13.血まみれの女
午前八時五十分に、わたしたちは繁華街の大通りで合流した。
「眠そうだね」
合流した五十嵐くんは、わたしの顔色を見てそう言った。
わたしはためらいながらも、首を縦に振った。
「頑張ったけど、朝、やっぱり、つらい……」
わたしたちは大通りを歩きはじめた。
新しく移り住む予定のアパートは、ここから三十分ほど離れた場所にある。
そこへ向かう最短距離は、やっぱり、トンネルを抜ける道だった。
その新しいアパートの場所を五十嵐くんに伝えながら歩いていると、彼が不意に立ち止まった。
数歩を進んで、気づいたわたしが振り返る。
「どうしたの?」
五十嵐くんは目を丸く見開いていた。
驚いていたかのようだった。
再び、歩き出しはじめた五十嵐くんが、わたしの耳元でささやいた。
「トンネルに入るのやめて、まっすぐ進もう」
「何で?」
「いいから。あとで説明する」
五十嵐くんは真剣な顔をしていた。
そしてもう視線すらトンネルに向けず、顔をまっすぐ向けたまま直進していた。
わたしはその反応に、何となく心当たりがあった。
それは怖いものの気配を感じたときにわたしがするリアクションと、よく似ていた。
トンネルへ入らず大通りを進んだ場合、職場へ向かうのと同じで、トンネルが貫通している丘を回り込む必要が出てくるため、かなりのタイムロスになる。
だけどわたしは五十嵐くんの言葉に従った。
それほど、彼の言葉には何か重みがあったし、普段は見ないような青ざめた表情をしていた。
十分ほど、そのまま無言でわたしたちは歩いた。
やがて五十嵐くんが、ふうっ、と大きく息を吐いた。
「ここまでくれば大丈夫かな」歩きながら、彼はちらりと後ろを振り返る。そしてつぶやく。「なんだよ、あれ」
「ねえ、何かあったの?」
わたしの言葉に、五十嵐くんはためらうような顔を見せる。困った顔のまま、彼はわたしにたずねた。
「優里は、あのトンネルに、何も感じなかったの?」
「別に普通だけど。いつもの朝と同じ」わたしには、変わった様子は何もなく思えた。ただ、そう聞かれることの意味ぐらいはわかった。「何かがいたの? ……別に怖くてもいいから、言って。秘密にされている方が、気になるから」
少しの間、じっとわたしを見つめた後、ゆっくりと五十嵐くんは口を開いた。
「いま、あのトンネルの中には、血まみれの女性がいる。……どこまで聞きたい?」
「ぜんぶ」
ついそう言ってから、それで本当によかったのか、わたしは少し後悔する。
「全部、ね。……あそこにはいま、スーツを着た、優里と同年代の女の人がいる。上着の白いブラウスは、お腹のあたりから血で真っ赤に染まっている。その血はスカートにまで流れていて、黒い布地が変色している」
わたしは五十嵐くんの言葉を、頭の中でイメージしてみる。
だけど、あまりうまくいかない。
そんな物騒なものは、そう現実に存在しない。
そしてフィクションの世界における怖いものは、わたしは意識的に避けてきていた。
五十嵐くんの言葉が続く。
「彼女は赤く染まった腹部を、右手で押さえていた。そしてその目は、何か憎らしいものを探すように、見開かれたまま、こちらに向けられていた。……彼女を見つけた瞬間、ぼくにはわかった。あのトンネルを通るとき、ぼくが普段感じているのは、彼女の存在の残滓、痕跡なんだ、と。普段、彼女はあのトンネルにはいない。毎朝、今から三十分前ぐらい前にトンネルを通るぼくだって、見たことがない。だけど、今の時間ならいる。この時間と、生前の彼女との間には、何か関係があるんだろう」
五十嵐くんは、自分の腕時計に目を向ける。
「優里の出勤時間って、だいたい今ぐらいの時間だよね」
五十嵐くんの時計は、午前八時五十五分を指していた。わたしはうなずいてみせる。
「じゃ、優里は毎朝、彼女のそばを通っているはずだよ」
さすがにその言葉は、わたしの背筋をぞっとさせた。
「ねえ、怖がらせないでよ」
「ごめん。全部、聞きたいっていったからさ」かすかな苦笑を五十嵐くんが浮かべる。そして彼は続けた。「優里が朝、トンネルで誰にもニアミスしないのは、たぶん彼女のせいだ。みんな、見えないまでも、嫌な感じを覚えているはずだよ。意識的か、無意識かはわからないけれど、この時間に、あのトンネルを通るのをみんな避けているんだ。霊感がなくて、何も感じない優里だけが、朝、あのトンネルを平気で歩ける……」
「それって、いいこと? 悪い事?」
おずおずとわたしがたずねると、五十嵐くんが真顔に戻って言う。
「あまりいい事じゃない、とぼくは思う。今まで平気なら、たぶん、これからも大丈夫だと思うけど……それでも、やっぱり、引っ越そう。ぼくも、いずれそうする。……実のところ、あんなにはっきりと霊の姿を見たの、ぼくもはじめてなんだ」
その後、わたしたちは予定通り、わたしが引っ越す予定のアパートへ行った。
五十嵐くんによれば、そのアパートはトンネルとは違い、この世のものではない存在の気配は感じられないらしかった。
アパートへ寄った後は、わたしたちは予定通り映画を観た。
そしてその帰り道にわたしは、当初予定していなかった、折りたたみ自転車を購入した。
リサイクルショップの店先で、比較的安く売っていたのを見て、買うのをすぐに決めた。
五十嵐くんはわたしに代わり、少し重そうにしながらも、その自転車を運んでくれた。
「通勤用?」
そう五十嵐くんから聞かれたわたしは、うなずいて答える。
「あんな話を聞いたからには、もうあのトンネル、通れない。いくら見えなくて、感じられなくても」
少し恨み節をまぜたつもりだったけれど、五十嵐くんは真面目にうなずいた。
「その方がいいね。ぼくもそうする」それから、持っていた自転車に目を向けた。「こういう自転車、どこかにもう一つ、売ってないかな」




