2.足音
「おまたせ」
職場から少し離れたところにあるコーヒーショップに、待ち合わせの時間より若干遅れて五十嵐くんが現れた。
「もしかして、忙しかった?」
わたしがそう聞くと、五十嵐くんはゆっくり横に首を振った。
「別にそうでもないんだけどね。普段はすこし残って仕事していくから、何で今日は早いんだ、なんて聞かれてさ。それでちょっと、話が長引いた」
「それもなんだか、だねえ」適当な返事をしながらわたしはテーブルの上のコーヒーを飲み干す。そしてあらかじめ買っていた五十嵐くんの分の持ち帰り用のコーヒーを手渡す。「はい、これ、五十嵐くんの分。わたしのおごり」
「あ、ありがとう」
「さあ、帰ろう」
五十嵐くんと共にコーヒーショップを出る。
歩きつつ、コーヒーをすすりながら五十嵐くんが聞いてくる。
「そういえば、何でこの店で待ち合わせ? 冴島さん、この店好きなの?」
「別にそういうわけじゃなくて。何より、職場の人に見つかると面倒じゃん」
このお店は、実際のところ、わたしはこれまであまり利用したことがなかった。たまに昼食を食べに来るぐらい。そうしてここで職場の人間に会ったことはない。
それに、職場から駅へと向かう道のりからは外れている。ほぼ確実に、この店なら誰にも見つからないと踏んでのチョイスだった。
「隠れて待ち合わせしてるの、見つかる方が面倒だと思うけど」
「確かに。でも、これまでなんでもなかった二人が、急に連れ立って、一緒の方向に帰っていくのって、なんかアレじゃない?」
実際、そういう場面を目撃したら、わたしならつい、色んな想像をしてしまう。
大人になって改めて感じる。わたしたちの心の根底には、どこか下世話なものがある。
「そんなものかな」
そうした下世話なものには、何ら縁がなさそうな顔で、五十嵐くんは肩をすくめて見せる。
実際、彼にはぴんと来ない話なのだろう。なんだかいつも、能天気な感じだし。
コーヒーショップを出て五分ほど歩くと、すぐに、例のトンネルが見えてくる。
トンネルの、職場側からの入り口は、アパート側に比べると若干こぎれいになっている。
なだらかな丘の斜面が突如として切り崩され、そして打ちっぱなしのコンクリートで固められている。
それでもその中央で口を開けている、夜のトンネルの不気味さは、そう簡単には衰えない。
狭い入口に、暗い電灯。
かび臭いトンネルに足を踏み入れながら、わたしはなるべく、軽い調子で聞いた。
「五十嵐くんってさ、見えるの?」
「何が?」と彼はとぼけた声で言い、わたしが言わせんなバカ、と思っていると、やがて彼が言葉を続けた。「ああ、幽霊?」
言うな、バカ。しかもこんなところで。
わたしは一度、ぎゅっと目をつぶる。
「そう、それ」
「いつもは、見えないよ」
五十嵐くんがそんな、意味深に返してくる答えは、かすかにトンネルの中に響いて消えた。
「どういうこと? 霊感があるっていったじゃない」
「うーん……どういえばいいんだろう。どちらかといえば、感覚なんだよね。すごく、胸騒ぎというか、嫌な感じがするんだ。たぶん、一番近いのは、地震が来る前、みたいな感じ。ああ、何か感じる、揺れるぞ、揺れるぞ、みたいな。わかるかな?」
「なんとなく」
地震の例えなら、少しだけぴんと来る。
ただそれは、霊感のイメージとは結び付かなかったけれど。
五十嵐くんはうなずいて、言葉を続ける。
「それが最大限に高まると、説明不可能なものが目に入ったりする。実際に地震が来た、っていう感じかな。……どんなものか、聞きたい?」
わたしは首を強く横に振った。
「だと思ったよ」と五十嵐くん。
しばらくわたしたちは黙って歩く。
じゃあここはどうなの? 今はどう感じるの? とわたしは聞きたかった。
だが聞けなかった。いま、ここで彼の感想を聞くのは怖すぎた。
トンネルは、暗く狭いまま、ずっと奥へと続く。
五十嵐くんと二人並んで歩いている今、なるべく考えまいとしているけれど、背中にぞわぞわとした恐怖を確かに感じている。
やがて五十嵐くんが口を開いた。
「ていうかさ、冴島さんは霊感ないんでしょ。何でこのトンネル、嫌なの?」
「暗いし、長いし、かび臭い。それにわたし、何度かここで、変な経験してるの」
「どんな?」
そうたずねる五十嵐くんに、わたしは説明をした。
それは、具体的にいえば、足音だった。
はじめてその足音を聞いたのは、新居へ引き移って一週間ほどたった後のことだった。
今日みたいな、職場からの帰りの夕方に、わたしはこのトンネルの中を歩いていた。
例によって、なんだか怖いなー、嫌だなー、と思いながら。
そしてトンネルの中ほどを行き過ぎたとき、わたしは足音を聞いた。
それはすぐ背後で鳴る、コツコツという足音だった。
まるで女性が鳴らすハイヒールの音のような。
足音は、何の前触れもなく、急にすぐ真後ろに現れた。
わたしはどきりとして、肩を震わせた。
さっきまで、後ろには誰もいなかったのに。
わたしは足を止めずにトンネルを進む。
背後に気配は感じない。ただ、足音だけがする。
わたしは歩みを速めもしない。わたしの歩行の変化にあわせて、ついてくるその足音も歩を速めた場合、恐怖に耐えられる自信がなかった。
わたしの心に若干のゆるみが生まれたのは、トンネルの出口が見えたときだった。
このトンネルは奇妙な構造をしている。ただまっすぐ伸びているわけではない。
ところどころであみだくじみたく直角に曲がり、そうして再びまっすぐ進む。
そんなわけで、トンネルの途中で振り返っても見える範囲は狭いし、本当に最後の直線に入るまで、トンネルの出口は目にすることが出来ない。
トンネルの出口の姿がわたしに安心を与え、そうして、恐怖の中でも、わたしの好奇心が心をもたげてきた。
つい、振り返ろうという気になってしまった。
足音は未だにわたしのすぐ後ろをついてきていた。
音からすれば、離れていてもせいぜい、数メートル程度。
いま振り返れば、必ず、わたしの後ろを歩くその人の姿が見えるはずだった。
わたしは好奇心に負けた。そのことは、今でも後悔している。
わたしは背後を振りかえった。
トンネルの半ばを迎えるまで、誰もいなかったそこには、改めて振り返っても、やっぱり誰もいなかった。
足音だけが響いていた。
わたしは再び、何気ない様子でトンネルの出口へと目を向けなおした。
そのまま歩くペースは変えず、何とかトンネルを脱出した。
平然とした様子は保っていたつもりだったけれど、心臓は早鐘のように鳴っていた。