1.二で割ろうか
「冴島さんってさ」
新居に引き移って一か月ほど経ったある日のこと、同期で同僚の五十嵐くんが話しかけてきた。
五十嵐くんは、どちらかといえばぼーっとした男だ。いつも穏やかに微笑んでいる。仕事ものんびりと、着実にこなす。
顔もそう悪くはない。
「もしかして、最近、引っ越した?」
「うん」
「それで、もしかして、N町?」
具体的な町名まで出してきた五十嵐くんに、さすがに少し、わたしは驚く。
「え、なんでわかるの? 五十嵐くん、エスパー?」
「いや、この間、見かけたからさ。近所のスーパーで」
話を聞くに、どうやら五十嵐くんは、わたしの新居の近所に住んでいるらしかった。
職場からトンネルを抜け、しばらくまっすぐ歩くとスーパーのある繁華街へ出る。
繁華街を正面にして、その右手にあるのはN町で、左手にあるのはM町だった。
五十嵐くんはM町に住んでいるそうだ。
「なんだ、ご近所さんなんだ」
納得したわたしに、五十嵐くんが微笑みかける。
「そういうこと。ぼくもつい二か月前に、引っ越したばかりなんだけどさ。じゃあ今度、冴島さんのうちで引っ越しお祝いパーティーでもやろうか」
五十嵐くんはそう、にこにこと笑いながら適当なことを言う。
「ま、祝ってくれるならありがたいけど、……実のところ、祝われるような気分でもないんだよね。五十嵐くんもあのトンネル、通ってるんでしょ」
「うん? ……ああ、あのトンネルね」
「気味が悪くない? あのトンネル」
ご近所に住み、しかも同じ職場といえば、あのトンネルのことに触れざるを得ない。
職場へと徒歩十分の道のり。
契約を決めたときのわたしは知らなかったが、その道のりの半分以上をトンネルが占めている。
実際には地下道かもしれないのだけれど、わたしはとりあえずトンネルだと思っている。
住んで一か月になる新居を出て、繁華街を貫く大通りを進むと、すぐにそのなだらかな下り坂の途中の左手に、トンネルが見えてくる。
それがひどく不気味なトンネルだ。
高さは大体二メートル五十センチ、幅は約三メートル。
中はじめじめとしており、あまり明るくない蛍光灯が灯っている。
打ちっぱなしのコンクリートのところどころに、自生しているコケがまだら模様を描いている。
奇妙なつくりになっており、いくつかの長い直線と、いくつもの直角で構成されている。
ところがこのトンネルがえらく通勤に都合がいい。
このトンネルを通れば、ほぼ最短距離でわたしの職場のすぐ近くに出る。
一方でこのトンネルを通らなければ、トンネルが貫通している丘をぐるっと回りこむことになり、徒歩だと二倍以上もの時間がかかる。
わたしは、怖いものが嫌いだ。だからこのトンネルも嫌いだ。
だけど、トンネルを通らなければ通勤時間が長くなる。引っ越した意味があまりなくなる。
朝はまだよかった。周囲は明るいし、トンネルにもなぜだか怖い雰囲気を感じない。
何より朝に弱いわたしは、いつも職場へ急いでいる。
小走りで駆けながら、その日の仕事のことなんかを考えたりしているうち、いつの間にかトンネルを越えている。
困るのは、夜だ。
すでにわたしは夜の帰り道に、このトンネルで何度か怖い思いをしていた。
五十嵐くんとの会話の中でふと、あの足音のことを思い起こし、わたしはぶるりと背筋を震わせた。
「そっか。冴島さんもあのトンネル、嫌いなんだ」
「うん。だって、雰囲気、悪いし。かび臭いし。オバケ出そうだし」
続けて、足音の話をしてやろうかとわたしは考えた。
だが、実際に口を開く前に踏みとどまった。
この会社で働きはじめて、もう三年になる。もうすぐ、四捨五入すれば三十路になってしまうのに、冗談ならさておき、ホントの本気でオバケが怖い、なんて言えっこない。
「そうなんだよね……」
ところが、五十嵐くんは真面目な顔でそんなことを言い、それから何度か、一人で合点がいったように、うんうんとうなずいてみせた。
わたしは何か嫌な予感がした。
やがて、五十嵐くんはわたしへと、珍しく鋭い目を向けた。
「ね、冴島さんって霊感、ある?」
「ない」
嫌な予感がさらに強まる。たぶん、これはわたしが聞きたくない話だ。その先はやめてくれ。
わたしはそう考えながら即答した。
そしてわたしが押しとどめる間もなく、五十嵐くんが言う。
「ぼくにはある。それでさ、……あのトンネル、いるんだよね」
「何が」
「幽霊が」
その言葉を聞いて、わたしはたぶん、一瞬白目をむいた。
それからぎゅっと目を閉じて、五十嵐くんのバカ、と心の中で叫んだ。
「どしたの、冴島さん」
わたしの気持ちをつゆとも知らず、五十嵐くんは、ぼんやりとした声でそんなことを言ってくる。
不機嫌さを隠そうともせず、わたしは言った。
「あのね、五十嵐くん。わたしには嫌いなものが二つあるの。一つはデリカシーのない男。つまりあなたのような人」
「うん」と、五十嵐くんは平然とした様子でその言葉を受け止める。まあ知り合ったときから結構、思っていることは遠慮なく言い合う関係だ。このぐらいでは驚くまい。「もう一つは?」
「怖いもの」わたしは素直にそう言った。「ああ、もう、最悪。ただでさえあそこ、怖かったのに。霊感ある人は、幽霊がいる、なんて言っちゃダメなんだって」
夜のことを思いながらわたしはそう嘆き、なんだか最後には涙声になってしまった。
五十嵐くんも、さすがにぼんやりとした顔をやめて、気の毒そうにわたしをのぞき込む。
「あれ、冴島さんって……そんなだっけ」
「実は、そんななの。マジでダメなの、わたし」
そう言って、大きなため息をついてみせる。
ため息がつけて、五十嵐くんをなじれる余裕があるのも今だけだ。
夜、あのトンネルを通ることを考えると、本当に先が思いやられる。
「あれ、それは悪いことしたな」
「本当に、犯罪級だからね。毎晩、一人で怖がって帰ってるのにさ。みんな電車通勤だから、あっち側へ帰る人、誰もいないのに」
わたしは肩を落としてそう言った。
そうしてしばらくうなだれていると、五十嵐くんが突然、なぜか手をピースマークのようにしながら、わたしに言った。
「じゃ、その怖さ、二で割ろうか」
「ん?」
「今晩、一緒に帰ろうよ。だって、帰り道、同じなんだし」