703列車 66.7‰
2062年5月15日・月曜日(第69日目)天候:晴れ 東日本旅客鉄道信越本線横川駅。
それは3つのレールが並んでいた。両端にある2本のレールは皆がよく見慣れたであろうレール。その真ん中にギザギザの付いたレール3つ束になって並んでいる。そして、このレールの付いた展示は僕らいる反対側に向かって少し登っているのが分かる。左側には白い暴徒から2本の腕がでた標識があり、2本の腕の内斜め上に延びた腕に「66.7」と数字か書かれている。
「これが日本一の坂・・・。」
「これが日本一鉄道を苦しめた坂・・・。」
萌と僕の順番でつぶやいた。
「こうやって見るとあんまりキツくないわね。」
萌が言う。
「鉄道にとってはこういう坂でさえ、急勾配になるんだな・・・。」
さっきの標識に付いた66.7という数字。あれはこの坂を1キロ行く毎に何メートル登るかを示した物である。この坂は1キロ行くと66.7メートル登るというもの。鉄道にとっては急勾配でこの坂をそろり、そろりと降りなければならないほどの物である。もちろん、この坂で何かあれば待っているのは「死」だ。
「まっ、なめちゃいけないってことだけは確かだね。」
展示されている189系やこの辺りで活躍していた専用電機機関車EF63形やEF62形を見て、僕たちは建物の中へと入った。こちらには碓氷峠を越える鉄道の歴史が記されていた。
1893年に開業した信越本線横川~軽井沢間。この急勾配が横たわる場所を普通の鉄道でクリアすることは当時の技術力では不可能であった。そのため、さっき見た展示にあったギザギザのレールが効果を発揮した。あのレールはラックレールと呼ばれる物で、ギザギザと車両に付いた歯車をかみ合わせる方式(以下アプト式)を取った。あれで多少なりとも登坂力が上がるのだ。往路の時に乗った大井川鐵道井川線のアプトいちしろと同じだ。
それから長らく碓氷峠はアプト方式で66.7‰に挑んでいた。しかし、それも高度経済成長時に限界が来る。この時、横カルはアプト式から普通の鉄道へと変化。EF63形を横川側に必ず連結し、連結される車両との協力によってこの坂をクリアし始める方式(以下粘着式)に移行したのだ。
そして、EF63形との協調による粘着運転は1997年北陸新幹線高崎~長野間の部分開業まで続くことになるのだ。
もちろん、この歴史の中でも痛ましい事故は起こっている。
「ナガシィ。」
僕は萌に呼ばれ、萌の見る写真に目をやる。
「ああ、熊ノ平信号場の脱線事故でしょ。」
と言った。
熊ノ平信号場とは横川~軽井沢間に設置された信号場である。その場所に上り坂の途中で止まった貨物列車が逆そうに突っ込むという事故が起こっている。展示されている写真はその事故車を写した物だ。鉄でできたはこがぐしゃぐしゃにつぶれている様は恐怖さえ覚える。
「うん、そうだけど。注釈見てみ。」
そう言うので、写真の下に書かれた文章を読んだ。
「脱線、破砕した物・・・。」
「破砕だよ。どんな事故って思うわ。」
「破砕かぁ・・・。鉄道車両って破砕することはまず無いと思うんだけどねぇ・・・。」
「・・・確か、これ以外にも事故ってあったよね。」
「えーっと。一つは列車暴走を起こしてそれに乗ってた男爵が脱出しようとして息子と一緒に無くなったって言うのと、もう一つは回送してた機関車が壊れて脱線大破したって事故だね。」
「えっ、男爵のがちょっとヤバくない。息子まで巻き込むって。」
「鉄道のことに詳しい人だったしいよ。「下り坂で暴走したら」って言うことでいち早く脱出しようとしたんだってさ。何もサイコパスってわけじゃないから。」
「そうか・・・。そうなんだ・・・。」
66.7‰。この坂が復活することは恐らく無いだろう。しかし、この坂が起こした血に飢えた歴史は語り継ぐべきだろう。
一口メモ
東日本旅客鉄道信越本線
1885年10月15日開業。東京~新潟を結ぶメインルートとして高崎~長野~新潟を経由して建設された路線である。横川~軽井沢間の碓氷峠には66.7‰の日本一の坂が存在しておりメインルートとしては禍根とも言うべき大きなボトルネックを抱えていた。この坂を越えるため日本初のアプト方式の採用や電車・気動車と機関車の協調運転など苦心した跡が随所に見られた。北陸新幹線の部分開業を皮切りに部分廃止と第三セクターへの転換が続出。現在は3つに分かれた状態になっている。
横軽
1893年4月1日開業信越本線横川~軽井沢間の通称。廃止となってからも現在に渡るまで有名である。一方で、この区間を復活させようという動きがあがってはなくなりを繰り返している。しかし、廃止直前の普通列車の運行本数(下り28本中6本、上り28本中7本)を見る限り横川~軽井沢間を復活させることは絶望的であろう。




