3.悪くないかも
「……ということがあったのよ」
わたしのその話を聞き終えても、五十嵐くんに動じた様子はなかった。
「ふーん。……それだけ?」
「それだけって……同じようなことだって、何度もあったんだよ」
わたしのその体験は、一度きりのことではなかった。
この一か月で、少なくとも四度は似たようなことを体験している。
「その足音ってさ、いつも同じなの?」
わたしは首を横に振る。
音は時と場合によって違った。
最初に聞いたのは特徴的なハイヒールだった。だけど、二度目に聞いたときには、どちらかといえば地面にこすって歩くような、ゴム底らしい足音だった。
その後だって、靴の種類こそはっきりしないものの、毎回微妙に音が違う。
「じゃあさ、それは本当に、誰かの足音なんだよ」
「だって、突然、すぐそばに現れるんだよ」
「それって、今みたいに?」
その発言に、わたしの心臓がどきりとなる。
長い話に夢中になっていて、わたしは気づいていなかった。
口を閉じると、聞こえてくる。
地面のかすかな砂利を踏みしめるような、どうやら革靴の足音が、すぐ背後から響いている。
じゃり、じゃり、じゃり、……。
そんな音が、すぐ背後で、わたしたちを追ってきている。
わたしは五十嵐くんに目を向けるのをやめ、まっすぐ前へと向き直る。
そんなわたしの視界の端で、五十嵐くんは平然と背後を振りかえる。
「ちょっと、五十嵐くん」
小声でわたしは注意をする。
幽霊を刺激したらどうするんだ。
「だいじょうぶ、誰もいないよ」
「だから、それが怖いんじゃん」
「あ、そっか」五十嵐くんは肩をすくめる。それから、何気ない様子で言葉を続ける。「でもこれ本当に、ただの足音だよ。たぶん」
それでドキドキとしていたわたしの心も、少しはおさまる。
「本当に? 誰もいないのに?」
「うーん、それは……原因は、よくわからないけど。ま、気にしないでいいよ」
そう言って五十嵐くんが、わたしににこりと笑いかけてくる。
ちょっとその笑顔に、先ほどとは違う意味でドキっとし、ちくしょう、吊り橋効果め、とわたしは自分の心を忌々しく思う。
「もしかしたら、見える範囲にはいないだけで、トンネルの曲がり角の後ろには、誰かがいるかもしれない。確かめてこようか?」
「いい。一人になるの、怖いから」そう言ってわたしは五十嵐くんに首を振って見せ、それから、前方を指さした。「それにもう、トンネル、抜けるし」
「ああ、そうだね」
トンネルは、大通りに面している。
帰宅時間には、多くの車がこの道を行き交うし、道を照らす街灯だってすごく明るい。
トンネルを抜けてさえしまえば、平凡な、どちらかといえば栄えている街の一角だ。
わたしの胸の高鳴りは、急激に収まった。
五十嵐くんと並んで、トンネルに背を向け、繁華街の方へと歩き出す。
「どうだった、トンネル。二人なら、怖くなかった?」
「まあ、うん。……今日は、ありがと」
わたしは心底そう言った。
「だけど、ま、そもそもぼくのせいなんだけどね。冴島さんを怖がらせたの、ぼくだからさ」
そういえば、そうだった。
だけど、わたしの感謝は変わらない。
なぜって、今日の帰り道の恐怖は、普段に比べてずいぶん減っていたからだ。
足音こそ現れたけれど、二人で話をしているうちにトンネルを抜けた。
最後は少し怖かった。でも全体を総括すれば、ずっとましな方だ。
だが、そんなことはいちいち言わない。
五十嵐くんを調子に乗らせても、あまり面白くない。
繁華街へ入ったあたりで、わたしたちは別れた。
「それじゃ、また明日。気をつけてね」
そう言って軽く手を振ると、五十嵐くんがにこにこ笑いながらわたしに応える。
「明日も一緒に帰る?」
別にだいじょうぶ、と答えそうになったものの、明日のわたしがこのトンネルにどのような感情を抱いているか、自信がなかった。
今日はもう怖くないけど、明日はどうだろう。
「……どうしようかな」
念のため、五十嵐くんの連絡先を聞いておいた。
彼は嫌がりもせず、わたしのその求めに応じてくれた。
そのスマートフォンを使った、面倒なこまごまとした操作を終えた後、わたしは五十嵐くんの顔をじっと見つめた。
五十嵐くんはすこし不思議そうに、わたしの顔を見返してくる。
忌々しい吊り橋効果め、とわたしは考える。
でも、ま、悪くないかも、と心のどこかでそう思った。