おじいちゃんと王子様
アルディン・ルーク=イルグラード
それが、本当のアルの名前。このイルグラディアの正統な王子様。それがどうしてこの下町の薬屋の奥の台所で朝ご飯をお召し上がりになっているかというと・・・。
先の戦争で武勲をあげた有名な剣士だったおじいちゃんは、家業の薬屋の傍ら、お城で剣術指南をやっていた。その中にアル王子様もいらっしゃったのだ。
私も何度か差し入れや、お弁当をおばあちゃんと持って行った事がある。
その時、アル王子と同い年ということで興味を引かれたのか、恐れ多くも一緒に遊んでもらったりした。まあ、子供だったし、身分差なんてよくわからなくって、アルも普通に接しろって怒って言うし。でも、その頃からずっと変わらず優しくて、王子様という身分にもかかわらず、驕ることなく、おじいちゃんの真面目な生徒だった。
そして練習熱心なアルはなんと、お忍びで下町のこの薬屋にまで来てしまった。ちゃんとどこかで調達したらしい庶民の服を着込んで、どこか誇らしげにやってきたアル。
服は庶民の服だったけど、少し癖のある黒髪や、黒い瞳はこの国では珍しかったし、冷たささえ感じさせる端正な顔立ちは十分に人目を引いたはず。何よりまだ10才という年齢に、誘拐されていたかもしれない心配もあって、おじいちゃんは大激怒だった。おじいちゃんのあんなに怒った声は始めて聞いた。
「リン?」
アルの気遣うような声にふとリンは我に返った。
「あ、ゴメン。なあに?足りなかったらオムレツも焼こうか?」
「ああ、食べるよ。なんかボンヤリしてたな。まあ、お前はいつもだけど」
「ムムッ。失礼ね。初めてアルがうちに来た時おじいちゃんにめちゃくちゃ怒られて半ベソだったなーって思い出してたのよ」
思わずアルも苦笑いする。
「おい、つまんない事思い出すなよ。全くあの時はグリッドの奴、容赦無くゲンコツ落としやがったからな」
「ふふ。今だから言うけど、あの時おばあちゃんね、王子様が来てるのにおかずがお豆の煮物と根菜のピクルスしかないって慌てふためいていたの。お父さんとお母さんが居ればこんなに慌てなくていいのにって」
「俺がたんこぶつくってる時に、おかずの心配してたのかよ」
「それだけビックリしてパニックになったってことよ」
リンはウフフと可愛く微笑んだ。
「二人が行方不明になってもう10年か?」
アルが困ったように、リンから目を逸らして聞く。
「そうね、私が6才だったから。おじいちゃんの話では、二人とも目の前でまるで煙のように消えてしまったらしいわ。何かの魔法だったのかしら?」
アルは、リンに両親が居ないことも、失踪の経緯も知っていてもちろん捜させてはいたが、正直そんな魔法は聞いたことがないと思った。自分が転移する転移魔法なら使える者が確認されているが他人を二人も離れたところから転移させるなどとは、少なくともこの国では聞いた事がない。単にトリックか、あるいは魔法研究の進んだ外国が絡んでいるのか。
この国では王族と貴族に魔法が使えるものが集中している。庶民からはごく稀に生まれるくらいだ。そのため、魔法は貴族の特権階級意識を高めるものになり、広く活用しようとする外国よりもその研究は遅れている。
しかし、そもそもリンの父は祖父のグリッドのように剣をとることもない平凡な薬屋だったという。母はについて出自は不明だが、二人とも魔法は使えなかったと報告を受けている。さらわれる理由がない。
「すまない。中々手がかりがなくて」
「もう、何でアルが謝るのよ?王子様ってだけで万能の何でも屋さんってわけじゃないでしょ」
リンはそう言うと、テーブルの上のアルの右手を両手でそっと包んだ。アルの心臓が早鐘を打ちはじめる。
「私なら大丈夫よ。独りでちゃんとやれてる。ただの幼なじみなのに、いつも心配してくれてありがとう」
アルががっくりとうなだれると、どこからか、プーッと吹き出す声が聞こえた。
リンがキョロキョロすると、アルが無駄だぞと突っ伏したまま言った。そしてそのまま
「リエラ、のぞき見は趣味が悪いぞ」続けた。
「リエラさん来てたなら、一緒に朝ご飯どうですか?」
「いいえ、仕事中ですので」
どこからか、また声がする。
「おじいちゃんにゲンコツもらった日に、アルも結構しつこく自由に出歩きたいって譲らなくて、結局、リエラさんが一緒だったら来てもいいって事になったんだよね」
「まあ、リエラは俺付きの忍草の中では1番の手練れだったからな。グリッドの信頼も厚かったし。もう護衛は必要ないって言ってるんだがな」
「どこにいるの?」
リンがそっと辺りを見回すが、全くわからない。
忍草、あるいは単に草とも呼ばれる彼らは隠密行動を主としてめったに姿を見せないのだ。リンも最初の挨拶の時しか会ったことはない。その仕事内容から、獣人も多いと聞くが、リエラは燃えるような赤い髪をした薔薇のように美しい人だったとリンは記憶している。
「そうそう、オムレツだった」
そういいながら、リンが貯蔵庫の前に立って卵を取りだそうとしていると、裏口から真っ白い猫が甘えるようにニャーンと覗いた。
「あら?また来たの?ゴメンね、うちは薬屋だから毛が落ちるといけないから飼えないの」
「なんだその猫?」
「最近よく来るのよ。ああそうだ、貯蔵庫の冷えが悪かったんだわ。アル、悪いんだけどまた氷の魔法かけてよ」
「新しい魔法石入れとけよ」
「だって、あれ、高いんだもん。お願い」
手を合わせてニッコリされれば、仕方ないなとアルも立ち上がる。
「全く、どこがちゃんとできてるんだか」
ブツブツ言いながら貯蔵庫に向き合う。アルにして見れば、この程度の魔法は朝飯前で呪文の詠唱さえいらない。
アルは体の中に湧き出る魔力に集中し、その流れが氷の形をとり右手から流れ出るようにイメージする、アルの右手が日光を反射してきらめく氷のような輝きを纏いだす。
「あ、そうだ。野菜は出しとかなきゃ凍っちゃう」
リンが突然思い出したのか、アルの隣に立った。その時、アルの右手にリンの体が触れてしまった。
「あ、」その衝撃にビックリした顔のリン。アルにはスローモーションのように見えた。リンの瞳がいつもの水色から、氷の海のような青に変わった。
「バカモン!術の途中で術者に触れるもんがあるかっ!」
アルの目の端でさっきの白猫が怒鳴ってるのが見えた。次の瞬間リンが床に盛大に尻餅をついた。
「いたた」
「リンっ!」
真っ青になったアルがリンを覗き込むと、リンの真下の床からピシピシと音を立てて部屋中が凍り始めた。
「ちょっとハリキリ過ぎじゃない?」
腰をさすりながらリンが立ち上がる。瞳はいつもの水色に戻っていた。リンの様子にほっとしながらアルは返した。
「いや、俺じゃないぞ!術の発動も中途半端だったし、そもそもこんな強力な氷魔法は使ってない」
「・・・見つけたぞ。精霊姫」
背筋に悪寒が走るような不快な声が薬屋の台所に響き渡った。