5.オスカー王国おトイレ事情
それから、一週間後。
「おーさまー。おしっこー」
十歳にも満たないだろう幼い少女が、ボクの袖を引っ張る。黒々とした大きな瞳が、よりいっそう潤んでいた。限界が近いのかもしれない。桃色のドレスから伸びる細い脚は、不自然な内股だった。膝をくねくねと擦り合わせている。気づけばボクのまわりでピョンピョン跳ね回っている彼女と比べたら、大人しすぎて不気味なくらいだ。いじらしい姿を可愛いと思わないわけでもないが、嫌な予感がびんびんして他ならない。
ボクは何をしていたかというと、執務室で一人、大量の書類に目を通していたのだ。なにせ、ボクはこのオスカー王国の国王、アンドレ=オスカー四世であるッ! ボクの認印がないと、行政のほとんどは立ち行きが行かなくなってしまうだろう。部下の中には、何も全部目を通さなくても判子さえ押してくれれば――なんて不届きなことを言う者もいるが、そういうわけにもいくまい。なぜなら、ボクは国民全員を幸せにする義務がある国王アンドレ=オスカー四世なのだ。文章一つ一つに抜かりはないか、承認してよい事案なのか吟味しながら、慎重に判断しなければ、その認印一つで大事に至る可能性だって少なくはないのだッ!
机の上には、そんなボクの認印を待つ書類が、山になっていくつも積まれていた。これをすべて読むためには、徹夜をしたところで、朝になっても終わらないだろう。そう、ボクはまさに仕事に追われている状態なのだ。
そんな忙しいボクに対して、幼女は言う。
「おーさまー。おしっこー。早くしないと漏れちゃうよおー」
彼女の黒髪の上についている長いうさぎ耳が、萎びたように折れていた。朝に一緒にご飯を食べたときは、元気にぴょこっと立っていたのは記憶に新しい。彼女は自身の長い黒髪を掴んで、おしりを左右に振りだす。
「おーさまー。おしっこー。おしっこ行きたいのー」
このオスカー城にはもちろん、数多くの使用人がいる。彼女専属のメイドもつけていたはずなのだが、彼女の姿は見えない。
ボクは窓の外を見る。黄金の空に上がっている眩い太陽は、まだてっぺんにはついていない。この時間は、彼女は用意してある自室で文字の勉強がてら、メイドと一緒に絵本を読んでいるはずである。そして、その部屋からこの執務室までは、階段を上がって、数分歩かないといけないほどの距離はある。
「カグヤ殿。レイチェルはどうしたのだ?」
レイチェルとは、その彼女につけたメイドの名前。その所存を尋ねると、彼女は言う。
「おしっこー。おしっこー!」
彼女も我慢の限界なのだろう。ボクの袖を引っ張る力が強くなった。
「おしっこー。カグヤおしっこ行きたいのー。おーさまー連れてってー」
彼女はそう強くせがむものの、ボクは眉間に力を入れざるを得ない。
まだ幼いとはいえ、トイレに一人で行けない年ではないはずだ。個性として、まだおねしょをしてしまうことはあるかもしれないが、日中に尿意を自覚しているにも関わらず、一人で用を足せないということもないだろう。
だから、ここでボクが断っても、いざとなれば諦めて一人で行くはずである。トイレ自体の場所は、なんならこの執務室についているものを使わせてもいい。
「……すまないが、見ての通りボクは忙しいから。あの扉の向こうがトイレだから一人で――」
その時だ。騒がしかった彼女の声がピタっと止まる。みるみるうちに彼女の可愛らしい顔が青ざめて、彼女はポツリとつぶやいた。
「おーさま。だめかも」
くねくね動いていた腰が止まり、ふと全てを諦めたように彼女の顔と長い耳から力が抜けて。
「待てええええええいッ!」
ボクは慌てて立ち上がり、椅子が倒れるのも気にせず彼女を抱きかかえる。軽い彼女を抱えて走るのは容易。すぐさま室内のトイレの扉を開けて、便器の前に彼女を下す。
「さすがに一人で用は足せるな!?」
すると、トイレに運んでもらって嬉しかったのか、彼女の頭の上の黒いうさぎ耳がぴょこっと立った。笑顔で振り返った彼女が言う。
「おーさまー、ちゃんとできるか見ててよー」
「なっ!?」
ボクは思わず目を見開く。まだ幼いとはいえ、彼女は女性である。世の中には幼女の排泄姿を拝んでも見たいという輩が一定数存在するという事実は認識しているものの、ボクにはそれはしてはならないという理性と常識が備わっている。百歩譲って、それが許されるのは彼女の父親くらいのものだろう。だが、ボクは彼女の父親ではない。アンドレ=オスカー四世、この世に生まれて二十年。未だ独身である。結婚適齢期に差し掛かろうとしている年代ではあるものの、未婚であるのはもちろん、子供を作った覚えはない。余談ではあるが、ボクの潔白を証明するためにあえて宣言するならば、女性と閨ねやを共にしたことすらこともないッ!
だから、思いがけない展開に狼狽えながらも、ボクは堂々と否定するのだ。
「それは出来ないッ! き、キミの世界では誰かに見てもらうのが普通なのか?」
「ちがうよー。日本でのおトイレだったらふつうにできるよー。でも、慣れないおトイレだから、おーさまに見ていてもらいたいのー」
「そ、それは如何にして……」
「だって、カグヤはおーさまの『こんやくしゃ』なんでしょー? おトイレも一人で出来ない『こんやくしゃ』て、おーさまに思われたくないのー」
「そ、その婚約者うんぬんは、またじっくりとそなたに説明しなければならないのは重々承知しているが、今はそれどころではなく――」
「ね、見ててよ。カグヤがちゃんとおしっこできてるとこ、見てて?」
うるうると見上げてくる瞳が、まっすぐにボクを映している。突き出したさくら色の唇が艶めき、頬は自然な紅で染まっていた。
一瞬惹かれてしまうボクはその欲望に首を振って、踵を返した。
「ダメだ! それでは、あとは自分で――」
そして、トイレの扉を締めようとした時だ。
「あ」
彼女の不意な声に、ボクは思わず振り返ってしまい、その決壊した光景を目の当たりにしてしまう。
「あ……ああああああああああああああああああ!」
あるものを得て、そして色々なモノを失った感情のままに、ボクは叫ぶしかできなかった。
ポタポタと滴らせながら、彼女の顔が真っ赤に染まっていく。その目には次第にウルウルとしていき、涙が溜まっていって――これは不味いぞ! 彼女の母上と『泣かせまい』と約束したのを早くも反故してしまうことになる。たとえ、彼女の自業自得だとしても、十以上も年下の少女にそれを押し付けるとは、国王である前に大人として問題のあることだろう。子供の面倒など、先回りの気遣いをしかるべきなのだろうが……どうしても、ボクは声を大にして言いたい。どうして、ボクのことなど気にしてトイレに行かなかったのかッ!? と。
そうこうしている間にも、カグヤ殿は鼻でひっくひくと呼吸をし出す。声を出し始めるのも時間の問題だろう。
仕方なしに、ボクは腰に手を当てて、胸を張った。
「大丈夫だッ! このボクを誰だと心得る?」
「あんどれ……おすかー?」
「そうだともッ! アクティア随一の大国オスカー王国の国王、アンドレ=オスカー四世に任せておきたまえッ!」
ボクはサッと前髪を払う。きっと、頼りがいのある国王に見えたことに違いない。彼女がクスっと小さく笑っていた。
そういうわけで、ボクはカグヤ殿の粗相の後を片付ける。
ボクのことを知らぬ者はいないと思うが、ボクはオスカー王国の国王、アンドレ=オスカー四世であるッ! 本来ならば、幼女の粗相の後始末など、このボクがやる必要は一切ないのだろうが、彼女の恥をわざわざ言い広げる必要もあるまい。小さな誇りに傷をつけて、その心の消せない痕になってしまっては、ボクも胸が苦しくなるというものだ。だから、不可抗力ながらも見てしまった大人の最低限の責任として、ボクは魔法を使う。
「そぉーいッ!」
掛け声とともに、両手を上げた。すると、床に広がった水分が集まり、ふよふよと浮かぶ。あえて、その色や香りは気にしないでおこう。ボクは手を前に掲げて、その塊をトイレの便座の中まで持っていく。そして、ふっと気を抜いた。同時にパシャンと塊が崩壊し、トイレの中のあるべき場所に馴染む。
「おぉ! おーさま、すごーい!」
ボクのすぐ横で、ぴょこぴょこと飛び跳ねるカグヤ殿。このくらいのことは、大人ならば誰でも出来る魔法である。なんと返したらいいのかわからないまま、ボクはトイレの水を流す魔法を使おうとした時だった。
「カグヤがやるー」
ずずいとボクの前に出て、やる気と共に両手を上げるカグヤ殿。
「……無理しないでいいのだぞ?」
ここまでやってしまったのだ。最後までやっても大差はない。むしろ、ここで魔法に失敗して、トイレから水が逆流でもした時の方が大惨事だ。
ボク的には思いやりの言葉をかけたつもりなのだが、カグヤ殿は気に入らないのか、ぷくーっと頬を膨らませる。
「できるようになったから見せたいのー。『しゅくじょ』であること見せるのー」
「そんな単語、どこで覚えたのだ?」
「ろくろーじいちゃんが言ってたの! おーさまと一緒にいるためには『しゅくじょ』にならなければいけないのですぞ! て!」
こんなことになった元凶は、やはりロクロウの余計な一言だったらしいが。
どうやら、彼女が必死にボクに見せようとしていたのは、トイレを使うのに必要な魔法だったらしい。
聞いたところによると、彼女の世界である『地球』という場所と、この『アクティア』は、かなりのものが酷似しているとのこと。カグヤ殿に言わせれば、この世界は地球でいうところの『ネズミィシー』という名の『ユーエンチ』という娯楽施設にそっくりなのだという。町並みは『ファンタジー』みたいだけど、生活に必要な機材や設備は、『イマドキ』なんだとか。
たびたびよくわからない単語が飛び交うものの、こちらの世界でも、特に不便はなさそうとの本人談なのである。
ただし、魔法が使えれば、の話。
このアクティアでは当たり前なのだが、生きていくためには魔法が必要不可欠。
そのうちの一つが、トイレの水を流すことだ。腰を掛けて用を足す椅子型のような便器の形は、彼女の世界のモノと色や形も同じらしい。だが、彼女の世界のトイレには、どうやら何かを動かすだけで水が排水溝へと流れていくのに対して、こちらの世界では風圧を操作して、水を押し流し、再び廃棄物や臭気が上がってこないように、綺麗な水を生成、風圧で固定できるようにマナの調節をしてならねばならない。
言葉で説明すると色々と小難しいが、実際にやれば大したことはない。シュッパッパーンという感じだ。
カグヤ殿が真剣な顔で、トイレの便器を睨む。白光りする陶器で出来た便器は、もちろん王室ご用達の最高級品。色ムラがない純白のシンプルな加工にこそ、熟練した職人技が光る逸品を前に、カグヤ殿が両手を広げた。
「おトイレおトイレばっしゃっしゃーんっ!」
ちなみに、魔法の呪文は、本人の気が削がれなければ、何でもよいといわれている。マナを動かすために必要なのは、人の操る言葉ではない。人が考えるときに発せられる魔力という動力が、体内外のマナに干渉し、想像が具現化される。
という理屈は、それなりの年齢になれば誰しもが学ぶことなのであるが、ボクの解釈は至って単純だった。それっぽければよし。
そもそもボクは、さほど魔法には興味がないのだ。魔法が使えたからといって、幸せになれるわけではない――昔、ボクのひいひいお婆様がそう言っていたという、ひいひいお爺様の日記が、今も宝物庫の一角に保管されている。
カグヤが声に従い、トイレの水が廃棄物と共にバシャ―ッと流れていく。彼女が広げた手をキュッと握りしめると、トイレの水も細くなっていき、排水溝を蓋する形で少量の綺麗な真水がその場にとどまる。それは、彼女が一息ついても、そのままであった。
彼女の頭の黒い耳がピンッと伸びる。
「おーさま、見た?」
嬉しそうに振り返ってくる彼女の黒々とした瞳に、ボクも思わず顔をほころばせた。
「もちろんだともッ! バッチリではないか!」
「ばっちりなのー」
少し照れた様子で後ろ手を組んだ彼女が、前かがみになって左右に揺れている。モフモフとした耳の毛並みが美しかった。
ボクがそれを眺めていると、上目遣いで彼女が言う。
「褒めて?」
「む? さきほどの賛辞では足らぬか?」
「……撫でて?」
「う……うむ」
言われるがまま、ボクが彼女の小さな頭に手を伸ばす。耳があるから、どう手を動かしたらいいのか悩む。だが、その耳は芯のようなものがありながらも柔軟性に富んでいた。ボクが手を動かすのに従って、くたっと耳も曲がる。痛くはないかと彼女の顔を伺ってみるが、彼女は気持ちよさそうに目を細めているだけだった。モフモフとした耳の手触りと、つやつやとした彼女の黒髪の感触。撫でるたびにモフモフだったり、つやつやだったり、様々な毛並みを味わっていると、止め時を忘れてしまいそうになる。
が、それは彼女が顔を上げることで、終わりを迎えた。
「あ、レイチェルだー! 聞いてー。カグヤ、ちゃんとおトイレ魔法使えたよー」
「それは大変よろしいのですが……」
トイレのドアの外で、委縮している赤毛のメイドの姿。刺客からの攻撃をあっさりと受け流すほどの女性が、ボクを見て不安げに眉をしかめている。
「アンドレ様……お仕事の邪魔をしてしまい、大変申し訳ございませんでした」
カグヤから目を離してしまったことによる謝罪であろう。ボクは顔にかかる前髪を払って、彼女に尋ねる。
「いかに、どうしてカグヤ殿から目を離したのだ?」
すると、レイチェルがおずおずと答えた。
「それが……お部屋で一緒に絵本を読んでいたのですが、忽然とカグヤ様が消えてしまいまして……」
「……は?」
レイチェルの言葉に、ボクは思わず目を見開いてしまった。
忽然と消える――すなわち、それは空間転移の魔法を使ったということだ。それはかつて、伝説と称された魔導士である、ひいひいお婆様が得意としていた魔法の一つだった。現代、その魔法を使える魔導士は残念ながら、このオスカー王国にはいない。魔道大国といわれる東南の島国で、三人ほどその魔法を習得した魔導士がいるらしい。
空間転移の魔法の応用力も高い。その魔法が使えれば、使い方によっては一夜にして国を沈めることも可能だといわれている。それこそ、寝ている国王の枕元に転移して、その首を掻っ切ってしまうことも容易なのだから。ひいひいお婆様も、若かりし頃は、その魔法でブイブイ言わせていた――と、ひいひいお爺様の日記には書かれていた。ブイブイという表現が今の時代には残されていないので、今一つ様子が測り兼ねるものの、きっと秘密裏にひいひいお爺様の手助けをしていたのだろう。
そんな大魔法を、この幼女が使ったと、暗にレイチェルが言ったのだ。
「それは……誠なのか?」
「はい……まぁ、わたくしがついうっかり見ていなかった、という可能性も無きにしも非ずなのですが……」
「キミが仕事に手を抜くとは思えぬ」
「あ、ありがとうございます!」
ボクは当たり前のことを言っただけなのに、レイチェルはなぜか深々と頭を下げる。
ボクがカグヤ殿と向き合って、そのことを確認しようとした時だった。
「あ」
カグヤ殿が、ワンピースの裾を持って、頭から服を抜こうともがいていた。胸のリボンでつかえているのであろう。スカートの裏地が顔を隠して、黒い耳の先だけが身体の揺れに列れてウネウネと動いていた。ふっくらとした白いおなかが滑らかで、その下には白い――いや、ダメだ! 見てはいかん! 幼女とはいえ、彼女は立派なレディなのだ。伴侶以外の女性の裸を見ることなんて、この高貴たるべきこのボク、アンドレ=オスカー四世には許させざる行為であるッ!
「レイチェル! あとは頼んだぞッ!!」
ボクは慌てて、トイレから立ち去ったのだ。逃げたのではない、あくまで華麗に立ち去ったのだッ!