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11.知らなくてもいいこと

 江津子はじっとわたしを見つめた。

 やがて、にっこりと笑顔を浮かべる。


「そうそう、そういう話が聞きたかったんだって。やっぱりトンネルの幽霊の正体は、優里への恋心だったか」


 その江津子の言葉に、わたしは曖昧に微笑んでみせる。


 わたしたちが付き合いはじめたのは、トンネルの秘密が解き明かされてから、すぐのことだった。

 わたしがおびえていた音の正体が、なんでもない物理現象だと判明してしまうと、結局のところわたしは、自分自身の気持ちと向き合う羽目になった。

 いや、向き合わざるを得なかった。


 何しろ、正体不明で不気味だからこそ怖かったもののタネが割れてしまえば、いつまでもおびえているわけにはいかない。

 したがって、トンネルの足音の他に、五十嵐くんと顔を合わせ、そして共に帰る別な理由が必要だった。

 そしてそんなものは、たった一つしか思い浮かばなかった。


 三人で飲みに行った週末の金曜日に、わたしは相変わらず五十嵐くんと合流し、帰り道を歩いていた。

 その週は、それまでと変わらず、ずっとそうしていた。

 五十嵐くんもそんなわたしに何かを問いかけることもなく、今までと同じように付き合ってくれていた。


 そんな金曜日の夜の帰り道に、足音が出た。

 ぺた、ぺた、という、ゆっくりとした靴底の薄い靴の音がすぐ背後で鳴っていた。

 それが聞こえはじめると、わたしは素早く五十嵐くんの顔へと目を向けた。

 暗いトンネルの明かりの中で、五十嵐くんもこちらを見返していた。


「ただの足音が聞こえる」


 わたしがそういうと、五十嵐くんがうなずいた。


「そう。幽霊でも、なんでもない」


 足音はトンネルを抜けてしまうまで聞こえていた。

 トンネルを出ると、わたしはその場に立ち止まった。

 数歩進んでから、そんなわたしに五十嵐くんが気づく。


「どしたの?」

「一応、足音の正体、確かめてみるの」


 五分ほど、その場に立ち止まって時間をつぶした。

 繁華街へつながる大通りには、おそらく帰路へと向かっている、多くの車が通っていた。

 二人で並んで立ち、左右に流れるそのヘッドライトの光を眺めているうち、不意にトンネルから人の姿が現れた。


 高齢の男性だった。少し、足が悪いのかもしれない。

 グレーのスーツに、ハットをかぶっていて、足元は履きやすく動きやすいスニーカーだった。

 そのおじいちゃんが、わたしのアパートとは反対の方向へと歩み去ってくのを二人で眺めた。

 その背中は、ゆっくりと、ぺた、ぺた、と音を鳴らして遠ざかっていった。


 五十嵐くんへ目を向けると、彼は何も言わずに微笑んでいた。

 先に繁華街の方向へと歩き出しながら、わたしは五十嵐くんにたずねた。


「ね、五十嵐くん。わたしのこと、好き?」


 すぐには振り返らなかった。

 振り返れなかった。


「ずいぶん、唐突だね」と背中から、五十嵐くんの声。

「……だって、足音、怖くなくなったからさ。だから、何か、五十嵐くんと会う他の理由が必要かなと思って」ああ、言ってしまった、とわたしは思う。「わたしはね、その、……」


 だけどその後の言葉は、恥ずかしくて、どうしても言えなかった。


「……そっか」とやがて五十嵐くんが言った。「じゃあ、消えてしまった冴島さんの怖さの代わりに、ぼくが抱いている感情も、二人で分け合う必要があるんだね」

「それって……つまり、どういうこと?」

「ぼくは冴島さんのことが、好きってこと」


 数歩、歩いてから、わたしは振り返った。

 五十嵐くんはやっぱり、微笑んでいた。

 ゆっくりと息を吐き、胸の鼓動を落ち着かせてから、わたしは言った。


「それなら、問題なく、二で割れるね」


 わたしのそんな思い出をかいつまんだ話をしていると、江津子は笑顔をかみしめるように、にやにやしながら頬を膨らませていた。

 やがてわたしの話が終わると、江津子が言った。


「いいね、優里。あなた、まだそんな青春できるほど、純真な心を持ってたんだ」

「そうだよ」とわたしは悪びれずに言った。「何しろまだ、オバケが怖いお年頃だし」

「そういえば、そうだったね。で、彼、どう? 付き合ってみて。幻滅してない?」


 江津子はよく男性に幻滅している。だからそんなことを聞くのだろう。

 わたしは首を横に振った。


「五十嵐くん、優しいし、かっこいいよ」


 江津子は滅多に見せない、満面の笑顔を浮かべてみせる。


「くっそ、楽しそうだな。いいな、付き合いたて、ってさあ」

「江津子だって、そういう時期、あったでしょ」


 以前はさんざんのろけられたものだった。

 今のわたしがそうしているように。

 しかし江津子は急に冷静な顔になると、肩をすくめて、目の前のパスタを食べはじめた。


「そんな時代も、あったね……」


 その後食事を終え、研修会場へ戻る途中で、江津子がふとわたしにたずねてきた。


「そういえば、それなら何で優里は引っ越したの? もう足音は怖くないんだし。引っ越しちゃったら帰り道、もう一緒に歩けなくなるわけでしょう?」

「……まあ、それはもう、不動産会社に頼んじゃってたからさ。引っ越し、っていっても全然違う場所にいったわけじゃないから、いいの」

「そんなもの? 私なら、不動産会社に話す手間より、引っ越しの手間の方が面倒だと思うけどなあ」


 わたしは江津子に、ただ笑顔を浮かべただけで答えた。

 江津子はなんだか少し腑に落ちない顔をしていたけれど、会社の入り口が見えると、途端に仕事モードの顔へと切り替わった。


「さ、午後も頑張るか」


 わたしはうなずき、江津子と並んで社内へと足を踏み入れる。


 そして江津子があまりそのことを追及してくれなくてよかった、と思う。

 江津子には、あえて話していないことがあった。

 それはたぶん、彼女が知らなくてもいいし、今後も知るはずのないことだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] にやにやしてしまいました。 二人の感情を二人で分け合うの、良いですね。
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