12.引っ越し、やめようかな
二度目の引っ越しをする前に、わたしは迷っていた。
足音の正体はすでにわかった。
だから、あのトンネルを恐れる必要は特にない。
そうして、改めて引っ越しをするのは面倒だ。
「引っ越し、やめようかな」
五十嵐くんと付き合いだしてから間もない、ある金曜日の夜に、わたしは彼にそう言ってみた。
給料日後で、懐が普段よりも豊かだったわたしたちは、少し豪華なところで食事をした。その帰り道だった。
引っ越しを渋るそのわけを話し終えると、五十嵐くんは少し戸惑いながらも言った。
「またダメ元で、不動産会社に話してみれば? ……個人的には、引っ越すことをオススメするけど」
「……わたしがそばに住んでるの、嫌?」
わたしがそう聞くと、五十嵐くんは手を振って否定する。
「そんなこと、ないよ。むしろ近くにいられた方がいい。だけど……」
なぜ五十嵐くんが、ためらいながら言葉を紡ぐのかがわからない。
「怖がらないでよ、優里」付き合いだしてから、五十嵐くんはわたしのことを名前で呼ぶようになっていた。わたしがそう求めたからだ。「前も言ったけど、あのトンネルには何かがいるんだ」
わたしはじっとその顔を見つめる。
そして以前の江津子との話を思い出す。
幽霊の正体は、わたしへの恋心。
だけどその考えは間違っていたらしい。
お互いの気持ちがわかり、そして付き合いはじめた今はもう、わたしと一緒の時間を過ごすためにそんなことをいう必要がない。
「五十嵐くんは、ずっとそう言ってるよね。足音は、ただの音だ。でも、他に幽霊がいる」
「うん。感じないなら、それはそれでいいと思うけど……いるのは、確かだと思うんだ」
「そっか」
どう反応していいかわからず、わたしはそうとだけ返事をした。
ついさっきもそのトンネルを通ったばかりだった。
その日は足音もせず、そしてわたしが他に何かを感じることもなかった。
五十嵐くんの様子も、普段と何も変わらなかった。
「あ、そうだ。せっかくなら、ぼくにもその引っ越すかもしれないアパート、見せてくれない? ここからそう遠くはないんでしょ」
「いいけど。どうして?」
「だって、引っ越した先の部屋にも、変なのがいたら嫌だろう。優里が苦手な、怖いものが住み着いているアパートだって、結構多いんだから」
わたしは軽く首をひねった。
「大丈夫だと思うけどな。わたし、霊感ないし」
「だけど、霊感がある人から、大丈夫だと言われた方が安心じゃない?」
まあ、確かに。
「明日の朝、駅に行く前に少し、そっちに寄ってみようよ」
翌日は土曜日で、次の日も五十嵐くんとお出かけをする予定だった。
いいよ、と軽く返事をして別れた後で、わたしは気がついた。
翌日の午前中に、わたしたちは映画を見に行く予定だった。
すでにネットでチケットを押さえてあった。
その映画を見に行く前に、アパートへ立ち寄るとすれば、朝はかなり早めに出発しなければならない。
わたしは、朝が嫌いだ。
部屋に戻ってから、改めて五十嵐くんに、明日の合流時間を確認した。
すると五十嵐くんが提示してきた時間は、普段、職場へ出勤するときとそう変わらないほど早かった。
五十嵐くんの朝は早い。職場にもかなり余裕をもって到着しているらしい。一方わたしの朝は遅い。
だけど、もう少し遅くに合流しよう、とはそのときわたしは提案しなかった。
付き合いたてで、まだそういうだらしない面を見せるのは、少し早すぎるように思えた。
まあ、五十嵐くんは先刻ご承知のはずだったけれど。
翌日の朝、目覚まし時計の他に、スマートフォンの目覚ましと、多くの努力を駆使して、なんとか約束の時間に間に合うように目を覚ました。




