、そんな俺でもやっと自分で自分に意味を見出だせるのかもしれない。

 拳を握り自分で太ももを殴りつける。

 足の震えは止まった。


 店を飛び出すと一目散に走り出す。

 魔獣がどこにいるかはわからない。けれど、人々の逃げる方向とは逆へ進めばたどり着けるはずだ。

 俺がなにをできるかはまだわからない。

 それでもなにもせずにいることはできない。

 程なくしてその存在を見つけた。

 黒く、体高は二メートル近く。狼に似た姿の異形、魔獣の存在。

 魔獣はゆっくりと獲物を探すように道路の真ん中を闊歩している。

 それを咎めるものはいない。

 ひとしきり暴れたあとなのか、駐車してあった車は無残にひっくり返り、周囲の建物も損傷が激しい。

 電柱はいくつも倒れ、建物の外壁は崩れている。

 俺は『ヤツ』に見つからないよう物陰に身を潜めながらゆっくりと近づく。

 周囲へ視線をやることは忘れない。

 すると道の端、瓦礫の山近くにうずくまる彼女の姿を発見した。

 大きな怪我があるようには見えないが、身動きが取れずにいるようだ。

 ゆっくりと物音を立てず慎重に近づく。

「大丈夫ですか?」

「え? あ、あなたは……」

 驚く女性。

「逃げましょう、歩けますか?」

「それが、足をくじいてしまって……」

 右足首のあたりが赤く腫れている。ひとりで歩くことは難しいだろう。

 助けにきてよかった。

 俺が松葉杖代わりになれば逃げることができる。

「肩に捕まってください」

 しゃがんで彼女に肩を差し出す。

「はい」

 女性はうなづいて俺の肩に捕まるが、視線を感じた。

「!」

 魔獣がこちらを見つめている。いつの間にか気づかれていた。

「クソッ」

 悪態をつかずにはいられない。

 魔獣が遠吠えのような叫び声を上げる。

「——ッ!」

 身がすくむ。それはこの女性も同じだ。

 どうする、このままでは彼女も危険だ。

「あの」

 女性が掴んだ俺の肩を引っ張った。

「逃げてください。ここにふたりでいるより、それならあなただけでも逃げられるかもしれないから」

 一瞬、なにを言っているのか理解できなかった。

 助けへきたはずなのに、逆に逃げろと言われた。

 しかも彼女は自分を置いていくよう言ったのだ。

 この状況でそれは彼女をオトリにして逃げろということ。

 助けにきたのは俺のはずだったのに。

 彼女は俺を助けようとしてくれている。

 そんなこと許せるはずがない。

「ちょっと待っていてください」

「え?」

 彼女をその場に残したまま俺はゆっくりと立ち上がる。

 視線はあの魔獣から外さない。

 飛びかかろうとしているのか四本脚で地面を踏みしめ、身を低くかがめている。

 生まれてはじめて、強い怒りのような激しい感情が湧き出てきた。

 それの名前がなんなのか、よくはわからない。

 だけど、この状況を引き起こした『ヤツ』の存在を俺は許しがたいと思っている。

「ふぅー」

 深呼吸をして、息を吐き出した。

 自信があるわけではない。なにせこれが初陣だ。

 ゆっくりと右手を『ヤツ』へ向ける。

 認定試験のことを思い出す。

 最初に力を出したときと違って大した炎を出すことができなかった。

「こういうのって最初は制御できなくて怪我するくらい大きな力を出してしまうものじゃないんですか?」

「普通の運動だって普段から鍛えて練習しておかないとそもそも全力を出すこと自体難しいですよね。勉強にしたって模試受けて練習するじゃないですか。基本的には力を抑え込んでしまう、人間ってそういうふうにできてるんですよ」

 その言葉に妙に納得したことを覚えている。

「ま、そう言っても魔法に関しては体よりも心のほうが問題になることが多い、いままで存在しなかった能力が突然身について戸惑わないほうがおかしい」

 いままで俺は本気を出したり必死になったことがなかった。そんな自分だからこそいまここで全力を出さずいったいいつ出すときがくるというのか。

 丹田に力を込める。

「炎よ!」

 飛びかかる魔獣、それに対してなにもない空間から突如湧き出てきた炎の塊が『ヤツ』へ向かって襲いかかる。

 強烈な熱量を持った火球は中空を跳んだ『ヤツ』に当たり、後方へ向かって吹き飛ばした。

 駐車してあった車にその体躯がぶつかり大きな音を立てる。

 衝撃に悶え唸る『ヤツ』の体表は焼けて、残り火から白い煙が昇っている。

「やった……」

 うまくいった。

 だが、致命傷には至っていない。

 毛を逆立てて怒りの感情を表現する『ヤツ』はなおも俺へ向かって身構えている。

 もう一度右手を掲げて火球を発射するが、さきほどのような威力はなく、ヒラリとたやすく躱されてしまった。

「くっ」

 まだ思ったように『力』を使いこなせていない。

 止まったら的になると考えたのか、『ヤツ』は軽快に動き回り、こちらを翻弄して少しずつ近づいていくる。

 太い牙、鋭い爪へ視線が向かうが、努めて意識しないようにする。

 動き回る『ヤツ』に向かって何度も火球を発射するが、かすりすらしない。

「クソ!」

 焦りがこみ上げてくる。

 このままではジリ貧だ。

 再び『ヤツ』は飛びかかろうと身構える。

 さきほどのような威力を出せなければ返り討ちにすることができない。そもそもちゃんと当てなければ威力が合っても意味はない。

 俺に射的経験などあるわけもなく、狙ったつもりでもずれてたやすく避けられてしまった。

 絶体絶命、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

 黒い影は目にも留まらぬ速さでこちらへ向かって飛びかかる。

 ここまでか。

 せめて彼女だけでも守れれば。

 そう思った瞬間、俺の目の前、ちょうど『ヤツ』が俺へ向かってくる軌道上の地面が隆起し、それは鋭い円錐となって『ヤツ』の体を貫いた。

 音にならない断末魔を上げたあと、魔獣は動かなくなり、黒い汚泥となって溶けて絶命した。

「間に合ってよかった」

 見たことのない男がこちらへ向かって歩いてくる。

「君は見ない顔だな、新人か?」

 どうやら先輩の魔法使いらしい。

 きっと誰かが通報して駆けつけてくれたのだ。

「は、はい……」

 気がゆるみその場に尻もちをついてしまった。

「はは、実力はまだまだだがその勇気は称賛に値する。研鑽を積むように」

 そう言い残して魔法使いは残党がいないかあたりの調査を始めた。


 腰が抜けて立てずにいる俺のもとへ、救急隊員に支えられながら彼女がやってきた。

「助けていただいてありがとうございます」

 深々と頭を下げる彼女に、なんだか申し訳ない気持ちになった。

「結局、倒したのは俺じゃないですけどね」

「ふふ、それでもありがとうございます」

 微笑む彼女に鼓動が速くなる。

「いえ、えと、当たり前の、そう、当たり前のことをしただけです」

 ようやく力が入りなんとか立ち上がる。

「——それに」

「はい?」

「あの喫茶店に通うって約束しましたから。あなたがいないと意味がない」

 頬が熱い。

 救急隊員が気まずそうな顔をしているが、もう少しだけ我慢してほしい。

「あ、そうだ」

 咳払いをして改めて彼女へ向き直る。

「名前、教えてください」


三十歳まで童貞で魔法使いというネットスラングから現実でそういうことが起こったらどうなるんだろうというアイデアから設定を作って書いた作品です。

いろいろと設定やキャラクターは考えてあるんですが、それらを作品にすると結構長くなるのでひとまず短編として本作を書き上げました。

もしかしたらそのうち連載作品として投稿するかもしれません。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 30歳で魔法使いになることが社会的なシステムに組み込まれていて、 社会も必要としているという展開が斬新でした。 主人公も経験を積めば、かっこいい魔法使いになれるかもしれませんね。
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