なんやかやあったが、まだ生きている。
2015年9月13日にツイッター上で放流した不定期連作を修正・改稿したモノです。
2015/09/13:PM
なんやかやあったが、まだ生きている。
いつまで持つかと危ぶんでいたネット回線は9月に入ってからも問題なく繋がっていて
電気や水道水等のライフラインも生きている。
預金口座からの自動引き落としが続く限りは問題なく繋がる…というのは、流石に甘いのかもしれないが
現状半年は支払える額の筈だ。
引き落としの通知は、配達されて来ないかもしれないが。
時折友人知人にかける電話だが、繋がる相手もいる。
一日一度、5日試して繋がらないアドレスに関しては、滅多に使わなかったグループ分けをした。
思いの外多かった連絡先の確認が、この上なく気の重い作業になっている。
繋がる相手に限って言えば
当然ながら『充電ができる環境』に身を置いていて
その殆どが最寄りの避難所に身を寄せているのだという。
伝え聞く避難所の現状は耳を覆いたく成るものばかりで、さらに気が重くなる。
本当に日本の話なのかと
すっかり入り浸る事になった海外のフォーラムにはアカウントを作った。
翻訳ソフトに頼り切りになりながら、今日もログインタイマーを更新する。
前回ログインから、5時間。
『はろー』と書き込むと、ログイン中のユーザー達から即座にレスポンスが帰ってくる
この瞬間は少しだけ、気持ちが和らぐ。
このタイマーは、アカウントの前回ログインからの時間を指していて
数日(おおよそ3日)更新が止まった場合…ログインが復帰したヤツは殆ど居ない。
あの『八月最後の日』から僅か数日で
止まったタイマーの数は、『15』
ログアウトを示す灰色の表記を怖れるように
生存者はフォーラムに齧りつき、近況をやりとりしている。
活発に、熱心に、必死に、どこか縋るように
生き残る術や、日常の事を
ほんの少しでも明るい、何か希望じみた事を求めてやりとりしている。
>>『おはようY(自分の事だ)、菜園の方はどう?』
ご丁寧に日本語で、フランスで家族と家に籠城している女性からメッセージが届いた。
『おはよう、今日はまだ見ていない』
無学を呪いながら、相手に甘えて日本語で返す。
我ながら呆れる様なだらしない発言に、何人かの外野からも叱責や苦笑のニュアンスが帰ってくる。
大勢の意見は『ソッチは今、夜だろう』『今日一日何をしていた』という物だが
いい加減コチラのバイオリズムというのを理解して欲しい。
昼夜逆転生活は、最大限のスペックを発揮するのに必須なのだ。
『昼間がヤバイのはみんな知ってるだろうに』
>>『それはそうだけど』
>>『だからってお前』
>>『その状況でその生活は…』
>>『日本人図太すぎるだろう』
世界中から生活態度を窘められるというのは、考えても居なかった事だが
最初はどこか面白かったのに、今は少し脱力する。
昼間がヤバイというのは、かなり初期に判明した。
外を徘徊するアレらの感覚器官がどうなっているのか
まだ正確な所は不明だが
昼間のアレらは非常に活発で、敏感に反応する。
勇気あると言うべきなのか
安全を確保しながらの実験結果が、フォーラムには周知されている。
アレらは
走らない。
腐っては居ない。
傷は治癒しない。
音よりも光や熱に反応する。
眼球を失っても反応は変わらない。
頭を失っても止まらない。
以上のことが、今のところ確定している。
この情報は政府や国連等から齎された物ではない。
国籍不明・正体不明の人物によってフォーラムに書き込まれたものだ。
それらをメンバーが持つつながりを通じて、細々と拡散し続けている。
親や恋人・友人知人や、まだ生きているメディア。
最寄りの避難所、公的機関に伝えたメンバーもいる。
彼の書き込みは唐突に始まって
最初、その情報は多くのアカウントに懐疑的に受け止められた。
当然自分も疑ったクチだ
何しろアレらの生態に関する誤情報は死に直結する。
不確実な情報を信用する気にはなれなかった。
中には『嘘つき野郎』と罵る者も少なくなかった。
すると、フォーラムに動画投稿サイトのアドレスが
『自己責任で閲覧しろ』という趣旨のメッセージとともに投稿され
それら『実験』の『ソース映像』が、圧倒的な説得力で全員を黙らせ、納得させた。
彼のログインタイマーと投稿が止まった時は小規模なパニックが起こった程だ。
十名近いアカウントが戻ってこない中、唐突に戻ってきた彼が
幾つかの質問に答えた後
『捕獲した個体の解剖を予定している』と書き込んだのは昨日だ。
倫理と常識と言う奴は、現代人の心に深く刻み込まれている。
だからこそ、フォーラムは荒れに荒れて
離席中のログは世界中の言語で長く長く議論を続けていた。
>>『Yの精神は鉄かで出来ているのか?』
オーストラリア在住の中国人が呆れているが
だからこそ、そんな状況で日が沈むまで眠っていた自分は
恐ろしく非常識な精神構造をしていると受け取られたらしい(まぁ他にもそういう扱いを受けるに足る理由がここ数日の間にあったのだけれど)
『彼には負ける』と返して、電力をバカ食いするPCを落とし
充電の終わったタブレットとスマホを確認しながら
かなり広くなった室内で筋トレを開始する。
慎重に、時間を掛けて汗が浮かぶほどに念入りに。
負傷や故障をしても病院を頼れないのだから、無理は出来ない。
古巣の先輩には『運動は回数ではなく時間でやれ』と言われていた。
決まった時間の間に適切な運動をする事で
『回数ノルマに甘えず負荷をかける習慣』を作る。
10分で100回の腕立てを続けた人間は、同じ時間で110回、120回と向上していく。
もちろん限界はあるけれど、わかり易さは重要だ。
音を立てないよう慎重に、慎重に
動きを遅く、静かにすればするほど、身体にかかる負荷は増す。
繰り返し全身に負荷をかけ続けていく。
ただでさえ室内で生活しているのだから、運動は徹底しなければ
何か有った時に身体が動かないでのは笑えないから、真剣に続ける。
小休止を挟んで二時間ほど身体を動かし、十分なクールダウンを取ってから
運動用のマットをソーラーパネルの影にならない様に干してから
大鍋で加熱していた水道水を使って風呂場で身体を拭う。
衛生は飲食と同じ、最大限に気を使うべき事だから
水道が生きているのは本当に有り難い。
ライフラインが生きているから(それでも煮沸消毒はしているが)
備蓄の水にはまだ手を付けないで済んでいる。
非常識な量の飲食物を纏めて購入したので(夏のボーナス全額)
甘く見積もっても三ヶ月分の物資は確保してあるが
ソレでも備蓄には可能な限り手を付けたくないと思う、本当に
だからこそ、今から見まわる
『拠点(フォーラムでは『Y城』などと言われている)』の点検は
先の見えない現状、生きていくための必須事項であり
『ほったらかして寝こけている』のが非常識だと言われるのも
仕方ない事なのかなぁ…等と、着替えながら苦笑する。
結論から言えば、Yこと『自分』は
自分が住んでいる10階建てのアパートを、完全に掌握し
好き勝手に弄くり回し、物資を搬入し、私物化した挙句
要塞じみた拠点として運用し、立て籠もっている。
2015/09/04:AM
『隣人』との一件の後
気持ちの落ち着きを待ってから、自分は行動を開始した。
アパートの駐車場には一台の乗用車が停まっている。
自分が預かっていた『社用車』
これで移動中にゾンビを発見したのだが
コレと、タクシー運転手に嫌な顔をされながら割増料金で繰り返し往復し
『荷物だけ裏口から1階エントランスに運んでもらった』裏技の成果を回収する。
周囲の気配に気をつけながら車に乗り込み、道路に出てアパートの正面に回り…頭から突っ込んだ。
当然非常識で危険な行動だが、測ったようにピッタリとアパートの正面玄関は『閉鎖』された。
車高からして上の方には隙間が有ったが、そこはシャッターを締めてしまえば、ほぼ完全に塞いでしまえた。
あとは内側から、裏手の非常用鉄扉を閉じれば
誰も侵入できない10階建ての密室が完成してしまった。
幾らかアレらが寄って来ていたが、侵入できないと分かるとやがて散っていった。
全10階をくまなく当たり、アレらの存在しない事を確認した後で
『隣人』が10階に駐めていたエレベーターを使って各階層ごとに物資の入ったダンボールを運んでいく。
エレベーターの使用は、いつ停電するか考えると怖かったが
荷物の量が量だけに、今回だけは妥協し、最後に一階に下ろした。
思いつく限りの小細工を行いながら、次に各階の鍵を壊して各部屋を清掃していく。
当然不法侵入で、犯罪に該当する行為だったが、背に腹は代えられない。
第一に衛生、何かが部屋で腐る事態を避けたかった。
第二に使用できる物品の確保。
第三に『部屋の中で変わっていたら』という恐怖を拭いたかった。
余談だが、部屋の汚いヤツが恐ろしく多かった。
208号は炊飯器の中で白米が苗床になっていたのを、破棄。
冷蔵庫の中には未開封のレトルト食品以外が見当たらなかったが、どれも妙に日付が古い。
衛生観念の死滅した人間というのは、いるのだなァ。
303号室は冷蔵庫の中で✕✕✕✕✕✕✕✕ッッッ!!
✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕ッッッッ!!!!!
✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕ッッッッッ!!!!!!
思えば『隣人』は、まだマシだったのだ…肉を腐らせるくらいは今なら許容できる気がする。
303号室の住人はどんな生活をしていたのだろう…あまり思い出したくない。
401号室の中はビスクドールまみれで、正直呪われそうだった。
破棄するのも気が引ける、というか怖い。
飲食物が一切見つからなかったのも不気味だ、怖い。
ここの住人が戻ってきたらどうしよう、車の突っ込んだ玄関を見て諦めてくれるビジョンが沸かない、執念深そう、怖い。
2015/09/04:PM
405号室で当たりを引いてしまった。
ペット禁止の物件だというのに、衰弱した室内飼いのウサギを発見する。
これは…生かしてはおけない。
ウサギ程度なら精肉出来る自信は有るが、ペットとして飼われていた以上
野生とは違うだろう、やめておく事にする。
感染しても動けない程度に鉈で解体して、窓から捨てた。
806でまた当たり、しかも最悪の大当たり。
ドア越しに扉を引っかく音がする。
鳴き声はしないが、異様な音がする。
完全にアレらに『変わっている』
多分、犬。
室内で飼っていたということは小型犬、声帯切除もされているだろう。
扉越しの異臭は何だろう、感染経路も怖い。
最悪に気が進まないけれど、あらゆる意味で確認しなければいけない。
ここまで、扉はノブを金槌で壊してきた。
アパートの鍵くらいなら正直この手法で幾らでも壊すことが出来る。
だけど、この扉をそうして開けるのはリスクが大きすぎる。
扉を閉められなくなれば、対処できない可能性がある。
部屋に戻って、いくつか道具を取り出す。
鑿と金槌と、アルコールスプレー。
とりあえずはコレで行ってみる事にする。
うわ、鑿凄い。
ドアスコープに鑿を中てて、金槌で叩くと
空恐ろしいほど簡単に玄関扉を貫通した。
まぁ元々穴が開いている部分なのだから、他の部分より簡単だろうとは思ったけれど
そこを皮切りに、鑿を中てて叩くと、本当に簡単に扉に穴が開いていく。
防犯の事を考えるとかなり怖い事実だった。
ほんの数分で扉の中心から縦に扉に切れ目を入れられた。
本当に恐ろしい切れ味に背筋が寒くなる。
扉の向こうでは絶えず激しく暴れる生き物の気配がしており
万が一にも油断して噛まれないように慎重に
床から30cmくらいの高さのところに三角形の小さな窓を開ける様に鑿を打つ。
ほんの少しだけ切れ目を残して、完全に窓を開けてしまわない様にしてから
作業の終わった切れ目を、金槌で何度も叩いて貫通させた。
穴が空いた瞬間、ソコから恐ろしい勢いで首が飛び出してきた。
完全に常軌を逸した、おそらくコーギーだったと思しき
『犬だったモノ』は、狭い穴から外に飛び出して
コチラに噛みつこうと、狂い悶えている。
正直、気が遠くなった。
さっき殺したウサギとはまるで違う。
いったいどうすれば、まっとうな生き物がこんな有様に成るんだと
生理的嫌悪が喉元までこみ上げてくる。
外に出ようと叩きつけ続けたのだろう、長い鼻は骨ごとひしゃげ
頭部の皮は無残にめくれ、砕けた頭蓋が露出して目玉と脳漿がこぼれている。
脳がここまで損傷しても活動し続けるモノを前にして
ぼんやりと『まるでカマキリみたいだ』と、妙な思考に囚われる。
カマキリを始め、昆虫の中には
『頭を失っても活動し続ける種』が珍しくない。
生物としての構造が哺乳類とは異なるのだから、それも当然だが
メスに首を落とされても、平然と交尾を続けるカマキリの姿を見て覚えたのに近い
曰く言いがたい嫌悪感と恐怖を濃縮した感覚に脳が麻痺する。
喉の奥で情けない音がして、尻もちを付きそうになった。
思えばコレほど近くで『変わってしまったモノ』を直視したのは初めてだった。
口の中が胃液の気配で満ちて、目尻に涙が浮かぶ。
咄嗟に、腰に下げた鉈の柄に手が触れた。
二重にした軍手越しにでも、鳥肌の立つような柄材の冷たさに幾らか正気を取り戻し
せり上がってきた吐き気を飲み込む事に成功する。
そのまま留め具を飛ばし、木鞘から引き抜いて
ギロチンの様に、飛び出し暴れる犬の首を刎ねた。
意外な事に、首を刎ねても血は吹き出さなかった。
代わりにまるで泥の様な、粘性の強い半固体のモノが二・三度ぴゅっぴゅと
力なく断面から吹き出して。
穴に突っ込まれていた『頭』があったスペースから
変わらぬ勢いで
『首を失った上半身が』
おぞましい勢いで悶え狂い、這いずり出てきた。
嗚呼嗚呼ッッ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!
振り下ろす
振り下ろし続ける
鉈の天地を返して、分厚い背で、さらに叩く。
吐いた
涙が止まらない、笑えてくる。
腕と目の痛みで正気に戻る。
犬は、扉の穴の向こうにつっかえた後ろ足の付け根から後ろだけを残して
完全に『赤褐色の泥』に成るまで粉砕されていた。
ノロノロと、二重にした軍手とその下のゴム手袋を外して
周囲の全てと、取り落とした鉈、自分の腕にアルコールスプレーを噴霧していく。
予め身に着けていた雨合羽と溶接メガネも引き毟り、その場に捨てて消毒する。
何か、当たり前のことを言おうとして、喉が引きつった。
叫び続け、吐き続けて、喉が焼けた様に痛む。
跪いて、蹲って、胃液を吐きながら
本当に当たり前のことを、誰かに、何かに向けた恨みの様な、言い訳の様な事を
声も出ないのに呟き続けた。
9階には人がいた、らしい。
いつの段階でそうしたのかはわからないけれど、907号室の扉には小さなホワイトボードがかかっていて
『避難所に行きます』と、女性らしい文字で書きつけてあった。
荷物をかき集めたのだろう、少し荒れた印象の部屋の中にはシールプリントの写真がそこかしこに貼られていた。
プリントシール写真の多くは同性の友達や、一人の男性と一緒に撮られたモノで
その時々に思い思いのことばが、筐体のペンツールやデコレーションで書かれている。
目を引くのはそれくらいで
めぼしい物も、処分しなければいけないモノも無さそうに見えた。
重い足取りで部屋から出ようとした時
ふと『扉の内側』のドアノブと玄関の床が汚れていることに気がついた。
完全に乾いた『血痕』だった。
自分が付けた汚れでは無かった。
恐らくこの部屋の主だった女性が付けた血痕だろう。
その『彼女』が、
『避難所に行った』らしい。
声は、出ない。
叫びは、自分自身にも聞こえなかった。
10階には、何もなかった。
部屋に戻り、再度身体に傷や異常が無いかを念入りに改めながら
傷や出血が無いこと、犬の体液が直接付着していないことを確認して
煮沸して、適温に冷ました湯と石鹸で徹底的に洗っていく。
温かい湯を使っているのに、寒気に襲われ
歯がガチガチと鳴り続けるのに一人で耐えた。
今、繋がるなら、実家に電話を掛けたかった。
でもきっと今、枯れた喉からまともな声は出ない。
心配もさせたくなかった。
きっと、感情を抑えられない。
電車とバスで、ほんの数時間で帰れるはずの距離なのに
異世界のように遠い様に感じる。
寒い、寒くて、意識が遠のく。
バスタブの中で気を失っていた。
目が覚めて、すっかり水気の飛んだ身体を引きずり、外に出る。
意識が飛んでいたのはほんの半時間ほどだったらしい。
恐ろしく身体が重く、頭の芯が痛む。
作業が、途中だった。
着替えて、部屋を出て
黙々と、三階までで予定していた必要な作業をこなしていく。
大量のプランターと各種の土に、トマトや葉野菜・豆を植えていく。
F1品種で無い、種が取れて、季節を問わず室内で収穫が可能な
必須の栄養素を摂れる植物を選んで大量に買い込んだ種と土類。
各階の部屋の限られた日照量を勘案しながら
生きるための作業を続けていく。
こんなことをする意味は有るのだろうかという考えは、殺す。
死にたいのならいつでも『隣人』の後を追えば良い。
生き汚さに飽きる迄は、立ち止まるべきではない。
その為に、避難所に行く事を選ばなかったのだから。
避難所のことを考えて、頭痛がひどくなる。
大した労働でもないのに息が切れて、何度も何度も手が止まった。
3階までの全ての部屋と通路を『菜園』と、そのための用具置き場に
4・5階には肥料等の大道具を、6階の自室と『隣人』の部屋だけは鍵をかけられるので(※隣人の部屋の鍵は壊されておらず、室内から合い鍵が見つかった)
自室の補助鍵の予備を幾つかを取り付け、食料倉庫にした。
7階から上には基本的に何も置いていないが
もしもの時のために最低限の飲食物の備蓄と、緊急時の武器になりそうなモノの類を幾つか隠している。
引きずりだした家具の幾つかは、正面玄関の隙間を埋めるために使った。
2015/09/05:AM
日の出を待って、犬と、犬のいた部屋を片付けた。
5階で見つけたサラダ油を熱して、玄関に撒いていく。
もちろん危険な行為だし、気は進まないが消毒に確実性が欲しかった。
念の為消火器を用意して徹底的に高温の油を入念に撒く。
油を処理して、今度こそ鍵を壊して室内に。
部屋の中は窓が空いており、網戸の類も使われてはいない。
急いで窓を閉めて、部屋から持ってきた殺虫剤を噴霧した後
コンセントでノーマットを起動し、念のため自室に戻ってしばし待つ。
一時間後、再度806に入り中を慎重に改める。
…この部屋の主に関しては、個人的にどうも好感の持てる類の人物ではなかったらしい。
犬のための『有って然るべき道具類』は、部屋から一切見つからなかった。
強いて言えばサイズの小さいケージと、臭わないトイレの砂くらいか
散歩用具やエサ類の買い置きも無かった。
感染経路は恐らく蚊だとして
トイレの入った小さなケージはダンボールとガムテープでで目張りするように覆われており
内側から引き裂いて這い出たのだろう、格子が歪んで穴が開いていた。
挙句、置き去りにされた…いや、帰ってこれなかった可能性も…
あぁ、それはないか。
この部屋も随分荒れているが、衣類や貴重品は持ちだされた形跡が有る。
その上で犬は連れて行かなかったのだろう。
そも、ペット禁止の物件。
しかもこんな環境で飼われていたあの犬が、あの有様に変わって
ソレを自分の手で、あんな無残に潰してしまった事が、苦しい。
別の部屋でウサギを処分したことには何の息苦しさも感じないというのに。
我が事ながら嫌気がさす。
気持ちが悪い。
繰り返すが、この部屋の主はとてもではないが仲良く成れそうな人間じゃない。
舌打ちしたい気分でいると、ふとテレビのリモコンに何か
おい、やめてくれよ。
リモコンにはプリントシールが貼られており、少しだけ見覚えのある女性の姿が写っている。
と言っても直接の面識は無い。
このヒトは、おそらく907号室の主だろう。
今度こそ舌打ちを止められなかった。
趣味の悪い合皮張りのソファーに沈むように腰を降ろして、しばし瞑目する。
なんだこれは、ふざけてる。
どうしてこんな、嫌な思いを
クソったれが。
苛立ちまぎれに、ソファー前の安っぽいセンターテーブルを蹴りつけると
埃をかぶった何かがテーブルの下から出てきた。
革製の犬の首輪、プレートには名前が有ったのだろうけれど
安っぽいプレートは錆びていて、打刻された名前はもう読めなかった。
持ち込んだ殺虫用品を回収し
処分するべきものを処分して、二度とこの部屋には来ないだろうと思いながら
首輪だけを回収して自室に戻り、フォーラムにログインした。
2015/09/13:PM
それがもう、随分前の事のように感じる。
あの日、フォーラムに『彼』が現れて幾つか遣り取りを交わした。
『感染した犬』の話をすると、彼は熱心に様々なことを問いかけてきた。
傍から見れば
方や『正体国籍一切不明のアレらの生態の、恐らく現状では最も多くの情報を持つ権威』
方や『要塞を作って一人で籠城する、謎のゾンビ犬殺し日本人』の会話は
比較的知識人層の多いフォーラムに、大きな衝撃を齎したらしい。
ぶっちゃけ『どうかしている二人組』として、セットで記憶されてしまった。
自分としては、アチラのほうがよほどイカれていると思うし
絶対に真似できないと断言できる。
自分はあくまで生き残るために泣き喚き、吐きまくりながら
必死に野菜を育て、日々備蓄を温存することに神経を尖らせているだけの一般人だ。
あの『八月最後の日』から10日。
すっかり日課になった『菜園』の水やりをしながら、あの日の事を思うと未だに頭が痛くなる。
国内のネットで最寄りの避難所の崩壊と
地獄の蓋を外したような有様の一連した、或いはバラバラのツィートは
とてつもない生々しさでもって、世界中に拡散された
『隣の女が連れの男に噛み付いた』というのが、現場の人間の最期のツィートになった。
写真もないので、確信はないけれど。
302の『菜園』で作業しながら、なんとなく置き場に困って
この部屋の窓辺に置いたままにしている、プレートの錆びた小さな首輪をぼんやりと眺めながら。
『これも縁ってヤツなのか?』と、益体もない事を考えていたら
ポケットに入れていたスマホが、振動で着信を伝えてきた。
ディスプレイに表示された番号は、全く見たことない桁の数列で
数秒ためらって『もしもし、誰だ』と尋ねる。
数秒の沈黙の後、男の、外国的な独特のイントネーションの低い声で
「Y?」と、端的に尋ねられた。
………Why?