7.正体
その飲み会が終わる頃、江津子はすっかり首の座りが悪くなり、頭をふらふらとさせていた。
飲むのは好きなくせに、彼女はあまり酒が強い方ではない。
大丈夫、いつもこうだから、と言って一人でさっさと帰ろうとする彼女を、わたしたちは駅まで送ることにした。
たぶん本当に大丈夫なのだけれど、それでも暗い夜道を一人、酔っぱらった彼女に歩かせるのは気が引けた。
しばらく歩くと、あのトンネルまでたどり着く。
職場のそばを通り、江津子の使う最寄り駅へと続く最短距離を行くのは、やっぱりこのトンネルだった。
「なんだ。このトンネル、すごく便利じゃない」少し冷静な声を取り戻しながら、江津子がトンネルの入り口で立ち止まる。「朝も夜も、結構人通り、あるんじゃないの?」
「さあ。でもあんまり、他の人を見かけたりはしない」とわたし。「誰かとすれ違うことも、ほとんどないかも」
「きっとみんな、このトンネルに嫌な感じがしてるんだと思うよ。霊感とまでは言わなくてもさ。だからだんだん、このトンネルを避けるようになる」
そう言う五十嵐くんを、じっと江津子が見つめる。
なぜそんな反応をするのか、最初はわからなかったわたしも、不意に先ほどの飲み会で、江津子がメモに書いたことを思いだす。
幽霊などいないし、五十嵐くんに霊感などない。
「ね、ちょっと実験してみない?」
「実験?」
不意に言い出したその言葉の意味を、わたしはつかみかねた。
「うん。足音の正体を知るための実験」
そう言って江津子が提案したその『実験』の内容は、そうとっぴなものではなかった。
わたしたちは五十嵐くんをその場に残し、二人でトンネルの中へと歩みを進める。
トンネルはいくつかの直線と、直角で構成されている。
上空から眺めれば、トンネルの通路は、奇妙な階段状の模様を描くはずだ。
その最初の直角にわたしたちが姿を消し、三十秒ほど経つまで、五十嵐くんにはその場にいてもらう。
それから、速足で歩き、普通にトンネルを進むわたしたちに追いついてもらう。
江津子が言い出したのは、そんな実験だ。
夜のトンネルはやはり暗い。
しかし、今は江津子が隣にいるせいか、さほど怖さは感じない。
トンネルの最初の直角を曲がったころ、江津子がすこし、自慢げに言う。
「これでもし、五十嵐くんの足音だけがわたしたちのすぐそばから聞こえるのなら、それが足音の正体だ、ってことでしょ」
いま、トンネルの中は静かだ。
そして壁の材質のせいか、あるいは他の要因のせいなのか、わたしたちの声も、足音もあまり響かない。
だから江津子のその説はありえないことのように思えるが、それでも実験は実験だ。
「そして五十嵐くんの胸の内を知るヒントにもつながってくるかも。ね、優里、有意義な実験でしょ」
「そんなの、実験とも、幽霊とも無関係でしょ」
そう言うわたしを、下から見上げるように、江津子がにやにやと覗き込んでくる。
「そういえば私、まだ聞いてなかったな。……あなたと五十嵐くんのいまの関係はわかったけど、実際のところ、優里は五十嵐くんのこと、どう思ってるの」
わたしは、黙った。
……実のところ、自分の中ではすでに答えは出ている。だけどまだ、それを言葉にして認め、そして口に出す勇気はわかなかった。
今はまだ、あいまいなままの、胸に秘めた気持ちにしておくのが最適なように思えていた。
それでしばらく黙って歩いた後に、わたしの返事を諦めたのか、江津子が言葉を続ける。
「でもさ、優里、今度引っ越しするんでしょ? いつ引っ越すの」
「二か月か、三か月後かな。調整するのにそのぐらいかかるって、不動産会社が言ってた」
「なんだ、結構先なんだ。……だけど、わかってるよね。引っ越しが終わった後は、今まで通りじゃないかもしれないんだから」
相変わらず、江津子の言葉にはほのめかしが多い。
「それ、どういうこと?」
「つまり、五十嵐くんの胸の中に、幽霊がいない場合だってあるってこと。今はただ、本当に純粋な好意で、優里に付き合ってくれているだけかもしれない」
江津子の目がじっと、わたしを捉える。
そしてわたしは少し考え込む。
それは、確かに、その通りかもしれない。だけど。
「……どっちにしろ、そんなの、江津子に口出しされる問題じゃないよ」
「あ、せっかく色々心配してアドバイスしてる親友に、そういうこと言う?」
「余計なお世話です」
そうしていたずらっぽい笑顔を浮かべた江津子が、わたしに中指を立ててみせたあたりで、わたしたちは背後で鳴った足音を聞きつけた。
五十嵐くんの、こつんと響く底の固い、革靴の音。
振り返ると、すぐ手前の曲がり角から、五十嵐くんの姿が現れる。
彼はなんだか少し苦笑いのような表情を浮かべ、立ち止まったわたしたちの背中に追いつてくる。
「なんだ。二人とも、酔ってるのに、結構歩くの速いんだね」
「自分だって酔ってるくせに。ただ、五十嵐くんが遅いだけじゃないの?」と江津子が答える。「ていうかさ、忍び足とか、してないよね。足音、つい今まで、全然聞こえなかったんだけど」
「……いいや、普通に、少し速めに歩いていただけ」
「そっか。じゃ、実験は、失敗だな。足音は、遠くから聞こえてくることはない。というわけで優里、あなたは毎晩、幽霊に追われてる。残念ながらそういうことね」
半ば投げやりそうに江津子はそう言い、わたしは苦笑する。
五十嵐くんも、肩をすくめていた。
やがてわたしたちはトンネルを抜け、職場のそばに出た。
職場から駅までも、十分ほど歩く必要がある。
その途中で江津子がコンビニに寄り、二日酔いに効く飲み物を買ったりしているうち、結構な時間が経ってしまった。
江津子とは駅の改札の前で別れた。
「今日は楽しかったよ。また今度、三人で飲もう」
ずいぶんと普段の様子に戻った江津子が手を振り、改札へと向かう。
その途中で一度振り返り、真顔でわたしたちに言う。
「ま、そのときは私、お邪魔虫になってるかもしれないけどさ」
そうしてにこっと笑顔を浮かべると、再びこちらに背を向けた彼女は改札を抜け、ホームへと消えていった。
残されたわたしと五十嵐くんの間に、妙な、気恥ずかしい間が出来る。
やがて五十嵐くんが言った。
「じゃ、帰ろうか。明日もあるし」
そうだね、とかなんとかいえばよかったのに、わたしはうまく返事ができなかった。
黙ってうなずき、歩き出した五十嵐くんの隣へ付き従う。
なんだか気まずい、奇妙な空気の中で、しばらく夜を歩く。
……何か話題がないかな。
そんなことを考えれば考えるほど、何も出てこない。
そうして不意に、五十嵐くんが意外なことを言った。
「そうだ。ねえ、冴島さん。足音の正体、わかったよ」