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9.ただの足音

 合流したわたしたちは、職場の方へと引き返す。

 わたしの隣を歩く、五十嵐くんの言葉が続く。


「つまり、足音は本当に、ただの足音なんだよ。足音が現れるときは、別な誰かが、ずっと後ろの方でトンネルに足を踏み入れていたんだ。もしくは、すれ違った誰かの足音が、ずっと遠くから反響してるんだ。朝に足音が現れないのも、それが原因だ。……というより、意識の差、かな。後ろから追われているのに、誰もいないのは怖い。でも逆に、前から響いてくる足音は、そんなに気にもしない。現にぼくは、昨夜はじめて、音の発信源と聞こえてくる位置に違いがあるのを意識した。冴島さんだって、そうじゃない?」


 わたしは首をひねってみせる。

 朝、このトンネルを通るとき、他の誰かの足音を聞いたことはあっただろうか?

 いや、記憶がない。


「でもわたし、朝は本当に、前からだろうが後ろからだろうが、足音を聞いたことがないんだけど。そういえば、誰かとすれ違ったこともない」


 少し不可解そうな顔をしたあと、五十嵐くんは苦笑を浮かべた。


「じゃ、それは、冴島さんの出勤時間のせいだ。いつもギリギリだからだよ」

「え? そういうことなの?」

「冴島さんは朝が遅すぎて、誰ともニアミスしないんだ。ちょうど誰もいなくなる時間に、このトンネルを歩いているに違いない。ただ、それだけのことだよ」


 そんな話をしているうちに、トンネルの出口が見えてくる。

 一歩外へ出ると、冷たくかび臭いトンネルの空気から一転、さわやかな風がわたしたちの肌をなでた。つい、深く呼吸をして、体を伸ばしてしまう。

 あくびのように伝染するものなのか、五十嵐くんも同じようにしていた。


 それからわたしは、腕時計に目を落とす。

 お昼休みが終わるまでは、まだまだ時間があった。


「ね、五十嵐くん。せっかくだから一緒にお昼でも食べない?」

「いいね」


 重大なことに気づいたのは、そうやって五十嵐くんと、職場の近くにある洋食店でランチを食べていた、ちょうどそのときだった。


 わたしはパスタをほおばりながら、今日知った、トンネルの秘密を頭の中で反芻していた。

 足音は、ただの足音だ。だから怖がる必要はない。

 なぜってあれは、誰かの足音がただ、やけに近くから聞こえてくるだけなのだから。


 だから、昨日行った、江津子の実験にも意味があったわけだ。

 あれがなければ、ひょっとすると、五十嵐くんはトンネルの秘密に気づかなかったかもしれない。


 ……、とそのときわたしは思い出す。

 昨晩の実験の際、わたしと江津子はどんな話をしていた?


 それは、わたしと五十嵐くんの関係に関する話だった。

 ただ、細かいところまでは、はっきりとは思い出せない。


 足音も、話し声さえも、すぐそばから聞こえてくると、五十嵐くんは言っていた。

 そしてわたしも実際にそれを体験した。

 つまり、てっきり聞かれていないと思ってやった、女同士のナイショ話は、すべて五十嵐くんに聞かれていた、ってことだ。


 わたしは口からフォークを抜き、そうしてパスタをかみしめながら、こっそりと、食事を続ける五十嵐くんの顔色をうかがう。

 何かわたしは、言ってはいけないことを言わなかっただろうな。


 言ってはいけないことってつまりその、五十嵐くんのことを、好きだとか、なんとか。

 今日の五十嵐くんも、別に普通にわたしに接していから、たぶん大丈夫だと思うけど。

 なんて考えていたあたりで、五十嵐くんが不意に、わたしの視線に気づく。


「ん? どうしたの、冴島さん」

「ううん。なんでもない」


 わたしはパスタを飲み下し、そう言って首を横に振る。

 五十嵐くんのその視線に、もじもじしているのを悟られないように気をつけながら。

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